第三話

「雪、知っているか。俺には実は妻がいる」

「えっ」


 その言葉はあたしにはとても意外だった。


「では、奥様は……?」


 旦那様と出会ってから今日までの間、奥様がおられるという話は聞いたことがなかった。

 もしや、亡くなられたのかと思ったが、旦那様は首を横に振られた。


「若い頃の話だ。立場もあり、妻を娶っておく必要があったが、俺は女の扱いが苦手でな。とある宴会で出会った女を気に入って求婚した。一緒になったまでは良かったが、向こうはそれほど俺のことを好きではなくてな」


 旦那様はそう自嘲した。


「俺は華族との縁のある旧家の出であったし、父の資産を受け継いでいた。すでに学者としてそれなりに地位もあったので、同じ華族でも没落寸前だった家の娘に、俺の求婚を断ることなどできなかったのであろうな」

「では、奥様にとっては望まれない結婚であったと?」

「おそらく。しかし、俺は今の調子で忙しく、簡単な式を上げたあと、ほとんど顔を合わせることもなかったのだ。女は家にいて当然であるし、そのうち相手をしてやろうと思いながら、気付けば半年も過ぎていた」

「それは……何と言えばよいか、随分変わった話に思えます」

「事実だからしようがない。気付いたときにはもう家にはいなかった。俺は腹を立てたものだ。俺は国のために身を粉にして働いているというのに、なんと我侭な女だと」


 旦那様が笑うので、あたしは胸が痛んだ。


「お前も顔を出しただろう、迎賓館での会食で出会い、一方的に求婚し、妻が嫁いで来るともうほとんど口も聞かないありさまで……それから俺は、実は女がますます苦手になった。怖いとすら感じる」


 そう言って、旦那様は頭を掻いた。

 あたしは言った。


「奥様は、本当に旦那様のことをお好きではなかったのでしょうか」

「もし好きならば、逃げることはなかろう?」

「いいえ、もし嫌いな相手との望まない結婚であったならば、旦那様が家におられなくとも苦しいとは思わないのではないですか?」

「ものは言いようだな。少しでも想ってくれていたなら、待ってくれていただろう」

「実のところは雪にもわかりません。でも、もしかすると、好きだからこそ、ずっと離れ離れでいたことが苦しかったのかもしれません」


 その言葉を聞いて、旦那様は首を傾げられた。


「……女の考えることはわからん」

「でも、雪は旦那様の書いたお話を読むと、胸の辺りが熱くなります」

「だからどうした」

「旦那様は、本当は女の気持ちもよくわかってくださる方なのだと思います」


 あたしの言葉に、旦那様は驚いたように目を見開いた。


「もしそうだとすると、俺が逃げた妻を捜さなかったのは、残酷なことだったというわけか」

「わかりません。……奥様の行方はわからないのですか?」

「いや、おそらく実家に居るだろうな。だが、向こうの家は俺のことなどどうでもよいのでな。鳴滝の名前さえあれば、ほかの男とでも結婚させただろう」


 旦那様の言葉に、あたしは居たたまれなくなって答えた。


「奥様は今でも旦那様を待っておられるかもしれません」


 すると、旦那様は笑った。


「例えそうだとしても、俺はもう妻と再会する気にはならんな。というより、女は嫌いなのだ」

「……雪も女ですが」

「ただの小娘ではないか」


 旦那様はいつも通り、どこか小馬鹿にした様子でそう言った。しかし。


「それに、俺はもうこの国に命を捧げた。妻など、邪魔なだけだ」


 旦那様の口調は、だんだんと厳しいものになってゆく。

「国」という言葉を使うたび、旦那様の言葉は少しずつ強く、何かを決心したような響きを帯びていく。


「『ロタチオン』か。あの話は逃げた妻を想いながら書いたものだ。いつかまた会いたいと、そんな子供じみたことを思ってな」

「雪は子供じみたことだとは思いません。やはりとても美しい話だと思います」


 思えば、旦那様の個人的なことを、あたしは何も知らない。

 こうして心のうちを話してくださることに、あたしはこっそりと感謝した。


「雪。『ロタチオン』とはどういう意味か知っているか」

「いいえ。外国の言葉だということくらいでしょうか」

「ロタチオンとは、『繰り返す』という意味だ。人間は、いつも何かを繰り返す。過ちも、そうでないこともな。俺は、それが素晴らしいことだと信じていた。繰り返しと永遠は、同じ意味だと」

「はい」

「だから、当時の俺は妻がいなくなっても、いつか来世に会えるのならそれも良いと思ったものだ。しかし、今の俺はそうは思わない」

「もう、奥様をお好きではないのですか」

「少なくとも、もう思い出すこともないな。仮に、もう一度一緒に暮らそうと言われたとしても、きっと戸惑うだけだろう」


 旦那様はあたしをちらり見て、肩をすくめた。

 きっと、あたしが悲しそうな顔をしているからだろう。


「そういう意味では、もう会いたくない相手ではある」

「雪には……なにか寂しい感じがいたします」

「変な話になってすまないな。俺が言いたいのは、この世では、歴史も、心も、すべて閉じた輪のようになっていて、何もかもが繰り返されているということだ。日本人が、生まれ変わりを信じるのもそういったことからなのだろう」

「はい」

「しかし、最近の俺は思うのだ。繰り返されると言うことは、もしかして無駄なのではないか?」


 旦那様はあたしから目を逸らした。


「作っては壊し、生まれては死に、それを無意味に繰り返すのは、とても気の遠くなる無駄だ」


 窓の外は、すっかり都会から離れ、田舎の風景が流れている。


「雪は、どう思う」

「そんな風に考えたことがありませんでした。しかし無駄だとは思いません」


 旦那様は目を細めて、遠くを眺める。


「汽車に乗り、降りて、また乗って、それをずっと繰り返すようなものだ。もし、目的地がないのなら、なぜ汽車に乗る」

「わかりません」

「俺にもわからぬ。わからぬが、ただ繰り返しているだけでは無意味だということだけはわかる。だから俺は、もう繰り返すのではなく、そこから離れることを考えるようになった」

「……はい」

「戦争も、繰り返しのなかの一つの現象だ。だが、できればもう繰り返してはならないと、俺は思う」

「旦那様?」


 あたしには、旦那様の仰ることが難しすぎてよくわからなかった。


「俺達は、どこから来て、どこへ向かうのだろうな。ただ繰り返す為の人生なら、こんなに空しいことはない」


 旦那様は次第に声を落としてそんなことを仰った。


 どこへ向かうといって、それはあたしの故郷なのではないのだろうか。

 あたしにはそれ以上のことはわからなかったので、ただ黙って旦那様の仰ることを訊くだけだった。

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