第一章

第一話

 初めての東京は雨だった。


 ▽


 もう夜だというのに、東京駅には人が溢れかえっていた。

 東京は恐ろしい場所だと聞いていたので緊張していたが、何より人の多さに圧倒された。


 秦は何も言わずに、足を引きずりながら先を急ぐかのように早足で歩く。


 ――お嬢さん、お嬢さんはたった今から私の所有物となる。解るかね?――


 男の言葉を思い出し、あたしは慌てて小走りで男の後を付いて行く。


 傍から見て、あたしはどう映るのだろうか。

 きっと田舎者丸出しの、野暮ったい小娘に見えるだろう。

 垢抜けた東京の人々とは比べるべくもない――そんなことは自分が一番よくわかっているし、気にもならない。

 ただ、売られてきた女が周りの目にどう映っているのかだけが気になった。


 しかしすぐに思い直す。

 知らなければ、あたしが売り物なのだとは誰も思わないだろう。

 故郷で何度も見かけた光景――手首を縛られているわけでもなく、ただ男の後ろを付いて歩いているだけなのだから。


 ▽


 街はとても賑わっていた。

 お店が立ち並んでおり、色とりどりの可愛らしい雑貨や、美味しそうな食べ物が陳列されている。


(わぁ……)


 なんて可愛いらしいのだろう。

 こんなに沢山食べ物があるなんて。

 これを、父や母や弟達に食べさせてあげたい。

 一文無しどころか、自分自身ですら自分のものでないあたしに買えるはずもないのだけれど。


 はっと気付くと、少し先で秦が立って待っていた。

 秦は背が小さく、人込みに入ると隠れてしまいそうになるが、どういうわけか杖を持って立つ姿はとてもよく目立っていた。


「すみません……!」


 あたしは秦の側まで小走りで向かう。


「かまわん。どうせ今日は帰れば寝るだけだ」


 秦はそう言って、また背を向けてヒョコヒョコ足早に歩く。


「ここからな、まだしばらくかかるが……車を呼ぶから、もう少し我慢して歩け」


 拱廊(アーケード)の端まで着く。

 雨に濡れた道は泥濘んでいて、街の美しい彩色を映し出していた。


 秦が道沿いの長椅子を杖で差す。


「そら、トメ。そこで待て。私は交換所に行く」

「はい」


 素直にそこに座る。

 秦は足を引きずりながら、すぐ近くの大きな建物に入ってゆく。


 なんて人が多いのだろう。

 行き交う顔、人力車、馬車、自動車。

 まるで川のようだ。


 きっとあたしなんか本当に取るに足らない、大勢の中の一人に過ぎない。

 あたし一人がどんな風に扱われようと、誰も気にすることはないだろう。

 そう思うと悲しかったが、なぜだか少しだけ安心できた。


「そら、食え」

「ひゃっ」


 後ろからいきなり声をかけられて、思わず声を出す。

 人買いが、なにか紙包みを差し出している。

 素直に受け取り、どうして良いかわからず包みを眺める。


「そこの店で買ってきた」


 男が促しながら、自分でも袋から何かを取り出して見せた。

 あたしも真似して中身を取り出しながら、どうやって食べるものなのか観察した。


「なんだ、パンを食うのは初めてか、トメ」

「いえ、パンは知っていますが、これはあたしの知っているものとは違うみたいです」

「ああ、サンドイッチだ」

「サンドイッチ……本では読んだことがありました。どんな食べ物なのだろうと考えていました。これが……」

「これは本ではなく、目の前にある現実だ。いいから食え。すぐ車が来るぞ」


 言われて、男がやっているように、そのままかじりつく。

 うまく食べられず口の端を汚してしまったので慌てて拭う。

 それは思ったよりも柔らかくて、初めての味がした。


「どうだ」

「美味しいです。とても」

「そうか」


 夢中になって食べる。

 きっと高価に違いない。

 この男は相当な金持ちなのだろう。

 でも、いつも食べている米の飯が恋しかった。


「トメ、ぐずぐずするな。車が来てしまった」


 男が立ち上がる。


「え、あの………」

「残りは車の中で食え。とりあえずは私の屋敷に向かう。お前の売り先は明日以降に決める」


 男が平然と言った言葉で、ぎくりとする。


 ───お前の売り先。


 そこは、きっと沢山女がいて、男に体を売る店なのだろう。


 足が震える。

 故郷ではどこか夢物語の中の出来事のようであったのに、今はとても実感している。

 近い将来、私は男たちの慰みものになる。

 怖い。

 怖くてたまらない。


「トメ!」


 人買いがあたしを呼ぶ。

 はっと我に返り、震える顔を上げてみると、そこには黒塗りの大きな車が停まっていた。

 制服を着た運転手が男に傘を差し出している。


「乗れ。何を突っ立っておるか」


 そう言って男は先に車に乗り込む。


 あたしは一瞬、逃げることを想像する。

 男は足が悪い。必死に逃げれば追いかけては来られないだろう。

 でも、故郷にいる家族のことを考えるとそんなことはできなかった。


 それ以上に。

 あたしには、東京で一人で生きていくすべなどないのだ。


 あたしは素直に車に乗る。

 故郷では見たこともない、とても立派な車だった。


 ▽


 雨の中をしばらく走り、男の屋敷に着く。

 とても大きな一軒家で、灯りが入っていなかった。


 男はごそごそとポケットを漁って鍵を取り出し、扉を開ける。


「入れ。誰もおらんから、遠慮はいらん」


 秦はそう言いながら、ヒョコヒョコと中に入ってゆく。


 ───誰もいない。

 つまり、このがらんとした家でこの男と二人きりになるということだ。


 ふと、男に襲われるのではないかと嫌な想像が脳裏をかすめる。

 足が不自由とはいえ、相手は男。

 故郷で、男がよろめいたあたしを片手で軽々と支えたことを思い出し、ぞっとする。


 しかし、あたしはこの男に買われたのだ。

 逃げることも出来ないのなら、素直に従うしかない。

 そう自分に言い聞かせるが、足が震えて思い通りに行かない。


「トメ!」


 中から声が聞こえる。

 パッと灯りがついて、男が杖をついたまま立っているのが見える。


「はい……」


 不安と恐怖に押し潰されそうになりながらも、あたしは男の家の玄関をくぐる。


「何をしておるか」

「いえ、何も……」


 そう答えてはみたものの、体が震えてどうしようもなかった。


「何だ、震えておるのか。気丈な娘と思ったが、やはり小娘は小娘だな」

「……申し訳ありません」

「ふむ……」


 男はいつかと同じように杖をツイと上げて、あたしのあごを持ち上げた。


「真っ青だな。今からそんなことでは務まらんぞ」

「すみません……」

「だが、始めは誰もがそんなものだ。ほとんどの者はすぐに慣れる。それに」


 男がそう言って、さらに杖を上に上げる。

 あたしは逆らうことも出来ずに、ただ耐えることしか出来なかった。


「慣れることが出来なければ、まともな店では客を取らせることすらできなくなる。そうなれば、ますます程度の低い店に売られ、しまいには死んだ方がマシという環境に身を落とす。自分で命を絶つものもいるが、故郷の家族に迷惑をかけることになるな」


 男は、あたしの恐怖心を煽るように淡々と言葉を続ける。


「わざわざ辛い生き方を選ぶな。自由にはなるまいが、それでも出来る限り良い店を探してやろう。しっかりと客に尽くせば身受け話の一つや二つ出るかもしれん」


 男はそう言って杖を降ろす――今度は無様によろけずに済んだ。


「長旅で疲れたろう。部屋を用意させてある。ゆっくり眠るがいい。二階の一番手前の部屋を使え」


 男は杖で、二階の一室を指し示す。


「ありがとうございます」


 礼をして、あたしはとにかくその場から逃げるように男の横をすれ違い、階段へ向かおうとした。

 と、男が何かを思いついたように言葉を続けた。


「ああ、そうだトメ」

「は、はい」

「お前、何か得意なことはあるか?」

「いいえ、特には……家事であれば一通りできますが、特には」

「そうか」


 秦は何かを考える素振りを見せたが、


「まぁよいだろう。明日からに備えてよく眠っておけ」


 そう言うと、奥へと歩き始める。


(明日からに備えて……)


 男の言葉を反芻する。


(しっかりと客に尽くせば……)


 男の言葉がぐるぐると頭を回る。


 少しずつ意味が染みとおり、恐怖が胸から湧きあがってくる。


 あたしは走って部屋に向かう。

 男の言う部屋の扉を開けると、布団だけが敷いてあるだけの、がらんとした部屋だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る