第4話.二人で部活作ります!?~できれば推しは独占したいけど

「おはよう。新名にいなさん」

「……相田さん。おふぁようございます」


 翌日。

 登校すると、ぼくはすぐ新名さんに声をかけた。

 推しと距離を取りたい人もいるけど、ぼくは積極的に絡みたいタイプだ。

 でも、今朝の新名さんは少し眠そうにしている。目もあまり開いていない。


「新名さん、疲れてる?」

「ふぁい。実は少し寝不足なんです。昨日遅くまで動画を見てしまったもので」


 口を手で隠しながら、小さくあくびをする。なんだか妖精さんみたいで癒される。

 それにしても、新名さんも動画見て夜更かしとかするんだ。ちょぴり親近感。

 てっきり、難しい本をずっと読んでいるのかと思った。


「新名さんはどんな動画が好きなの?」

「そうですね、いろいろ見るのですが。昨日はずっと、ゴマフアザラシの映像に夢中になってしまいました」


 なにそれめっちゃかわいい、新名さんが。

 アザラシ見ていて夜更かししちゃったの? 

 尊すぎる……!


「ほんとに好きなんだね。ゴマフアザラシ」

「はい! 昨日相田さんと話していたら、久しぶりにまた見たいなと思いまして。水を蹴ってすーっと進むのが気持ちよくて、つい時間を忘れて夢中になってしまうんですよね。たまにカメラの方に顔を向けてくれるのもすごくかわいいんですよ」


 眠さのせいか目が七割くらいしか開いていないが、まるで幼い子どものように、頬を緩ませながら嬉しそうに話してくれる。

 かわいい生き物を見て喜ぶかわいい生き物。最強ですね。


「すみません。また私ばかり……。えっと、相田さんは昨日は何かありましたか?」


 最強にかわいい少女が、その尊すぎる笑顔で尋ねた。汚れきった心が浄化される。

 ……じゃなくて、昨日あったことか。

 うーん。まあ、あのことしかないか。


「実は、渡してもらった本、少し読んでみたんだけど――」

「さっそく、読んでいただけたのですね! ありがとうございます!」


 食い気味に新名さんが答える。眠そうだった目がぱっと開いた。


「ただ、ちょっとぼくには難しすぎたみたいで。ほとんど理解できずに途中であきらめて寝ちゃったんだ。申し訳ない……」


 お前の煩悩のせいだろとか言わないで。女の子の家に行ったの初めてなの。おまけに手まで触れちゃったんだから。余韻に浸ってしまうのも仕方ないでしょ?


 だが、新名さんはぼくの謝罪を聞いても、依然として笑顔だった。


「そうですよね! 全然わかりませんよね!」

「え、新名さんも?」

「はい!」


 どういうこと? 新名さんも読めないの? 哲学に興味を持ったきっかけなのに。


「あ、あの、すみません。おかしいですよね、私が勧めた本なのに」


 困惑したぼくの表情を見てか、新名さんは慌てて続けた。


「実は、私も初めてこの本を読んだ時、まったく理解できませんでした。でも、それがすごくもどかしかった。何か、すごく大切なことが書かれている気がしたから。だから何度も何度も読み返しました。するとたまに、すっと理解できる箇所があって。そこで覚える、自分の世界が広がっていく感覚が、とても心地いいんです」


 もちろん、当時の新名さんは中学生で比較できるものではないけれど。

 それでも、新名さんも同じだとわかって、少しだけ安心する自分がいた。


「だから『わからない』という経験を共有できて、私は嬉しいです」


 彼女の凛々しい表情は、哲学を志す仲間として、ぼくを認めてくれたようだった。

 そして思った。昨夜、ニーチェから学んだ唯一のこと。

 同じ著作道徳の系譜と向き合った新名さんと語り合ってみたい。


「あの、新名さん。一つだけ気になっている個所があるんだけど」

「何ですか?」

「善人と悪人についての議論で――」

「ルサンチマンですね!」


 新名さんの目がきらきらと輝く。スイッチが入ったようだ。寝不足とは思えない。

 その勢いに負けないよう、一度小さく息を吸い、ぼくは言った。


「ぼくはこれまで真面目に生きてきたつもりだけど。結局、ぼくが守ってきた道徳って、人生を楽しんでいる人たちへの嫉妬だったのかなって」


 ニーチェが露わにした道徳の負の側面。

 それはまさに、自分に向けたものだと思った。

 道徳を守り、多数派に立つことで、そうでない人々に対抗する。

 そこに、ぼくの良心なんて、なかったんじゃないかって。


「わかります!」


 新名さんのギアがまた一段上がる。


「これまで当たり前に信じてきたものが、一つの批判を示されることで、とたんに疑わしくなるんですよね。それがたとえ、道徳的な正しさであっても」

「うんうん」


 ひたすらにぼくは同意する。

 彼女が内に秘めているものは、ぼくより遥かに熱くて、広くて、そして深い。

 だけど、その中に通じ合えるものがあることが、とても嬉しい。


「相田さんはデカルトという哲学者をご存じですか?」

「え、えっと。人間は考える葦である、だっけ?」

「それはパスカルの言葉ですね。」

「あ、そっか……」


 気持ちがしゅんとなる。

 うろ覚えの知識を自信満々に答えて間違えるのは一番恥ずかしいです……。


「デカルトは方法的懐疑というやり方で、疑い得るものをすべて疑うんです」

「すべてを疑う?」

「はい。たとえば、私たちが見ている世界は、本当は悪霊が見せた幻覚なのかもしれない。あるいは、夢の中にいるのに気がついていないだけなのかもしれない、と。つまり、少しでも疑えるものはすべて否定していくんです」

「当たり前の前提が誤りである可能性を考えるってことか」


 たしかに夢を見ている時は、それが夢だって気がつかないもんな。

 新名さんもぼくの幻覚だったりして……いや、あの手の温もりは本物か。

 

「でも、そうやって疑いつくしても、自我の存在だけは否定することができません。そのためデカルトは『我思う、故に我あり』。つまり、考えているこの私だけは確実に存在している、という結論を導くんです」

「なるほど。でも、確実に存在しているものは、考えている自分だけって、不思議な感じがするよね」

「そうなんです! 普通に生きていたら、この世界が疑わしいなんて思いません。でも、一つ見方を増やすだけで、それが根底から疑わしくなりうるんです。ニーチェの道徳批判もそうですけど、哲学のこういうところ、私は大好きです」


 新名さんが生き生きと語る。

 視点を増やすことで、当たり前に信じてきたものが疑わしくなる。

 たしかにそれは、刺激的な経験だ。

 でも。


「それって、苦しいこともあるよね。知らなければ悩まずに済んだことに、自ら向かっていくことだから……」


 ぼくも含めて多くの人は、自分が正しいはずだと信じている。

 でも、視点を増やすことは、それだけ自分の正当性への疑いの目を増やすこと。

 すなわち、自らの人生に試練を与えることでもある。


「そうですね。知らない方が楽に生きられることもたくさんあります。けれど」


 新名さんは優しく微笑みながらも、力強い瞳で、ぼくを見据えた。


「私はそれでも、自分の世界を狭めて苦しみから逃れるのではなく、たとえ苦しくても、世界を広げて、自分が進む道を選択したいなって思います」


 ああ。

 こういうところが、彼女のすごさなんだろうな。

 外的なものに流されず、人生と正面から向き合う誠実な態度。

 とても同い年とは思えない。


「……もう二度と、感情に流されて間違わないために」

「新名さん?」

「いえ、すみません。何でもないです」


 なんだろう。一瞬見えた、寂しさと後悔が入り混じったような表情。

 新名さんもこんな顔するんだな。


 感情に流されない、か。

 たしかに新名さんならできてしまいそうだけど。

 ぼくが見る限り、欠点なんて一つもないような人間だし。


「それに、相田さんの視点もとても勉強になります!」


 腕を小さくぱたぱたさせ、明るく語る新名さん。かわいいんですけど。

 ぼくが新名さんに認められるべき人間だとは、やっぱりまだ思えない。

 でも他から学ぼうとする彼女の謙虚な姿勢、本当に素敵だな。


「ありがとう。新名さんに追いつけるよう、ぼくも頑張らないと」


 もっと彼女に近づきたい。

 今はまだ、見上げることしかできないけれど。

 これからたくさん学んで、いつか彼女と対等に語り合えるくらいに。

 

 新名さんが両手で口を押え、小さくあくびをした。充電切れだろうか。


「すみません。少しまた眠気が」

「ううん。大丈夫?」

「はい」


 眠気を覚ますためか、新名さんが頬をつまんで引っ張った。顔が横に伸びる。 

 いやまて、それは反則だろ。かわいいにきまってるやんけ。

 そして、かわいいで頭がいっぱいのぼくに、新名さんはかしこまって言った。


「あの、もう一つだけ、相田さんに相談があるのですが」

「う、うん。どうしたの?」

「一緒に部活を作りませんか? 哲学の」

「部活?」


こくりと頷き、彼女は続ける。


「昨日から相田さんと話していて、一人では得られない学びもたくさんあるなと実感したんです。だから、仲間と共に哲学を学べる場所を作りたいなと思いまして……」


 新名さんは少しずつ視線を落としつつ、ちらちらとぼくの反応を確認している。


「それ、いいね」

「本当ですか⁉」


 新名さんの顔がぱーっと明るくなる。喜びに満ちた顔って感じだ。

 表情の一つ一つがそれぞれとても魅力的で、こっちまで幸せになってくる。

 彼女に追いつくために、これほど適した場所はあるまい。

 何より、ぼくとの時間を有意義だと感じてもらえたことがとても嬉しい。

 ただ気になるのは……。


「仲間……か」


 新名さんと一緒に部活ができたら、これほど楽しいことはないだろう。

 ただそれは、ぼくが新名さんの唯一の哲学仲間ではなくなることでもあって。

 どうしても、寂しい。


「もちろん、相田さんがよければですけど……」


 気がつけば、新名さんは申し訳なさそうに小さくなっていた。

 間違いなく、ぼくが悩んだ顔を見せたせいだ。申し訳ない。


 自分に厳しく、他人に優しくて。強いのに、すごくかわいくて。

 正直、そんな彼女との関係を、もう少し独り占めしたい気持ちはある。

 でもきっと、新名さんを目指すなら、彼女の景色を見たいなら。

 選ぶべき答えは、一つしかない。


 ぼくは、覚悟を決め、最大限の笑顔で言った。


「もちろん構わないよ。部活、作ろう!」

「ありがとうございます! では私、今から職員室に行ってきます」


 そう言うと、新名さんは教室を飛び出した。

 行動力もあるんだよな、新名さん。正直、ぼくにないものを全部持っている。


 そんな彼女に追いつける日は、果たして来るのだろうか。

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