第二話

 布団に入ったものの、どうしても眠れなかった。

 身も心も疲れていたが、男の言葉が、明日への不安が付きまとい、湧き上がる恐怖を抑えられなかった。


 目を閉じて、意識を失えばすぐに明日になってしまう。

 そう思うと眠ることが恐ろしくてたまらなかった。


 こうして横になっているだけで、もぞもぞと身体を男たちに漁られているような不快感が這い上がってくるようで、叫び出しそうになるのを抑えるだけで必死だった。


 この恐怖は、決して夢ではない。

 夢であればどんなに良いだろうと、本で読んだイエス様に祈ってみる。

 しかし、現実は何も変わらない。

 朝になればあたしは客を取らされ、身も心も汚されてしまう。


(まだ人を好きになったこともないのに)


 そう考えたとたん、止め処もなく涙があふれ出てきた。

 ただひたすら朝を待つことしかできなかった。


 と、

 階下から、なにか妙な声が聞こえたような気がした。


(なんだろう、この声)


 よく耳を澄ます。


 ――ぐぅっ! ふぅっ! ふううぅっ!


 うめき声だった。

 まるで断末魔のような、苦しげな声。

 さらには「ドタン」と何か重たいものが床に落ちたような音。


 あたしは怖くなり、いっそこのまま眠ってしまおうと、布団を頭まで被る。

 もう諦めて、何もかも考えるのをやめてしまおうと思った。


 しかし、ふと気付く。

 もしかして、人買いの男の身に何かあったのでは――?


 あたしは体を起こし、恐る恐る部屋のドアを開け、裸電球が一つ点いているだけの暗い屋敷の中、うめき声の出所を探した。


 階下に下りるとうめき声が大きくなった。

 それがあの男の声であることは間違えようもなかった。


「お、おじさま!」


 男をどう呼んでいいのかわからなかったので、仕方なく「おじさま」と呼んだ。


「おじさま! どこですか! おじさま!」


 返答はなかった。

 そもそも男はうめき声を上げている状態なのだ、返事する余裕などないのだろう。


 あたしは耳をそばだてて、手探りで暗い中を進み、とうとう声の出所を見つけ出す。

 一番奥まった部屋だった。


 ───ふぅっ! が、ぐぅっ! ふぅっ!


 男の様子はただ事ではなかった。

 あたしはドンドンと扉を叩いた。


「おじさま! 大丈夫ですか!」


 大声で呼ぶと、中から微かに「トメか」と掠れた声がした


「そうです! 大丈夫ですか!」


 何度も扉を叩く。


「なんでもない……部屋へ戻れ……」


 秦の声は、もはや息も絶え絶えといった様子だ。

 無理をしているのは明らかだった。


「扉を開けます! しっかりしてください!」


 あたしはそう言って、扉を開けた。

 扉は半分ほどしか開かなかった。

 男は扉の近くで倒れていた。

 おそらく寝台から落ちて、ここまで這ってきたのだろう。


「おじさまっ!」


 駆け寄ると、男がそれを弱々しく制する。


「何が……おじさまだ……部屋へ戻れ……! こんなのは……いつものことだ……」


 男は途切れ途切れに言葉を発する。

 強がりであることは一目瞭然だった。


「死んでしまったらどうするのです! そうだ薬! 薬は……!」

「……部屋の、薬は切、らしたようだ。台所の一番、奥の棚……の上に……予備の……」


 男はそこまで言うと動かなくなった。


「おじさま!?」


 小さく悲鳴をあげる。

 薬だ。とにかく薬を用意しないと。


 あたしは部屋を飛び出して走った。

 台所はどこだ。手当たり次第に扉を開けて回る。

 どうやら玄関を入ってすぐの扉が食堂のようだった。飛び込んで部屋の奥へ向かう。扉があったのでそこを開けると、案の定そこが台所だった。


「薬! ……と水……!」


 男の言う通り、台所の奥には棚があった。

 丸盆には茶封筒が置いてあったので中を検める。

 薬包紙に包まれた薬が入っていた。


 封筒を握り締め、湯呑みに水を入れて男のもとに走った。


「おじさま! 薬です!」


 薬を渡そうとするが、男はすっかり気を失っている。


(どうしよう、どうしたら……!)


 何をどうして良いのかわからない。

 その気もないのに涙があふれ出る。


「おじさま……! 薬を飲んでください!」


 必死に呼びかけながら体をゆするが、男は苦しげにうめくだけで何も答えない。

 呼吸は浅く、そして荒い。


 死んでしまう。

 あたしの目の前で。


 あたしは薬を取り出し、なんとか男の口に流し込もうとする。

 うまくいかなかった。


「飲んでください! お願い……!」


 粉薬は男の歯に阻まれ、水を飲まそうと少しずつ水を垂らすがうまく行かなかった。

 頬を薬が流れてゆくだけで、男の喉に届かない。


(母ちゃん……父ちゃん……あたしオレどうすれば……!」


 あたしはグッと歯を噛み締める。

 薬と水を自分の口に含み、男の口に少しずつ流し込んだ。


(飲んで……)


 男は弱々しくゴクリと喉をならす。

 とにかく、一袋は飲ませる必要があるだろう。

 あたしは夢中で男の口に薬を流し込んだ。


 時間をかけ、何とか全て飲ませ終わる。

 男はまた少し呻いて、薄っすらとまぶたを開けるが、すぐに目を閉じる。


 あたしは抱きかかえた格好のまま、この男を寝台に上げることを考える。

 どう考えても無理だった。


 しかたなく、あたしは男を膝に抱いたまま、いつの間にかそのまま眠ってしまっていた。

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