第23話.水族館デートにいきました~ゴマフアザラシは大変だ
「このイソギンチャク。触手がかわいいです……。ゆらゆらしてます」
新名さんが水槽に顔を極限まで近づけている。反射して見える彼女の緩んだ頬が、とてもかわいい。
あの電話で、ぼくは新名さんを水族館に誘った。
ぼくが自ら新名さんに提案した初めてのデートだ。
会った直後は、あまり目をあわせられなかったけど、魚たちの魅力によって、ぼくらの距離感も次第に戻りつつあった。
「ねえ、新名さん。あれってゲームセンターの」
「ゴマフアザラシ、ですね」
2体のゴマフアザラシが、水槽に潜り、ひれをつかってうまく水を蹴って進んでいる。なんだか追いかけっこしてるみたいだ。
「ゴマフアザラシのお母さんって、生後三週間くらいしか子育てしないらしいですよ」
「え? じゃあ子どもはその後一人で生きていくの?」
「はい。でも獲物の取り方も教わっていないので、何も食べることができなくて。お腹がすいて死にそうになってから本能で魚を捕まえるらしいです」
「へえ。こんなにかわいいのに。自然の中で生きるって大変なんだね」
それに比べたら、ぼくは恵まれてるなぁ。17年生きてきたけど、いまだに親に養われてるもんな。感謝しないと。
「見てください! 相田さん」
新名さんの視線の先には、水槽に入れたお客さんの手をつつく、たくさんの魚の姿があった。
「なんかたくさん集まってきてるね。」
「人間の古い角質を食べてくれるみたいですよ」
「そうなんだ。おもしろいね」
「私も次、やってみます!」
魚たちを前にかなり興奮している。
こんな新名さんもいいなあ。
きれいな細く白い指が水の中に入る。
すると、すごい勢いで魚たちがよってきた。
「ふふふ。くすぐ……くすぐったいです」
か わ い す ぎ る
普段の新名さんからは絶対に聞けない声だ。それに色っぽさもある。くすぐりによって強制的に笑わせられてる状況も含めて、かなり萌える。
おい魚、そこ代われ。
「ふう。くすぐったかったけど、なんだか手がきれいになったような気がします」
「たくさん食べてくれてたもんね」
やっぱり魚もかわいい女の子の角質の方が好きなのかな。
……なんか腹立ってきた。魚の分際で新名さんの手にキスするなんて。ぼくだって新名さんの角質を食べた――(自粛)
……………………………
「え? 水族館ですか。はい。大丈夫です。はい。わかりました。気をつけて帰ってくださいね。はい。また明日。楽しみにしています。はい。失礼します」
私が告白を拒んだ夜。
後輩からの電話を取ると、その向こうには彼がいました。
なぜでしょう。自ら手放したはずなのに。
あの二人が一緒にいるという事実に、私の胸は、どうしようもないほど、締め付けられてしまうのです。
中学生の頃。
私にとってこの世界は、生きにくすぎるものではなかったけれど、見えない他者によって作りだされたその空気はどこか重くて、いつも苦しかった。
そんな時、私はニーチェに出会いました。そして、別の世界の存在を知ったのです。他者によって作られた価値ではなく、自ら思考し、価値を創造する世界。
自由と孤独の海を。
私はその海に飛び込み、泳ぎ方を模索しました。陸の上のたくさんの人々を横目に、たった一人で。少しだけ寂しかったけれど、それよりも、この解放的な海の中で自分の可能性だけを追い求められることが、すごく嬉しかったのです。
けれど今年。高校二年の春。
いまでは慣れ親しんだこの海に、一人の男の子が底へと沈んでいこうとしていました。彼は浮かび上がろうとさえせず、まるで、自分はここを泳ぐ資格さえないのだと、言っているようでした。
私は彼を助けたいと思いました。それは同情でも憐れみでもありません。
ただ、彼ならきっと、私とこの海を泳いでくれる。そう思ったから。
そして私は彼に、私の知っている泳ぎ方を伝えて。彼も自分なりの泳ぎ方を考えて。彼は初めての、私の海のお友達でした。
でもきっと、彼にとっての特別な人間は私ではない。別の女の子なんです。
私たちの海の存在を知りながら、なお地上で自由を求める少女。それはきっと、私にはできない生き方で。私はただ、それを海から眺めるしかない。
でも彼は違う。だってあの子と話す時、彼はとても活き活きしているから。私といるときよりもずっと。
私もあの子のことは好きだけど、どこか憎く思えてしまう。そんな自分が嫌でした。
そうだ、彼を手放せばいい。彼を想う気持ちすべてを。だって、ここは最初から孤独な場所だった。友を失うことなんて恐れる必要はない。
私は一人で泳げるのだから。
だけど、なぜでしょう。この胸の痛みが、今も、広がっていくのは……。
再び携帯の着信音が鳴る。画面には『暁月奏』という名前。
「もしもし。新名です。今ですか? はい。大丈夫ですよ――」
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