第5話.哲学研究部、始めました~推しに褒められると嬉しい

 放課後となり廊下は生徒で賑わっている。

 ぼくの隣には新名にいなさん。愛らしい横顔を拝む悦びを噛みしめる。ああ、幸せだ。


「相田さん、なんだか嬉しそうですね」

「そ、そうかな」


 つい幸せが顔に漏れていたようだ。恥ずかしい。気をつけよう。


「それにしても、よくこんなに速く話が進んだね」


 部活の件。今朝初めて相談したのにも関わらず、もう顧問と部室が見つかったらしい。こんなに速く決まるなんて。もしかして、新名さんほどの人格者となると、学校を動かすのさえちょちょいのちょいなのか? そうなのか?


「実は、うちの高校に大学院の哲学科を卒業された先生がいらっしゃいまして、その方に相談してみたんです。そうしたら快く協力すると言ってくださいました」

「おお! それはラッキーだね」


 どうやら、超越的な力を行使したわけではないらしい。なぜ先生の出身学部を知っているのかは謎だけど。でも、大人相手でも動じないところはやっぱり尊敬してしまう。ぼくなんか職員室に入るだけでおどおどしちゃうもの。


「相田さん、ここです」 


 その教室は廊下の端にあった。放課後にも関わらず、生徒がほとんどいないのでかなり静かだ。扉には薄く『文芸部』という文字が見える。ここが部室予定地か。


「入っていいのかな」

「はい。顧問になって下さる先生も既に中にいらっしゃるはずです」


 え、もういるの? 哲学ってなんか堅いから先生も怖そう……。うう、緊張する。

 と、ぼくがびびっている間に新名さんが扉をノックした。


「失礼します」

「はい、どうぞ」


 落ち着いた低い声に促され、新名さんが中に入っていく。とりあえず、ぼくもその背中を追う。ま、まだ心の準備が。


「お、来たね、二人とも。待っていたよ」


 部屋には、机と椅子が無造作に並べられていた。

 その内の一つに、50代ぐらいの眼鏡の先生が座っている。


「新名くんと……君が相田くんだね?」

「は、はい。相田翼です。えっと、に、二年生です。よろしくお願いします」

「山口です。普段は世界史を教えています。よろしくね」


 小学生のような挨拶しかできなかったが、優しそうな先生でひとまず安心する。


「先生。この度は本当にありがとうございます」


 新名さんがお辞儀するのを見て、ぼくも慌てて頭を下げる。さっきから新名さんについていってばかりで不甲斐ない。一応17年生きてきたんだ。しっかりせねば。


「いやいや。私も前々から若者が哲学を学ぶ場所を作りたいと考えていたんだよ。でも、高校生に馴染む学問ではないし、半ばあきらめていたんだ。だから今回、新名くんに哲学の部活を作りたいと相談されて、とても嬉しかったよ。ありがとう」

「そんな……! 感謝するのは私の方です。部室まで探していただいて。本当にありがとうございます」

「私は何もしとらんよ。やっと哲学の部活が作れると教頭に話したら、そこで活動してはどうかと提案してもらえたんだ。五年前までは文芸部が使っていたんだが、廃部になってからずっと空いているんだと。だから気にすることはない」


 あくまで自分は何もしていないという姿勢。謙虚だなあ。こんな大人になりたい。


「まあ、堅いはこのくらいにして」


 山口先生は眼鏡を外し、ぼくたちに問い掛けた。


「君たちはどうして哲学に興味を持ったんだい?」


 先生の目が少年のように輝く。新名さんが哲学を語る時と同じ目だ。

 きっと、哲学を愛する者の性なのだろう。


「私は中学生の時、ニーチェの『道徳の系譜』を読んだのがきっかけです!」

「ほお、中学生。すごいな。難しくなかった?」

「正直、内容はあまりわかりませんでした。でも、自分の価値観が根本から揺るがされているような衝撃を受けました。それから、哲学を通して道徳や正義、自分の生き方を考えてみたいと思ったんです」

「そうかそうか。いいなあ。ニーチェか。私も若いころ没頭したものだよ」


 山口先生は腕を組み、何度も深く頷いている。共感が限界突破しているようだ。

 それにしても、よく中学生であれを読んだよな。毎度驚かされる。


「相田くんはいつから哲学を?」

「えっと。ぼくは最近、新名さんの影響で興味を持ったばかりで……」


 最近というか昨日だけど。にわかでごめんなさい。


「おお。いいじゃないか。私も哲学に興味を持ったのは高校生の時だった。ソクラテスの生き方に感銘を受けてねえ。いやぁ。若いね。青春だなぁ」


先生は目尻を下げ、嬉しそうに語った。素人は帰れとか言われなくてよかったー。


「活動の内容はもう決まっているのかい?」


 そうだ。何するんだろう。哲学を学ぶ部活ってことしか聞いてないな。

 見ると、新名さんもまだ迷っているようだった。


「実は具体的な事はまだ何も決めてなくて。一緒に哲学をする仲間が欲しいということしか……。すみません」


 しゅんとなる新名さん。小さい子どもみたいでかわいい。うちに欲しい。

 ……お巡りさん違うんです誤解です許してください。


「でも、何らかの形で哲学の魅力を発信したいです」

「いいじゃないか。楽しみだ。焦らなくてもいい。伸び伸びと議論をして、学びを深めてくれたまえ」

「はい!」

「では、私はそろそろ戻ろうかな。何かあればまた遠慮なく相談してくれよ」

「ありがとうございました」


 こうして、山口先生は去っていった。

 残された二人。ここに、ぼくたちの部活動が始まったのだった。


※※※


 最初の活動は、部室の掃除だった。

 大量にある机と椅子を、ぼくは壁の方へと寄せていく。そして、空いたスペースを新名さんが掃く。初めての共同作業である。言葉通りの意味よ?


「山口先生はソクラテスが好きなんだね」


 机たちを運びながらぼくは言った。たぶん教室で使われなくなったものが集められているのだろう。脚が脆くなっていて、かなり持ちづらい。


「そうみたいですね。私も尊敬する哲学者の一人です」

 

 箒でほこりを集めながら、にこやかに新名さんは答える。ちょこちょこ動いていてとってもかわいい。目の保養だ。と、見とれていたせいで、さっきは椅子に膝をぶつけたので、まじで気をつけよう。まだ痛い……。


「ソクラテスは哲学の祖と言われているんですよ」

「へ~。たしかに、ぼくでも聞いたことあるもんな。何をした人なの?」

「そうですね……。『無知の知』ってご存知ですか?」

「えっと、何も知らないということを知っているってことだっけ」

「はい! そのとおりです」

 

 やった、正解だ。

 つまり今のぼくは、何も知らないということを知っているということを知っているという状態なわけですね。ははは。


「ソクラテスは問答法というやり方で、相手にも自らの無知を自覚させ、そこから共に真理の探究を目指すことを試みます。しかし、それが一部の知識人たちの反感を買い、最終的に彼は不正に死刑を宣告されてしまうんです。でも彼は『悪法もまた法なり』、つまりどんなに悪い法律でも、それが法律である限りは守らなければならないという信念を貫き、逃亡の機会があったにもかかわらず、その死を受け入れるんです」

「死を前にしても自分を曲げないのか……すごい覚悟だね」

「彼のように、私も最後まで信念を貫ける人間ありたいと願っています」

 

 そして、彼女はまるで、自分に言い聞かせるように呟いた。


「感情に流されない生き方を……」


 それは、なんびとも踏み込むことを拒むような、冷たい響きだった。

 そういえば、今朝も同じようなことを言っていたな。新名さん、感情に流されて失敗した経験でもあるのかな。ぼくはたくさんあるけど。

 まあ、詮索はやめよう。聞かれたくないこともあるだろうし。ぼくだって、新名さんを見てにやにやしている時に、『なにがおもしろいんですか?』とか聞かれたら、恥ずかしくてまともに目を合わせられなくなっちゃうもんね。

 そこで、ぼくは先ほど考えていた別の話題を振った。


「そういえば、さっき哲学の魅力を広めたいって言ってたよね」

「は、はい。たくさんの方と学びを深めていけたら嬉しいです」

「少し考えたんだけど、たとえば哲学作品を紹介する記事を作るとかどうかな」

「記事、ですか」

「うん。ぼくも新名さんの想いに惹かれてここにいるから。そんな想いがこもった記事をいろんな人に読んでもらえたら、興味を持ってもらえるかなって」


 哲学って難しいし、まだよくわからないけど。

 これから多くの選択が待つ高校生だからこそ、きっと心にに響くものがあるはずだから。


「それ、いいですね! 活動が形にもなりますし、何よりいろんな方に知ってもらえますもんね。さすが相田さんです」

「ふへへ」


 褒められたのが嬉しくて気持ち悪い声が出てしまう。ああ、どうか新名さんの耳には届いていませんように……。


「後は部活紹介の準備ですね」

「あれ? なんだっけそれ」


 うちの学校にそんなイベントあったっけ。なんか気がついたらみんな部活に入っていたという印象しかない。ぼくも入学初日から帰宅部に入部したし。

 それはそうと。ぼくの不快な声は聞かれていなかったみたいでよかった。……あえてスルーしたわけじゃないよね?


「各部長が体育館の壇上で自分の部活を紹介するんです。たしか去年は五限に行われていたはずです」

「ああ、そういえばあったかも」


 体育座りしながらうとうとしていた記憶が少しだけ蘇る。いや、あれは校長の話か? 集会でまともに集中したことがないので、記憶が曖昧である。


「もしよろしければ、私に任せていただけないでしょうか?」

「うん。もちろんだよ」

「ありがとうございます!」


 ぼくに話せることはあまりないし。新名さんに任せるのが一番だろう。

 それに、新名さんがどんな想いを伝えるのか、ぼくも聞いてみたい


「必ず興味を持ってもらえると思うよ。それに……いや、何でもない」


 途中で言葉を飲み込んだぼくを、新名さんは不思議そうに見ている。『新名さんかわいいから』と言おうとしました。けど、それは関係ないですね。興味を持ってほしいのはあくまで部活と哲学だもの。

 でも、もし本当に新名さん目当てに入部してくる人がいたら……。うう、やっぱりちょっと複雑。ぼくの新名さんなのに。



 だが、この時のぼくは知らなかった。 

 まさか、あれほど手強い後輩が入部してくるなんて、ね。

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