第2話.初めて女の子の家に行きました~来世は魚になりたい
信じられるだろうか。
ぼくは、今日初めて話した女の子、
新名さんはお茶を入れに行ったらしい。
今朝は咄嗟のことで状況をあまり整理できなかったが、女の子が異性を、しかも知り合ったその日に家に呼ぶなんてありえるだろうか。
しかも新名さんみたいなしっかりした人が。
もしかして、ぼくに好意が……?
いや、さすがにないか。
ぼくみたいな凡人が、こんなに素敵な女の子に好かれるわけがない。
それにぼくは知っている。少しでも期待すると、後で反動が大きいってね。
そうだ。むしろ最初から恋愛対象ではないから躊躇なく家に呼べたんだ。友だちならそこまでおかしいことではないもんね。うん、そういうことにしよう。
ぼくは心を落ち着けるため、一度息を深く吸った。部屋の甘い香りがスーッと鼻を抜けていく。いい匂いだ。全身に新名さんを感じる。
部屋を見渡すと、棚の上にイルカやペンギンといったぬいぐるみがきれいに並べられている。海の生物が好きなのかな。夜は抱いて寝てたりして……。かわいい。
だがひと際目を引くのが、そうした棚々の横にそびえ立つ巨大な本棚だ。新名さんの身長よりかなり高そうだが、一番上の本まで手は届くのだろうか。
「お持たせしました」
美しい天使のさえずりがぼくの耳を癒す。
扉が開き、お盆を持った新名さんが戻ってきた。背筋が伸びる。
ああ……高尚だ。
制服は学校で見てるけど、部屋の中でのそれは何と言うか、また違った特別感がある。なお、ぼくは断じて変態ではない。
「あの、そんな固くならず、楽にしてもらって大丈夫ですよ」
「う、うん。ありがとう」
蟹が描かれた座布団に腰を下ろしながら、お盆を置く新名さん。足を曲げたことで露にされた膝上の透明な素肌に、つい目が引き寄せられてしまう。繰り返しになるが、ぼくは変態ではない。
ところで、楽にしてと言われたものの、足の崩し方がわからない。胡坐をかくのも何か違う気がするし。なにより新名さんの姿勢が美しすぎる。
結局いくつか姿勢を試した後、ぼくは再び正座に戻った。
目の前には、紅茶の入った魚の柄のマグカップが二つ。たぶんクマノミと……シーラカンスか? これまたいい匂いがする。
新名さんは触れたものを素敵な香りに変える力を持っているのだろうか。
「新名さんは、海の生き物が好きなの?」
ぼくは彼女に尋ねる。
先ほどから様々な海洋生物に出会い、気分は水族館である。
すると、少し照れくさそうに新名さんは答えた。
「そうなんです。気持ちよさそうに泳ぐ姿を見ているとすごく癒されて。小さい頃は人魚姫になるのが夢だったんです」
「そっか。たしかに魚みたいに自由に泳ぐのって、なんか憧れるよね」
かわいーーー!!!!!と叫びそうになるのを何とかこらえた。新名さんの人魚……尊すぎる。人魚になった新名さんに会えるなら、来世は魚でもいいな。
「あ、実は相田さんに見てもらいたい本があって」
新名さんはあの巨大な本棚に向かった。そして、腕をめいっぱい伸ばし、上から二段目の本を掴む。小さな身体で懸命に背伸びをする彼女の後ろ姿がとても愛おしくてつい見とれてしまった。
そして、彼女はそれを大事に抱きかかえ、ぼくの前に腰を下ろした。
「これは私が初めて読んだニーチェ作品で、哲学に興味を持ったきっかけなんです」
目の前に置かれたその本の表紙には『道徳の系譜』と書かれていた。
「道徳……について書かれているんだよね?」
ぼくはタイトルから理解できる唯一の情報を新名さんに確認した。
「はい。道徳を批判するため、その恥ずべき起源を明らかにしようとした著作です」
また難しそうな……。
そもそも道徳なんて、小中学校の授業で軽く聞いたくらいのものだ。THE・教育って感じの物語やビデオを見て感想を書くやつ。眠かった記憶しかない。
でも、新名さんが哲学に興味を持ったきっかけということは、言わば彼女の原点というわけで。彼女を推す人間としてそれは知りたい。
「あのさ、新名さんはこの本のどこに惹かれたの?」
「は、はい。えっと、そうですね。話せばまた長くなってしまうのですが……」
「大丈夫。聞かせて欲しいな」
「わ、わかりました。ありがとうございます」
軽く頭を下げると、新名さんは静かに語りだした
「中学生の頃。私はみんなと仲良くできるよう振る舞うことが一番大切だと考えていました。でも、私はつい勢いで行動してしまうところがあって、そのせいで、しばしば周りから浮いてしまっていたんです。だから、できる限り周りに合わせられるよういつも気をつけていました。でも、そうした生き方にいつしか疲れてしまって……。そんなとき、出会ったのがこの本でした」
新名さんらしいなと思った。
穏やかで優しい人だけど、心には熱いものを秘めていて。自分にも他人にも誠実だからこそ、そうした感情と折り合いをつけるのに、人一倍苦労したんだろうな。
とはいえ、中学生でこの難しい本を読んでいたのは驚きだけど。
「当時から私は図書館に良く通っていたんですけど、そこで偶然見つけたんです。おそらく、道徳という言葉に惹かれたんだと思います。『道徳の系譜』は私の価値観をひっくり返してくれました。他人の価値観を最優先にしなくていいんだって。自分の生き方は自分で選択していいんだって。そのことを教えてくれたんです。この本のおかげで、私を縛っていた鎖も解けたような気がしました」
「鎖、か」
何にも縛られることなく、自分が選んだ人生を力強く生きる。
それって、自由であると同時に孤独な道でもあると思う。
そんな道を自ら選ぶなんて。
本当にすごいな、新名さんは。
「だから、新名さんは輝いて見えるんだね」
「ふふ。ありがとうございます。そうだと嬉しいです」
話せば話すほどに、ぼくは新名さんに惹かれていた。
かわいらしさも、知性も、人間性も。ぼくの知る限りで彼女より魅力的な人間はいない。彼女ともっと仲良くなれたら、どんなにいいだろう。
だが同時に、ぼくの中の黒い気持ちが少しずつ大きくなるのも感じていた。
「私、今朝はとても嬉しかったんです。相田さんに話を聞いてもらえて」
「そうなの?」
「哲学の話に興味を持ってもらえたのは、初めてだったから」
彼女の笑顔にはただ一点の曇りもなかった。ぼくの心とは対照的に。
「それで、もっとお話がしたくて、つい家まで呼んでしまいました。勢いで行動してしまうのは私の悪い癖で……。本当にすみません」
「ううん。ぼくも新名さんの話を聞けて良かったよ」
「ありがとうございます。もしかして迷惑だったんじゃないかって不安で……」
「そんなことないよ。新名さんと仲良くなれたら、ぼくも嬉しいし」
事実、彼女と話すのはとても楽しかった。夢のような時間だと言ってもいい。
だが同時に、黒い感情、劣等感という病がぼくの心を蝕んでいく。
彼女が魅力的で、どうしても彼女の隣に立ちたいと願ってしまうからこそ、そこに遠く及ばない自分が、惨めで恥ずかしくなるのだ。
「……でもぼくは、新名さんが期待するような人間じゃない」
「え?」
ついに漏れ出てしまった本音。
そう、ぼくは彼女の言葉を受け止めるに値する人間ではない。
だって、彼女と違って、ぼくは弱いから。
「聞かせてくれませんか? 相田さんの話」
すべてを包み込むような優しい表情が、今のぼくにはむしろつらかった。
でも、彼女にだけはこの感情を隠すことができない。そう感じた。
「春休み、ある女の子に告白して、振られたんだ」
「……そう、なんですね」
「初めはすごくつらかった。でも同時に、段々と自分の気持ちが冷めていくのも感じて。それで気がついたんだ。ぼくはたぶん、本当の意味で彼女を愛していたんじゃない。ただ誰かに自分を認めて欲しかっただけなんだって」
他者の価値観から抜け出し、自分の生き方を模索している新名さん。
だけどぼくは、他者の価値観に捉われ続けている。
周りから評価されることでしか、人生に価値を与えられなくて。
勇気を出した告白も、本当は愛されたかっただけで。
そんな自分が嫌いで。
「でも、相田さんはそんな自分に満足していないんですよね?」
新名さんは悪戯っ子のような表情で、ぼくの顔を覗き込んでいた。
「どういうこと?」
「他者の価値観に流される生き方ではいけないって、そう思ってるんですよね?」
「う、うん」
「それなら、相田さんは何も間違ってないと思います」
優しく微笑む新名さん。その瞳はどこまでも透き通っていて、ぼくのすべてを見通しているかのようだった。
「それはどういう……」
「だって、相田さんは行動を通じて、自分の弱さに気づいたんですよ? それは理想の自分に近づくために必要な過程で、すなわち前進に他なりません」
「……違うよ。だって、ぼくはなにも変われていない。自分で生き方を選択さする覚悟なんてないんだ。新名さんとは、違う。今まで通り、誰かに認められることでしか生きられない、弱い人間で――」
「そんなことないです!」
ぼくの自己嫌悪を断つように、新名さんは言った。
「勇気を出して行動したからこそ、愛というものに本当の意味で向き合えた。その経験は間違いなく、相田さんだけの貴重なものだから。それは必ず、相田さんの人生の可能性を広げてくれるはずです。私が保障します」
大げさかもしれないけど、世界の見方がひっくり返るような、そんな感覚だった。
その時、新名さんはまさに、嫌いだったぼくの生き方に、意味を与えたのだ。
そして、彼女が最後にくれたのは、ぼくが何よりも欲しかった言葉。
「何より、勇気を出して行動した相田さんを、私は尊敬します」
それは劣等感に満ちた心の暗闇に差し込む一筋の光のようで。
ぼくにとってのツァラトゥストラは、新名さんなのかもしれない。
そう思った。
※※※
「今日はありがとうございました」
「こちらこそありがとう。すごく勉強になったし。それに、元気をもらえたよ」
あの後、新名さんとは魚の話で盛り上がった。
海の生き物全般が好きみたいだけど、特にゴマフアザラシへの愛はすごかったな。
泳ぎ方が人魚のイメージとぴったりらしい。言われてみれば……そうなのか?
そんな楽しい時間もあっという間に過ぎ、ぼくが名残惜しさを感じつつ荷物をまとめていると、新名さんに声をかけられた。
「もしよかったら、これ、読んでみませんか?」
『道徳の系譜』。新名さんがニーチェと初めて出会った本。
「迷惑だったらごめんなさい。でもぜひ、相田さんの感想が聞きたいんです」
申し訳なさそうにしつつも、目には期待の色が見える。
よほど読んでもらいたいのだろう。
普段、ぼくはあまり読書はしないし、難解なこの本を読み切れる自信はない。
だけど、新名さんのこと、新名さんの考えていることをもっと知りたい。
そして、少しでも彼女に近づきたい。
「わかった。帰ったらさっそく読んでみるよ」
「ありがとうございます! 嬉しいです」
本を渡す彼女の手が、一瞬、ぼくの手と軽く触れた。
ふわっとした感触。それがどこか心地よかった。
ぼくは暖かい気持ちが、じんわりと広がっていくのを感じていた。
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