第四章
第一話
屋敷から使用人たちが去り、半年が過ぎた。
ますます忙しさを増していた旦那様のお仕事だったが、ある日を境にパタリと来客が減った。
旦那様がおっしゃるには、官僚として新たな役職を命じられたそうだ。
「議論の段階は終わった。あとは政治家の仕事だ」
そう言う旦那様は、どこか肩の力が抜けたようで、いつも険しい表情だったのが、少しだけ穏やかなものになった。
「そもそも、学者風情が政治に口出しすること自体、良いことではないしな」
「そうなのですか?」
「当たり前だ。だが、外国からの書簡を翻訳しているのが学者であるのも事実だ。必要があれば提言することもあるし、議論が必要な場合もある」
「だが、それももう終わりだ」と言って、旦那様は煙草を口にしたが、なぜか火をつけずにそれを箱に戻した。
どこか落ち着かない様子に見えた。
「ところで雪。確かお前の故郷は山形と聞いていたが、間違いないか?」
「はい、その通りです」
「一度見てみたいと思うのだが、迷惑か?」
「えっ」
あたしは驚いて訊き返した。
旦那様を見ると、表情がどこか寂しげだった。
「どうなさいましたか?」
「もう、直ぐにも戦争が始まるだろう。時間はほとんど残されていない」
「はい」
「だから俺は、俺の知らぬ日本を、今のうちに目に焼き付けておきたい」
その言葉は意外に思われた。
旦那様はほとんど屋敷から出ることがなく、旅行を好まれる印象がなかったからだ。
それは旦那様にとっても同じだったようだ。
「しかし、知ってのとおり俺はあまり旅に出たりする人間ではないのでな。東京以外は不案内で、他に行く当てもないのだ」
「さようですか」
「だから、もし雪が構わないというのなら、お前の故郷を見てみたいのだ。案内を頼めるか?」
「もちろんですとも!」
旦那様がそう仰るので、あたしは嬉しくて嬉しくて仕方なくなる。
「雪が、端から端まで案内して差し上げます!」
そう言うと、旦那様は嬉しそうな顔で、少しだけ笑ってくださった。
▽
旦那様が故郷の役場に視察を通達し、すぐにでもここを発つことになり、あわてて旅の支度をすることになった。
旦那様と一緒に行動するのなら、恥をかかせるわけには行かない。
最低限の身だしなみは必要だ。
旦那様はいつも質素な着流し姿だが、流石にそのままというわけにはいかず、仕舞い込んでいた背広を手入れした。
あたしも、いつだかの迎賓館に着ていった着物を引っ張り出してきた。
旅行カバンに荷物を詰め込みながら、あたしは胸を躍らせた。
故郷に思いを馳せる。
まさか、もう一度故郷の土を踏めるとは。
父と母は、元気だろうか。
弟達は飢えてはいないだろうか。
生まれてきた赤子は、数えで三歳のはずだ、大きくなっただろうか?
旦那様はあたしの故郷を気に入ってくださるだろうか?
村長は権力に弱い方だから、きっと旦那様を一番よい宿に泊めてくださるだろう。
何より、旦那様と旅行に出かけることが嬉しかった。
出発日の前日は、興奮してしまってなかなか眠れなかった。
あたしは自分の幸せの大きさに、少し怖くなった。
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