第二話

 東京駅から汽車に乗る。

 汽車が動き出し、風景が後ろへ流れ始める。

 東京から遠ざかっていくうちに、あたしはとても不思議な気持ちになった。


 故郷から東京へ向かうためにこの風景を見たときには、向かいに人買いの秦が座っていた。

 ただただ恐ろしく、未来に対する不安と、家族と故郷から離れる寂しさに押しつぶされそうだった。


 しかし今、向かいに目をやれば、誰よりも尊敬する旦那様が座っておられる。

 とても嬉しい気持ちで故郷に向かっている。


(きっと、次に東京へ帰るときには、たとえもう故郷の土を踏むことがないとしても、悲しいと思うことはないだろう)


 嬉しくて、どこか恥ずかしいような気持ちで旦那様を覗き見る。

 旦那様は背広に山高帽という珍しい井出立ちで、背もたれに浅く腰掛け、窓枠に肘をついて熱心に風景を眺めておられた。


「旦那様」

「なんだ」

「何か、お話しませんか」


 あたしが言うと、旦那様はむくりと体を縦に起こした。


「何を話すのだ」


 こうしてみると、旦那様の体はとても大きい。

 かなりの痩せぎすとはいえ、もともと大柄な方だ。

 しかし、なによりも旦那様のもつ雰囲気がとても大きく、これではよく旦那様のことを知らない者ならば、きっと恐ろしかろうと、私は可笑しかった。


「旦那様はただ外を眺めているだけで、ずっと黙ってらっしゃいます」

「当たり前だろう。何のための旅行か覚えているのか? おれは今の日本を少しでも目に焼き付けておきたいのだ。」

「人がいて、初めて日本ではないですか。誰もいなければ、この土地も日本ではありません」


 あたしはどうしてもなにかお話したくて、旦那様にそんな生意気を言った。

 旦那様は少し笑って見せた。


「口の立つ女よ」

「今、旦那様は雪のことを『女』と申しました。旦那様には、こんな小娘でも『女』なのですか」


 旦那様と、もう何度も繰り返してきた問答だった。


「誰がお前など。しかし、お前の故郷では、きっとお前は『女』として売られていったと思っていることだろうな」

「あ……」


 旦那様のお言葉で、あたしは我に返る。


 故郷では、あたしが娼婦か妾にでもなったと思われているだろう。

 気持ちがすっと暗くなる。

 しかし、旦那様が仰った。


「だが、胸を張れ。実際のお前は高級官僚の助手なのだから。あと、山形へ入れば、自分のことを『雪』などと呼ぶのはやめろ。名前を変えたりすれば、いかにも体を売る女に見えるだろうからな」


 そして、ふっと外に視線を向けられた。


「妾と旅行などと思われると迷惑だ」


 まるで自分のためであるような言い方だった。

 もちろん旦那様の本当のお気持ちはわかっている。

 嬉しくなって、つい礼を言いたくなったが、旦那様がそれを嫌うのもよくわかっていたので、ただ「はい」と素直に答えた。


「どれ、我侭女中のために、何か話しでもするか」


 旦那様は窓の外を眺めるのをやめて、あたしを見る。

 そういえば、こうして向かい合って旦那様とお話するのは、初めてかもしれない。

 そのことに気づき、少し驚いた。


「雪、お前は『ロタチオン』が好きだと言っておったな」

「はい。大好きなお話です。……一番大切な」


 旦那様は少しだけ笑う。


「どこが好きだ。書いた本人ながら、自分ではどこがよいのかさっぱりわからん」

「そうですね。雪は特に『繰り返しあなたと出会えるのならば、別れすら喜びです』のくだりが」

「そうか。うむ、俺もまだ若かったからな」


 そう言って、旦那様は少し暗い顔をなされた。

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