ロタチオン

カイエ

序章

 あたしは二百円で見知らぬ土地に売られた。


 ▽


 昭和九年頃から数年続いた大雪による凶作で、東北地方は壊滅的な被害を受けた。

 あたしの故郷である山形も悲惨な状況だった。

 数年たった今でも、悪天候が過ぎたからと、そう簡単に元通りの生活に戻れるようなものではなかった。


 米農家を営む我が家も、数年に渡る冷害により収入が激減した。

 このままでは苗代さえままならない状況だった。

 それでも皆、なんとしてもこの状態を脱してみせようと死にもの狂いで働いた。

 父は農作業だけでは生きて行けぬと出稼ぎに行くようになった。

 上の弟も家業を懸命に手伝い、下の弟もいつもお腹を空かせながらできることを必死に探していた。


 もちろんあたしもできる限り家の手伝いをしてきた。

 しかし、女であるあたしにできることはそう多くないように思われた。

 家のことをいくら手伝っても、収入が増えるわけではないからだ。


 きっと、肉体労働では将来にわたりあたしが家族の役に立つ日は来ないだろう。


 その理由の一つが、あたしだけが学校に通う選択をしたことだった。


 ▽


 山形はもうずっと長い間、教育に力を入れていた。

 あたしも、村長からの強い勧めもあって高等女子校に通わせてもらっていた。


 学校は楽しかった。

 友達もたくさんできたし、弁論大会では好成績を残すことができた。

 本を読むことが何よりも好きだった。

 友人と好きなお話について語り合うことが何よりも楽しかった。


 学校に行くより家業を継ぐ道を選んだ弟たちも、あたしが学校から戻ると笑顔で「おかえり」と言ってくれた。


 しかし、この歴史的な大凶作により、東北は教育どころではなくなった。

 当然、我が家も子供を学校に通わせるような余裕はなくなった。

 学校を辞めたあたしは家業を手伝おうと奮起したが、家事手伝いの他にできることなど、せいぜい荷物運び程度だ。

 あとは右往左往するばかりだった。


 つまりあたしは、たった一人、役立たずだったのだ。


 あたしは学校へ行けなくなったことよりも、自分の存在が家族の負担になっていることが苦しかった。


 友人が一人、また一人と売られていく中、それでも両親や弟たちは一言も文句を言わずに、ただあたしを大切に愛してくれたのだ。


 そんなある日、思いがけなく母が子供を身籠った。

 母は、子供を生むにはすでに歳嵩だった。


 ▽


 母の悪阻はひどく、家業を手伝うことが適わなくなった。

 母は何度も堕胎を考えたらしいが、父の説得で考え直し、ようやっと生まれてくれば――両親にとってありがたいことに、それは男子だった。


 男なら、青年になれば家業を手伝わせることができる。


 しかし、母は酷い難産で腰と背中を痛めてしまった。

 乳の出も悪く、さらには前と同じようには仕事をすることが難しくなった。


 家はますます貧しくなった。


 それでもあと十年耐えきれば男手は四人となり、一家全員が飢え死にするような憂き目には遭わずに済む。


 そんな中、たった一人の役立たずの女だったあたしが売られることになったのは、至極当然の流れだった。

 たった一人、家業を手伝うことも出来ない小娘であるあたしは、残った家族の当面の生活のために売られることとなった。


 もう歳は十七――売られずに済んだ友人たちはみんな嫁に出てしまったというのに、未だ浮ついた話の一つもなく、家計を圧迫するだけだったあたしには、逃げようなんて気持ちはこれっぽっちも浮かばなかった。


 家族を苦しめるだけだった自分が、ようやく家族のためになれるのだから。


 ▽


 人買いは、背が低くガッシリとした、小太りの中年の紳士だった。

 西洋かぶれの黒い背広と帽子を被り、なぜか色ガラスのはまった金縁の丸い色眼鏡をかけた、あからさまに怪しい男だ。

 男は足が悪いのか、杖を片手にひょこひょことおぼつかない足取りで我が家にやってきた。


 あたしを買いに。


「これはこれは」


 そう言って被っていた帽子を脱いで胸に当てる。


「なかなかに可愛らしい。これならば、都会に出ればすぐにでも人気者になれるだろうよ」


 男は低い声でそう言って、ニィと口元を下品に歪めて笑った。


「私ははたという。お嬢さん――お嬢さんはたった今から私の所有物となる。解るかね?」


 そう言うと、秦と名乗った男は、泣きじゃくる母と弟たち――父はどこかに行っていなかった――が見ている前で、杖であたしのあごをグイと持ち上げた。


「わかります」


 あたしはそれだけを簡潔に答える。


「ふむ、ふむ」


 男は妙に感心した様子で、色ガラス越しにあたしの顔をじっとりと観察する。

 たまに杖を動かして、顔の角度を変えさせる。

 あたしはそれに逆らわず、されるがままに顔を動かした。


「ほう、ほう」


 土の付いた杖の感触が不快だったが、顔には出さなかった。


「あいわかった。百五十と言ったが、二百出そう。器量の良い娘で良かったな」


 そう言うと男は杖をすっと引っ込める。


(あっ)


 その拍子にあたしはよろけて男に向かって倒れ込んだ。


「おっと」


 しかし、男は足が悪いとは思えないすばやい動作でさっとあたしを片手で支えると、もう片方の手で懐から封筒を取り出した。


「そら、残金七十五円と、さらに、五十」


 男は指を舐めて封筒から出した札束を数え、母に突き出した。


おしょうしな……しおありがとう……ございます


 泣きながらも、母が頭を下げてそれを受け取る。


 よかった。幼馴染みだったスエちゃんは百円だったと聞いたことがある。

 どういうわけだか、あたしには高値がついたらしい。

 二百円……贅沢しなければ、家族五人が当分は楽に暮らしていける額だ。

 これで苗を買うこともできるだろう。

 少なくとも窮地は脱することができるはずだ。


トメよぉ……本当に、本当に悪れごどなぁ……オレど父ちゃんどご、許してけろなぁ」


 泣きじゃくりながら、母はかすれた声で言った。

 あたしも悲しくて、涙が流れるのを止められなかった。


 これから、あたしはあたしのままではいられなくなる。

 身売りされた田舎娘が都会でどう扱われるかくらい、あたしにもわかる。

 当たり前だけれど、怖いし、辛い。寂しい。

 殿方と手をつないだこともないあたしには、都会の男たちに慰み者にされる自分の姿など恐ろしすぎて想像もできない。


(でも)


 どんなに辛くともいつも笑ってくれていた母。

 どんなに疲れていても愚痴一つ言わず、酒だって呑みたかろうに一滴だって口にしなかった父。

 何の罪も無いのに、毎日おなかを空かせていた弟達。

 生まれてきた、目元があたしによく似た赤ん坊。


 だから、あたしは逃げたりしない。

 泣き喚いたり、抵抗したりもしない。

 きっとどんなことにでも耐えてみせる。

 あたしの体と心を切り売りすることで家族が助かるなら、何にだって立ち向かう。


「母ちゃん。オレのごどなもういいがら、その金で弟達さいっぱいご飯かせでやってけろ」


 あたしは精一杯の笑顔で、母にそう言った。


「あど、父ちゃんさも……逃げやって、ちゃんと挨拶言わんにぇがったげんど。オレの事、心配しねでけろって」

「留……!」


 母が泣き崩れる。


「姉さ!」

「留姉!」


 弟達も泣いている。

 あたしは最後に見せる顔が泣き顔になるのが嫌で、涙を拭いて笑って見せた。


 ちゃんと笑えてたかどうかは解らないけれど。


 秦はそんな様子をつまらなそうにじっと見ていたが、


「おお、もうこんな時間だ。名残惜しいだろうが、お嬢さん、付いて来なさい。今日の汽車はあと二本しか残っていない」


 そう言って踵を返し、家を出てゆく。


「はい、どうぞよろしく、お願いします」


 あたしはそう言って人買いに頭を下げてから、母と弟達に、


「母ちゃん。父ちゃんも、おだも……オレはこれがらもずっと、ずっと大好きだがら」


 そう言って、男の後を追った。

 追いながら、一度だけ振り返り、きっともう二度と帰って来ることのない家に向かって、祈るように頭を下げた。


 外は異常なほど明るかった。

 そのせいか、灯りの無い家の中はまるで穴蔵のようで――暗い穴の底からは、母と弟達の泣く声だけが聞こえてきた。


 ▽


「良いのかね、もう」


 少し先で待っていた、春の陽気がどこまでも似合わない黒い背広の男が言った。


「はい、もう」

「そうか」


 言って、男が空を仰ぐ。


 空が、悲しいくらい青く、明るかった。


 男が歩き始める。

 後ろをただ黙ってついていく。


 駅に続く広い道に出ると、男は「ふぅ」とひとつ息をついて立ち止まった。


 まばらに植えられた桜の木が風に揺れる。

 青い空に薄桃色の桜の花びらが、まるであたしを祝福するかのように舞っていた。


「……あの?」


 男が立ち止まったままなので、あたしは不思議に思って声をかける。


「桜が見事だな」


 男がぽつりと言う。


「桜?」


 男は色眼鏡越しに桜を眺めるながら言った。


「こうして見ると、数年前の飢饉が嘘のように思えるな」

「はぁ」


 男は表情も変えずに葉桜を眺めている。

 桜がお好きなのだろうか。


「桜はどんなに咲き誇ろうと、必ず散る。散ったあとは、ただ汚いだけの傷んだ赤茶の花びらになり、イラガの毛虫がうじゃうじゃとたかるだけだ」


 そう言って桜から目を離すと、男はヒョコヒョコと歩き始める。

 あたしはその後をただついていく。

 明るい道に、あたしと男の影だけがくっきりと黒い。


「女も桜のようなものだ」

「……でも、桜はまた来年咲きます」


 あたしは何気なくそう言ったが、男は、


「陳腐だな」


 と、たった一言答えた。


「はぁ……」


 あたしも気の無い返事をする。


 桜なんて、どうだっていい。

 あたしは、あたしのものではなくなったのだ。

 この体も、心も、髪の毛一本だってあたしのものじゃない。


 だから、空に舞う花を美しいと思う自由だってないのかもしれない――と、そんなことを思った。


 ▽


「お嬢さん、名前は……トメといったかな」

「はい。留まる子、と書いて、留子です」

「売られてくる女に多い名だ」

「そうなんですか?」

「そうだ。トメは止めるの止めトメ。女はもう要らないから、これで最後であってくれ、という気持ちでつけるらしい」

「……」


 聞いた事があった。

 もう女は要らないと思ったときに、子にそういった名前を付けることがあるらしい。


「それでもお前は恵まれている。望まれない子供は、誰も見送らない」

「そうなのですか?」

「ああやって、目の前で泣いてくれる親がいるというのは、とてもさいわいなことだ」


 男が、光の中をヒョコヒョコ歩く。

 足が悪いだけでなく、きっと普段から運動不足なのだろう。

 うつむき加減で歩く背広は汗ですっかり濡れていて、見るからに暑そうだった。

 たまに「むう」とか「ぐう」と苦しそうな声が漏れ聞こえる。


「あの、少し休まれませんか?」


 さすがに少し心配になって、あたしは男にそう言った。


「すぐそこに、座れそうな切り株がありますから」

「汽車の時間がある」

「最終では?」

「……」


 よほどきつかったのか、男は切り株にたどり着くと「よいしょ」と声をかけて座った。

 あたしはどうして良いかわからず、ただ横で立っていた。


「トメ」

「はい」

「お前は言葉が綺麗だな。母親と話すときはすっかり訛っていたのに、こうして聞けば東京の女と大差ない」

「ありがとうございます。学校で話し方の授業を受けていましたし、県の弁論大会にも出ていましたので」

「ほほぅ、所謂インテリゲンというやつか。女がそんなに勉強してなんになる?」

「いえ、女子は学校に通うことが推奨されていただけで、特に目的があったわけでは……」

「……」


 男が黙り、そしてまた空を仰ぐ。

 あたしは、この男の所有物のくせに話しすぎたかと思い、言葉を止める。


「なぜ黙る?」

「いえ、所有物があまりべらべらと話してはいけないのかと」

「気にすることはない」


 男が不快そうな表情のまま、口だけを動かす。


「話したければ話せ。黙りたければ黙れ。客に買われているときのお前はかもしれないが、それ以外のときは、お前はお前だ」

「え……?」

「所有者が誰であろうとな」

「……」


 あたしを買った男は、変な男だった。


「あの……」

「何だ」

「それでは、一つだけよいでしょうか?」

「言うだけならな。恨み言だろうがなんだろうが好きに喋れ」

「いえ、そうではなく、その……桜を眺めるなら、色眼鏡ははずした方がいいですよ」


 あたしの言葉を聞いて、男はやっと表情を変える。

 少し驚いたような表情だった。


「そうかね?」

「はい。せっかく綺麗なんですし、そんなからすの羽のような色ガラスを通して見るなんて勿体無いです」


 あたしがそう言うと、男がしばらく黙ってあたしを眺めたあと、色眼鏡をはずした。


「ひっ……!」


 あたしは思わず小さく悲鳴を上げた。


「別段、驚くほどのことじゃあない」


 男が下品に口をゆがめて笑う。


 男の目は片方しか無かった。

 鼻の頭から目頭、瞼、目じり、こめかみの近くまで真横に一直線の傷。

 眼孔には義眼がはまっておらず、落ち窪んだ瞼の奥はただの穴だった。


「お前のように売られてきた娘が、私を殺して逃げようとして付けた傷だ」


 そして色眼鏡をかける。


「お前も自由になりたければ俺を殺して逃げればいい。まぁ、そう簡単には殺されてやらんがね」


 男はにやりと笑う。

 だからあたしも答える。


「逃げようなどと思っていません。二百円という大金を両親に渡してくれたのですから、それ以上にお役に立たたなければ筋が通りません」


 そう口にしながら、震えている足に止まれと命ずる。


「それに……」

「なんだ?」

「……やっぱり色眼鏡は勿体無いです」


 勇気を出して言ってみた。

 男は少し笑うと眼鏡をはずした。


「そうか?」

「はい」

「では、そうするとしよう」


 眼鏡を胸ポケットにしまう。


「トメ」

「はい」

「汽車が出てしまう。もう間に合わん。次は三時間以上も後だ」

「はい」

「時間が余ってしまった。帰ってくると約束できるなら、自分だけのための最後の時間を過ごすといい」

「えっ」


 思わず聞き返す。


「あの……」

「なんだ?」

「いいのですか? もしあたしが逃げてしまったら?」

「なに、お前の親から金を取り返して帰るだけの話だ。無論、利子付きでな」


 何故か、男はあたしが必ず返ってくると確信しているように見えた。

 ならば、あたしはその信頼に応えなければならない。


「逃げたりしません……感謝します」


 男が驚いた表情を見せた。


「買った娘に感謝されたのは初めてだ」

「一つ、心残りがあったので」

「そうか」


 男はまた顰め面に戻ると、ハンカチで額の汗を拭った。


「ただし時間に遅れたらお前の値段を下げることになるぞ。必ず汽車に間に合う時間に駅に来い」

「はい」


 あたしが答えると男は顔を上げ、残された片目をまぶしそうに細めて桜を見上げた。


「なるほど、お前の言うとおりかもしれない」

「色眼鏡のことですか?」

「いや」


 男が言った。


「陳腐だろうがなんだろうが、散った桜は、また次の年にも咲く」


 ▽


 あたしがあたしでいられる時間は、あとほんの2時間ほどしかない。

 でも、それだって奇跡みたいな幸運であるはずなのだ。

 だからあたしは走った。


 目的地はそう遠くない。

 学校に併設された、図書室を兼ねた資料室だ。

 まだ読み終えていない、大好きな本があったのだ。


 資料室といっても名ばかりの、ただの小さな木造の小屋だ。

 本の大半が飢饉の際に売られてしまったせいで蔵書は少ない。

 お金持ちの道楽者ならば何倍もの本を書斎に集めていることだろう。

 だからあたしが図書館の本を網羅してしまうのは時間の問題だった。


 ――あたしが売られたりさえしなければ。


 図書館にたどり着くが、利用客は一人もおらず、がらんとしていた。

 そもそも文字を読める者が少ないのだから、当然といえば当然だった。


「……トメ?」


 驚いたような声が、あたしの名を呼んだ。

 村長だった。

 資料を探しに来ていたらしい。


「あ、村長さ、こんにちわ」

「いや、トメ、んでも、あの、たしかおめは……」


 村長が慌てた様子で歯切れの悪い疑問を口にする。

 あたしは村長が何を言いたいのかすぐわかった。


「逃げで来たなでねぇなだし。汽車ァ出だがらは、次な汽車の時間まで好きにしてでいいって言わっちゃんだっし」


 説明すると、村長が訝しげな顔であたしを見た。


「ほがな馬鹿な話ねぇべちェ。手ぇも縛らんにぇで好きにしてでいいァんて、ほがな話聞いだ事ねぇ」

あたしオレだってたまげったんだっし」

「……面倒だげ起ごすなよ」


 村長は「関わりたくない」と解りやすい態度で示す。


「はい。あのぉ、汽車の時間までに読んでおぎっちぇ本あんだげんども」

「貸さんにぇぞ。返ってこねべがらな」

「こごで読むがら。ほんで、いがったら、汽車出る時間の一時いっとき前ぐらいンなったら、声かげでけんにェべが」

「……分がった。最後だがらァ、ゆっくり読め。んで、どの本読むなだ?」


 村長は貸出棚に向かい、そう言った


「――『ロタチオン』。柏葉健治先生の遺作だっし」


 ▽


 1時間ほど経ち、村長に声をかけられるまでも無くあたしは立ち上がった。

 本を読み終えてしまったからだった。


 余韻に浸る。

 少し時間は残っている――でも、次の本に手を出す気にはなれなかった。

 それに、また読みかけの本を作ってしまえば、この先ずっとそれが気になってしまうに違いない。


 そうすると、私はいつまでもモノになれない。


 これからは、読みたい本に焦がれることすら許されない。


 だからあたしは、桜の花びらが舞う真っ白な世界に足を踏み出した。



「逃げずに来たか」


 駅の長椅子に座った人買いは表情も変えずに言った。


「逃げたりしません」


 あたしが答えると男は、


「心残りとやらとお別れできたかね?」


 と言いながら、杖を使って「よいしょ」と立ち上がる。


「はい」

「男かね?」

「違います」

「ほう」

「でも、恋人……ではあるかもしれません」

「どういうことかね?」


 男が訝しげな顔であたしを見た。


「この歳まで、殿方とお付き合いしたことはありません。あたしには、本が恋人でしたから」


 あたしの返答は意外だったらしく、男はずいぶんと感心して見せた。


「本が恋人か」

「はい」

「何の役にも立たんことだ」

「そうかもしれません」

「そら、これがお前の切符だ。今から東京まで丸一日以上の汽車旅だ」


 男は切符を差し出す。

 あたしが受け取ると、男は先に改札へと向かう。

 途中、男がつぶやく。


「お前も、故郷にお別れを言いなさい」


 それを聞いたあたしは、慌てて背を向けていた故郷に向かって頭を下げる。


「ありがとう、ございました」


 そう口にすると、いきなり涙がボロボロと溢れ出てきて止まらなくなった。


 もう帰ってこられない。

 この場所へも。

 今の自分にも。

 あとたった一日も経てばきっともう、あたしはあたしではなくなるのだ。


「……さようなら……」


 俯いたままそう呟いて、あたしは逃げるように改札をくぐった。


 生まれて始めての汽車旅だった。

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