第五話

 それからたった二日の間に、新庄さんと佐和子さんが屋敷を去った。

 スエさんは特に何も言うこともなく、解雇を言い渡されたその日に出ていってしまった。

 薄情なことだと思ったが、スエさんの地元は東京だということで、旦那様というよりは新庄さんに着いて働いていたらしい。


 宮川さんは、そもそも歳のせいで体調が良くなかったらしい。

 何となく「あたしだけは屋敷に残るだろう」と察していたようで、使用人たちに退職金や旅費などを渡すと、あたしに最低限必要な引き継がを行なわれた。


 あたしの仕事は一変した。

 これまで宮川さんがやっていた旦那様の予定の確認を行ったり、新庄さんの代わりに食事を作ることになり、そうなると屋敷の掃除にまで手が回らなくなった。

 それでも旦那様と、時折訪れるお客様の目につくところだけは綺麗にしようと、あたしはほとんど休みなく駆けずり回ることになった。


 なかなか宮川さんや新庄さんのようには行かなかったが、あたしは旦那様のお役に立てるように、必死に自分の努めを果たした。


 旦那様は、書斎までお食事をお持ちすると「少し待て」と言って、区切りの良いところで手を止めて、きちんと食べてくださるようになった。

 きっと、旦那様がお食事を摂らないかぎり、決してあたしも食事を口にしないと決めていたのに気づいておられたのだろう。


 旦那様とはこれまでのようにお話しをする機会はほとんどなくなったが、食事中だけは少しだけお話しする機会に恵まれた。

 その内容は、昔のような小説や庭の風景などついてのではなくなり、ほとんどはお仕事に関わることや、日本の現状についてのお話しばかりになってしまったが、あたしにとって一番の幸せな時間だった。


 ▽


 週に一度か二度は、立派な髭を生やした軍人たちが訪れ、旦那様と話し合っておられた。

 旦那様は時に酷く怒鳴り散らすことがあって、あたしは思わず肩を竦めた。

 その度、お帰りになるお客様に非礼をお詫びするが、軍人たちの目にはあたしなどまったく映っていないようだった。


 旦那様のお仕事は日に日に増えていっているように見受けられた。

 何もお手伝いできないことを心苦しく思う。

 それでも、もしあたしがいなければ、旦那様はどうされていたのだろうと想像すると、自分がここにいることはきっと無駄ではないと思われた。


 自分のできる全ての仕事が終わると、あたしは書斎で旦那様の手が止まるのをひたすら待つ。

 そして、旦那様が就寝される前に腕をお揉みするのが日課となった。

 初めは鬱陶しがられたが、あたしが放っておくと、旦那様はいつまでも仕事を止めることがなさそうに思われた。

 だから強情に書斎で待ち続けることで、旦那様に無理にでも一日に一度はお休みだけをとっていただけるようになった。

 もしもあたしが無理を言わなければ、旦那様はきっと、たった数ヶ月ももたずに倒れられたのではないかと思う。


 旦那様はどんなに疲れていても、愚痴ひとつ言わずにひたすらに資料を読み込み、万年筆を動かし、そうでない時には何か思慮しながら、煙草を吸いながら書斎をうろうろと歩き回っておられた。

 そして、軍人たちが訪れると、また大きな声で怒鳴り散らした。


 ▽


 ある日、あたしは食事中の旦那様に声をかけた。


「旦那様、なぜあの方達にそれほどまでに辛く当たるのですか? あれでは旦那様のお立場も悪くなるのではないでしょうか」


 あたしが訊ねると、旦那様は匙を口に運ぶのを止めて、忌々しそうに答えられた。


「彼らには彼らの立場があるのは俺も理解している。だが、どうしても理解してもらわねばならぬこともあるのだ」

「理解しなければならないこと……それは何でしょうか」

「現実だ」


 旦那様は何かを憂うように首を横に振った。


「政治家も、軍人も、それぞれの立場がある。正義、あるいは大義名分と言ってもいい。野心のある狸も少なくないが、大半は本当にこの国のためを考え、行動している」

「それは、良いことなのでは?」

「だが、抗い難い目に見えぬ大きな流れがある。このまま流れに身を任せていては国が滅ぶだろう。それが現実だ」


 旦那様には、あたしたちにはわからない何かが見えている。

 それが理解できない自分がもどかしかった。


「それぞれの立場で、それぞれの正義や大義名分に基づき、流れを少しでも変えてもらわねばならぬ。だが、それには新たな視点が必要だ。世界を見ているだけでは決して理解できない。世界から見た日本を理解できなければ、この国は滅ぶ。だというのに……」


 旦那様は机を叩き、悔しそうに顔を歪めた。


「ほとんどの者は、それを理解しようとしない。あるいは、理解できてもそれを行動に移そうとしない。時間はもうほとんど残されていないと言うのに」

「それでは、戦争をせずに済ますことはできないのでしょうか」

「無理だろうな。開戦を避けることも、勝利することも、今となっては不可能に近い」

「その……旦那様は」


 それは、訊いて良いことなのか憚られたが、あたしは我慢できなかった。


「日本がお嫌いなわけではないですよね」

「何を言う。俺はこの仕事を任せられた瞬間から、日本に命を捧げ、日本のためだけに生きている。だが、勘違いするな、雪」

「何をでしょう?」

「俺が仕えているのは、政府でも、政治家でも、軍でもない。この国そのものだ」

「ならば、なぜ」


 一度決まったことに対して、旦那様は決して文句を言わず、ただ役割を果たしているように見えた。

 旦那様は、お客様との会議のあと、結局は彼らの言いなりになっている。


「なのに、なぜこれほど苦労して、お客様の言いなりになるのですか?」

「単純に、俺には決定事項に口を挟む権限がないからだな。かわりに、何かを決める時には、その決定が少しでも良くなるよう、彼らと可能な限り議論を深めている。彼らも俺との議論を必要としているからこそ、義務でもないのにこの屋敷に足を運んでいるのだ。だが、俺ができるのはその程度だ。……そうだな、お前にわかるように言うならば」


 旦那様は少し考えてから答えられた。


「雪。お前はなぜこうして俺なんぞに仕えている?」

「……雪は、ただ旦那様のお世話をさせていただくのが嬉しいだけです」

「同じだよ。俺も同じだ。お前が、自分を俺のものだと言ったように、俺もこの国の使用人の一人に過ぎない」


 いつの間にか、目の前の皿は空になっていた。

 旦那様は箸を置くと、すぐに書類に取り掛かる準備を始める。


「俺の思いなど、全体からすればどうでも良いことだ。俺には俺の立場があり、役割がある。その中でできることをするだけだ。故に、この身も、心も、俺のものではない。俺の立場が悪くなろうが、少しでもこの国の未来のためになるならば、どうでも良いことだ」


 旦那様はそう言うと、万年筆を手に取り、そのままお仕事に没頭し始めた。


 あたしはなぜか、旦那様の言葉に感動してしまい、泣きそうになってしまった。

 何に感動しているのかは、自分でもわからなかった。

 でも、なぜあたしがこれほどまでに旦那様の側にいたいと思うのか、その答えがわかったような気がした。

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