第3話.妹の進路相談に乗りました~頭は煩悩だらけだけどね

 女の子新名さんの家を訪問するというビッグイベントを終え、我が家にて夕食。

 両親は仕事で遅いため、妹のひとみと二人だけだ。


「なんか、兄ちゃん嬉しそうだね」


 納豆を混ぜながら瞳が言う。うちは夜でも納豆を食らうのだ。


「そうか?」


 納豆をご飯にかけながらぼくは答えた。

 瞳に話しかけられるなんて珍しい。

 仲が悪いということはないが、共通の関心事もほとんどないし。

 まあ、兄と妹なんてそんなものだろう。


 だがこの日は違った。

 ぼくが白米を口へ運ぶと、突然、瞳が尋ねたのだ。


「また好きな人でもできた?」

「ブフッ!」


 危うくご飯を戻しそうになる。

 たしかに、女の子のおうちには行ったし、新名さんの事はかわいいなぁ、素敵だなぁとは思うけど。べ、別にそういう好きじゃないし。いや、まったく気にならないと言ったら嘘になるけど……。

 そもそもなんで妹にばれてるの? あたしそんなに顔に出やすい? あと『また』ってことは、こないだの失恋もばれてる……ってこと? どどどどうして? 


「兄ちゃん汚い」

「ごめん……」

 

 辛辣な一言。テーブルから若干距離をとったのもぼくは見逃さなかった。切ない。


「まあ、別に兄の恋愛事情にはそんな興味ないけどさ。振られて絶望して、暗い気分持ち込んでくるのはやめてよね。こないだみたいに。私も一応受験あるんだし」

「はい、すみません……」

 

 これじゃぼくが弟みたいだ。

 あと、振られたこともばればれだったんですね。


「そういえば、志望校は東高に決めたのか?」


 へこんだので少し兄らしい話をしてみる。

 悩んでいるなら相談に乗るぞ。……頼りないとか言わないで。


「まあ今後の成績次第だけど、基本的にはそのつもり。ひびきくんと同じ学校がいいし」


 響くんとは、瞳と同じ吹奏楽部だった一つ上の先輩だ。瞳は彼と交際している。卒業式で瞳の方から告白したらしい。実に腹ただしい。

 だが、彼が入学した東高は県内一の進学校であり、合格のハードルは高い。何を隠そう、私もこの高校を受験し、敗れた者の一人である。あれ、相談乗れないじゃん。


 とはいえ、瞳はかなり容量がいい。成績はぼくと同じくらいだが、帰宅部エースのぼくがテスト三週間前からコツコツ勉強して取った点数を、部活が休みになる五日前に本腰入れるだけで取ってしまう。要はぼくより優秀なので、どうせ受験も大丈夫だろう。以上、兄の進路相談終わり。


「んじゃ、私、勉強するから」


食事を速やかに済ませた妹が言った。


「おう、がんばれ」

「兄ちゃんも好きな人に振り向いてもらえるようにがんばれ」

「いや、別にそういうのは……」


 ぼくの返答は聞かず、瞳は部屋に戻っていった。

 まあ、ぼくにかまけている時間も惜しいだろうしな。うん。


 でもたぶん、あいつ恋バナ好きだよな。


 ※※※


 うう。読めない。


 ぼくは自分の部屋で、新名さんから借りた本と葛藤していた。

 目の前には大量の活字。それを懸命に追っていくが、三行前に書いてあったことさえも記憶から抜けていく。読書というより目の運動だ。難しいのはわかっていたけど、まったく歯が立たない。

 『道徳の系譜』。これを中学生で読んでいた新名さん、すごすぎる。


 あと、さっきから頭の中で、人魚になった新名さんが泳いでいる。時々「がんばれー」って応援してくれるのが嬉しい。人魚の魅力って海の中でしか生きられない制約性にあると思うんだよね。顔は同じでも、人間とは住む世界が違っていて、近くて遠いその距離感。それと上半身ね。大体水着っぽい格好のことが多くて、思春期には刺激が……。はい、そうです。全然集中できていません。


 だってこの本、ほんのり新名さんの香りがするし。そしたら否が応でも彼女の事を考えてしまう。ああ、新名さんの手、ふわふわだったなあ。


 そんなわけで、煩悩だらけの頭でぼくは活字を追っていた。

 だが、ある個所でぱっと目が止まる。

 それは単なる文字の集合の中から、単語が浮かび上がってくるような体験だった。

 

『ルサンチマン』


 ニーチェは説明する。

 それは強者に対する弱者の嫉妬の感情である。

 かつて、弱い人間は強い人間を「悪人」として定義し、その反対概念として、自分たちを「善人」と定義した。そんな、強い人間に対する想像上の復讐、ルサンチマンが生み出した価値観、これこそが道徳の正体なのだ、と。


 ドキリとした。

 ずっと隠し続けてきた汚い感情を、暴露された感覚。

 他の大勢の人間と同じように。ぼくは道徳に従い真面目に生きてきた。

 でもそれは、自分が正しい人間だったからだろうか。

 人にばれなければと、不正を行なったことはなかっただろうか。

 道徳を盾に他人を攻撃したことは、本当になかっただろうか。


「ぼくが信じるべき価値観って、何なんだろう……」


 つい、自分に問うてしまう。

 もし、道徳が必ずしも正しいのでないならば、ぼくはなぜ、これを守るのだろう。 

 そして新名さんは、他人ではなく自分の価値観を信じる彼女は、何を根拠に、己の正しさを知るのだろう。

 再び本に目を向ける。だが、その文字の集合から再び何かが浮かび上がることはなかった。ぼくは本を閉じ、申し訳なさを感じながら脳内の人魚姫におやすみと告げ、そのままベッドに飛び込むのだった。




(参考文献 ニーチェ著,中山元訳,2009「道徳の系譜学」光文社)

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