第三話

 その夜、部屋で泣いているあたしのところに、佐和子さんが来た。


「お雪ちゃん、なにかあったの?」

「いえ、何も・・・」


 とっさにそう答えたが、たった今だって泣いているのだ。何もなかったなどという嘘は、もちろん通用するはずもない。


「何もないならいいんだ」


 佐和子さんは、少しだけ微笑んで、


「ただ、お雪ちゃんの顔がちょっとだけ暗いような気がしたから」

「その、ありがとうございます。ご心配を……」

「あと、旦那様のご機嫌がかなり悪いの。だから何かあったのかなって思っただけ」


 旦那様の機嫌が悪いと聞いてぎくりとする。


「そう……ですか」


 あたしは涙をぬぐって、今日のことを言おうかと口を開きかける。

 しかし佐和子さんはそれを止めて、


「旦那様がお呼びよ。かなり機嫌が悪いから、気をつけてね」


 と、それだけを告げて、部屋から出て行った。


 ───旦那様がお呼び。こんな夜遅くに。


 もちろん、良い話のはずがない。


 考えられるのは二つ。

 それは、恐れていた夜のお相手をさせられるのか、またはまたあの人買いのところへ帰されるのか。


 どちらにしても、気が遠くなるほどの恐怖だった。


 しかし、今のあたしは旦那様の所有物に過ぎない。

 どんな答えが待っていようと、旦那様がお待ちなら、急いでいくしかない。


 たとえそれが旦那様があたしを抱くためだとしても、あたしは自分の足で歩いてゆくしかないのだ。


 ▽


「旦那様・……雪です」


 大声でお声をおかけしていいのかどうか解らなかったので、小さ目の声で声をおかけする。


「入れ」


 旦那様の声がして、あたしはぎくりとする。

 扉を開けると、部屋は薄暗く、旦那様は来客用の長椅子に横になっていた。


「旦那様、そんなところでお眠りになると、お体に障ります」


 慌てて駆け寄る。

 しかし、旦那様はそれを止めて、あたしに命令した。


「よい。別に寝ているわけではない。いいから、お前は俺の机の椅子に座れ」

「と、いいますと……旦那様?」


「俺の言葉はわかりにくかったか? 俺の机は一つしかない。そこには一つ椅子があって、それに座れと言っているのだ」

「は、はいっ」


 慌てて椅子に座る。

 椅子は思った以上に大きく、そして座りやすかった。


 ……落ち着かない。


「その……旦那様?」

「雪、お前、字が書けると言ったな。漢字もそれなりにわかるか?」

「わかります」

「それでは、目の前に、原稿用紙があるであろう」

「はい」


 机の上は乱雑に散らかっていて、中央に原稿用紙が置いてあった。


「開け」

「……はい。開きました」

「では、今から俺が言う言葉を、お前はそこに書きとめろ。ゆっくり話すつもりはないから、必死で追いついて来い。解ったか?」

「は、はいっ」


 何を書かされるのだろう?

 もしかして、あたしを人買いのところへ送り返させるための手紙を、あたし自身に書かせるつもりなのでは、と残酷な想像をした。


「それでは、まず漢字で『十二』、段落分けだ。読点と行頭はいちいち言わぬから、自分で対処しろ」

「はい」

「できるか?」

「はいっ!」


 そして、旦那様が語り始める。


 あたしはそれを必死に書きとめた。


 ▼


 十二


 これで、この恐怖から逃れることが出来ると思うと、死に対する恐怖よりも、生から逃れられるといった不思議な開放感で、彼は嬉しくてたまらなかった。

 

 喉は、嫌な音を立てて薬を飲み込もうとしたが、とたんに、どうにも嘔吐感が沸き起こってきて思うようにいかなかった。

 

 彼の喉は毒物を頑なに拒み、ここにきて彼は、またしても、自分の体と精神との食い違いで苦しんだ。


 「よう、そろう! 我が身体よ! 貴様は所詮、俺の隷属物の分際で、言うことが聞けぬと見える!」

 

 すると、今度は彼の体がそれに対し返答した。

 胸の辺りの、人型の痣が口を開き、ぱくぱくと動く。

 

 「よう、そろう! この俺が貴殿の隷属物だなどと、努々口走るなかれ! ならば何ゆえ、それほどまでに死と生を恐れる? 例俗物であったはずのこの俺に、膝を着いて、頭を垂れ、自ら隷属物に成り下がったのは、むしろ貴殿の方であろう」


 ▼


 ここまで一気に書かせると、旦那様はあたしに書かせた原稿を読ませろと言った。


 あたしは、おそるおそる旦那様にたった今書いた奇怪な文章をお渡しする。

 旦那様は体を起こして軽く目を通し、


「ふむ、思ったよりも問題はなさそうだ、雪。字もなかなかに綺麗だ。そのまま続けてよい」


 そう言うと、また長椅子に横になる。


 あたしは、謎めいた不気味さを感じ、震えながらもとの椅子に座る。


 そして、旦那様がまた言葉を語り始める。

 あたしは必死にそれを書き留める。


 それはこんな話だった。


 ▼

 ▼

 ▼


 部隊から孤立した海軍将校が、飢えに耐えられずに厳に戒められている人の肉を口にした。


 それが原因なのだろうか。

 戦争が終わり、田舎に帰ると、胸に人の顔の形の痣が浮かび上がっていることに気づく。

 そればかりか、体が少しずつ自分の思い通りにならなくなっていく。


 男は悪夢にうなされる。

 悲鳴を上げて飛び起きると、手や顔、それに服が黒ずんだ血に染まっていることに気づく。

 そして、その日の夕刊で、街の人々が殺され、肉を食われる事件が取り上げられているのを目にするのだ。


 男は、体に操られ、夜な夜な人の肉を求めて町を彷徨っていたのだ。


 男が恐れ慄き、なんとか眠るのをやめようとする。

 すると今度は、男の意識は起きたまま、声すら出せずに体が勝手に動き回り、道を歩く女を襲い、悲鳴を上げる女の腹の肉を食い散らかす。


 男は眠ることも抗うことも出来ずに、自分が殺した女の肉を食らう。


 そして男は「なんと甘露なのか」と感じている自分に気づき、愕然とする。

 どんなに抗っても、体が、心が勝手に動き回るのだ。


 この日を境に、男は体だけでなく、心まで病んでいく。

 自殺しようにも、体がそれを受け入れない。

 それどころか、胸の痣に裂け目ができ、流暢に言葉まで話すようになるのだ。


 男と人形の痣は「よう、そろう」と声を掛け合う。


 死ぬこともできずに、ただ人の肉を漁る。

 男の心は次第に肉体に隷属し、とうとう完全に食人鬼と化す。


 だが、勇敢な警官達によって捕らえられる。

 捕らえられた男は、まだ残っていた正気を振り絞って警官に全てを話すが、狂人の戯言としか受け止められない。

 証拠を見せようと男は警官たちに痣を見せる――しかしそこには何もない。


 痣が消えたことに男は歓喜する。

 哄笑する男に、警官たちは何度も警棒を振り下ろすが、男はそれでも笑うことを止めなかった。


 発狂した男は死刑を宣告される。

 しかし、なぜか普通のものを口にしても飲み込むことができず、とうとう独房の中で自らの体を食いちぎり始める。


「よう、そろう!」


 男は獄中でそう叫び、笑いながらゆっくりと死んでいく。


 ▼

 ▼

 ▼


 あたしは自分でも気づかぬうちに泣きじゃくっていた。

 霞む目をこすりながら、旦那様の言葉を聞き逃すまいと、必死で書きとめた。

 恐ろしい言葉ばかりを書かされて、途中で止めることもできない。


 この人食いの男は、今のあたしの姿だ。


「書き終わったか、雪」


 旦那様が仰った。

 でも、あたしは旦那様が怖くて、声を出すことすらままならなかった。


「雪!」

「はい……書き終わりました……!」


 聞き取れるかどうかわからないような小さな声で、なんとか返事する。


「なんだお前、泣いているのか」


 旦那様があたしのほうを向いて仰った。


「泣いておりません!」


 ──泣く女は嫌いだ。

 泣けば人買いに返品する──


 旦那様が仰られた言葉を思い出して、慌てて涙をぬぐう。


 きっと旦那様は変質者なのだ。

 こんな回りくどい方法であたしを怖がらせて、何が楽しいのだろうか。


「泣いておるではないか」

「泣いて……おりません」

「まぁよい。今日はこれで終いとする。明日の夜も同じ時間にここに来い」

「えっ……!」


 旦那様は意地悪く笑ってそう言った。

 あたしが震えているのを見て楽しんでおられるのは、間違いないように思われた。

 とっさに返事ができず震えていると、旦那様が怒鳴られた。


「雪! 返事はどうした!」

「はい! 明日も参ります!」


 あたしは半ば叫び声でそう返答した。



 その日は逃げるように部屋に戻り、泣きながら毛布を被った。

 なぜ、あんな意地の悪い仕打ちをするのだろうか。

 染みのようにに心からはなれない恐怖に震えながら、明日の夜のことを考えるとなかなか眠ることができなかった。

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