ぼくの好きな人はニーチェに夢中なようです
薬味たひち
第1話.素敵な女の子に出会いました~ニーチェって誰?
「私は君のこと、友達としてしか見れないから。ごめんね」
春休み最終日。ぼくは初めて異性に告白し、そして振られた。
だけど。
ぼくはすぐに気がついていた。
ぼくは彼女が好きだったんじゃない。
誰かに自分の価値を認めて欲しかっただけなんだ、と。
勉強も運動も苦手ではない。むしろ得意な方でさえある。
でも、一番ではない。
自分より上の存在がいて、その価値が皆に認められている。この事実が、ぼくの背中に呪いのように重くのしかかるのだ。
あいにくぼくは凡人で。開花するような才能もなく、才能のなさを覆すほどの努力もできない。この呪いを解除する術はないのだ。
だから、せめて彼女が欲しかった。
人生において異性は必ずしも必要ない。異性がいるからうまくいくものでもない。そんなことはわかってる。
それでも、愛の力で、誰かにこの呪いを解いて欲しかったんだ。
でも結局、愛される存在にはなれなかった。当たり前だ。だって、ぼくはまだ自分さえ愛せていないのだから。
そんな自分が、ぼくは嫌いだ。
※
新学期となり、クラスが変わって数日が経った高2の春。
朝のHR前の時間。ぼくは黙って席に着いていたが、教室の前には人が集まっていた。始業式に行われた実力テストの学年順位が張られているためだ。
ぼくは5位。失恋直後にしては上出来だと、納得しようとする自分が嫌だった。頭は普通に回っていたし、解ける問題は確実に得点できた。単なるぼくの実力不足。
人が注目するのはせいぜい3位までだ。ぼくの位置は他の大勢と何も変わらない。
周りを見ると、テストに興味のない人たちも、友だちと楽しい時を過ごしているようだ。自己紹介の期間も終え、各々が自分の居場所を見つけている。いいことだ。
だが、初めに話しかけるタイミングを逃したぼくに構ってくれる人はいない。ただぼんやりと過ごしていた。
ふと、冷たい空気が入り込むのを感じる。朝練を終えたばかりの運動部の男子が窓を開けたようだ。春になったとはいえ、外はまだ寒い。
上着を取りに行こうかと席を立った時、視界の端に映った女の子にぼくの目は吸い寄せられていった。
それは、幼さの残るかわいらしい顔とは対照的に、いかにも難解な分厚い本と真剣に向き合う、小柄な一人の少女だった。
「推し……」
ぼくは無意識にそう呟いていた。
普通、『推し』はアイドルやアニメのキャラクターを対象とするもので、クラスメイトに向けるものではない。だが、その時、ぼくが彼女に抱いた感情は、まさに『推し』そのものだったのだ。
青く澄んだつぶらな瞳に、柔らかそうな薄桃色の唇。真っ白な細い指が、優しく本をのページをめくっていた。そして、肩まできれいに下ろされた髪が風でさらさらと揺れていて、幻想的な雰囲気さえ感じられる。
それらすべてに、ぼくは惹きつけられていた。恋、というには、彼女は神性過ぎて。ただ一方的に、ぼくが彼女の存在に癒されていく。そんな感覚だった。
「あのー」
気がつけば、彼女は本を置き、ぼくの方を不思議そうに見ていた。
「どうかしましたか?」
透き通るような心地の良い声。まさに天使のさえずりだ。深夜のラジオで流れれば3秒で素敵な夢を見られるに違いない。
だが、どうやら不審に思われる程度には、彼女を見てしまっていたらしい。ぼくは怪しい者ではないことを示すため、とりあえず自己紹介をした。
「あ、
すると、彼女は立ち上がり、ゆっくりと頭を下げた。
「
新名智愛。推しの名前を心の中で2、3度復唱する。知的で美しい響きだ。
「他に何かありましたか?」
新名さんは頭を上げると、再び不思議そうにぼくを見つめる。
自己紹介したかっただけです、と言うわけにはいかないだろう。新学期初日でもあるまいし。かといって、あなたはぼくの推しです! と言うわけにもいかない。確実に引かれるし、何なら恐怖を与えるかもしれない。
そこでぼくは、ぱっと目についたものについて尋ねた。
「え、えっと何の本を読んでいるのかなー。なんて――」
「興味ありますか!」
言い終わるより先に、返答する新名さん。その小さな身体からは想像し難い熱さと声量だ。一瞬、クラス中の視線が集まる。
だが、彼女は気にする様子もなく、両手にその本を抱え、こちらに小走りでやってきた。そして、それを見せつけるように、ぼくの顔の前に突きつける。その距離は一メートルもない。身長差による必然的な彼女の上目遣いが、心臓の鼓動を速める。
「これは『ツァラトゥストラはかく語り』という本です!」
「ツァラトゥストラ……それは小説?」
緊張で二割くらいしか働いていない頭で、なんとか言葉を返す。
きらきらとした目が眩しすぎて、なかなか冷静さを取り戻せない。
「そうですね。広い意味では小説かもしれません。これはニーチェという哲学者が書いた作品なんです」
「ニーチェ。聞いたことあるような……。あ、神は死んだ! だっけ?」
必死に関連する用語を搾り出す。たしか中学生くらいのとき、偉人の名言集とかで読んだんだっけ。当時はかっけーって思ったので、印象が残っている。
「そうです!」
新名さんはさらに前のめりになる。その距離わずか50センチ。長いまつげもはっきりと見える。あと、ふわっといいにおい……。心臓が飛び出そう。
だが、彼女はそんなぼくの緊張は気に留めず、さらに話を続けていく。
「ニーチェが神の死を提唱したのは、生を貶めるものである神やあの世といった批判するためなんです。というのも、そうした存在を想定することは、相対的に現実の生の価値を下げることになりますから。特にキリスト教の原罪は、人間が自由であるという誤った前提が捏造されたことに由来していて……」
途中から完全にぼくの理解の範疇を超え、入ってくる言語が内容として認識される前に頭の中をすり抜けていく。
なんというか、オタク特有の早口って感じだ。好きなアイドルとかアニメを語って止まらなくなる人はいるけど、ニーチェオタクというのは新鮮だ。
でも、いいな。そういうの。
好きなものに真っすぐで。
一息で喋りきると、彼女ははっとした表情で言った。
「ご、ごめんなさい。つい夢中になってしまって……」
「ううん。大丈夫だよ」
こちらこそ、ぜんぜん話を理解できなくて申し訳ない……。
けど、なんでだろう。彼女の話を聞き流してはいけない。直感的に、ぼくはそう感じていた。
どうしても、彼女を追いかけかねばならないと。
気がつけば、ぼくは彼女に問うていた。
「じゃあニーチェは、宗教とかなしに生きる意味を見つけようとしたってこと?」
理解できた数少ない言葉の断片を、何とか繋ぎ合わせて発した質問。
的外れかもしれない。
でもきっと、ぼくは少しでも、彼女の見ている世界を知りたかったのだ。
すると、身体を縮こませて沈んでいた、彼女の顔が少しずつ明るくなり、やがて思わずきゅんとしてしまうような満面の笑みで言った。
「はい! そうなんです!」
よかった。ずれてはいなかったらしい
楽しそうに話す彼女を見ると、なんだかぼくまで嬉しくなってくる。
「そこで彼が提示するのが、永遠回帰という概念なんです」
「永遠……回帰?」
当然ながら、質問がうまくいったからと言って、彼女の話を理解できる知能が手に入ったわけではない。まず、そこでってどこでですか?
けど、新名さんも落ち着いたのか、今度はゆっくりと説明してくれた
「永遠回帰というのは簡単に言うと、この世界のあらゆる事柄は既に無限回起こったし、これからも無限回行われるという想定のことです。つまり、自分の人生のすべての瞬間は既に無限回生じていて、これからも無限回生じるんです」
「無限回、か。途方もないね」
「そうですよね。すると、人生におけるあらゆる行為や選択も、無意味であるように思えてきませんか?」
「たしかに。何をしたってそれは無限回の内の一つなんだもんね」
自分が人生で新たに創造できることは何もない。この世界で、自分が存在する必要性もない。そんな意味のない生を、ただ生きるしかない。
そういえば小さい頃、布団の中で自分の死後を想像してたな。死によって自我は消滅し、二度と蘇ることはなくて、永遠という時間を彷徨い続ける。そんなことを想像して、怖くて眠れなくなったっけ。それでいつしか考えなくなってた。
「そんな永遠回帰を克服できる人間をニーチェは描くんです。それが『超人』です」
「超人……」
スーパーマンってことか。なんかヒーローみたいだな。
でも、永遠を前にした生きる意味の消失。人が目を背けたくなる、そんな現実を正面に見据えながら進み続ける。それはたしかに、人を超えた存在と言えるのかもしれない。
「す、すみません。また熱くなってしまって…」
新名さんがまた、申し訳なさそうに身体を縮こませている。きゃわ、じゃなくて、かわいいです。とっても。
それに、もっと知りたい。ニーチェのことも……新名さんのことも。
「ううん、大丈夫。すごくおもしろいよ、新名さんの話。勉強になるし」
ぼくがこれまで想像もしていなかった世界の見方を、彼女は知っている。ぼくが一面的にしか見ていない世界と、彼女はあらゆる方向から向き合って、考えているんだ。きっとそれは、今のぼくにとって一番必要なものだ。
「ありがとうございます。……嬉しいです」
新名さんがほのかに顔を赤らめる。
「だから私は、何があっても、自分の生を肯定できる人間になりたいんです。誰に何と思われようと、自分がどんなにちっぽけな存在であるかを突きつけられようと、いつか終わりがくる、自分の生の儚さに向き合うことになろうとも。それでも、自分の人生の一つ一つの瞬間を、肯定できる人間に」
その顔は、推しを語るオタクのそれではなくて、何かを決意したような力強い表情だった。その目はぼくを真っ直ぐに捉えており、まるでぼくが彼女について行く覚悟があるかを、問うているようだった。
「……それが、新名さんの目指す超人なんだね」
「はい」
人生と正面から向き合い、他者から与えられた価値ではなく、自らの価値を信じて生きる。この瞬間が無限回の内の一つだとしとも、それを自分自身で肯定する。
誰かに認められたいと願うだけのぼくとは正反対の人間像。でも、同時にそれはぼくのなりたい人間でもあって。
気がつけば、ぼくは彼女に、そんな自らの想いを告げていた。
「ぼくみたいな弱い人間には難しいけど……。でも、そんな風に生きたいな」
初めは、彼女の勢いに圧倒されるばかりだったけど、話を聞くほどに、ぼくは彼女に惹かれていくのを感じていた。彼女の見方や考え方、生き方のすべてが、ぼくにとっては新鮮で、魅力的だった。
「……相田さんは、きちんと向き合ってくれるんですね」
その眼には涙を溜めていて、澄んだ瞳は美しく光っていた。
ぼくよりもずっと成長している彼女だけど。それでも、誰かに理解してもらいたかったのかもしれない。その存在に、ぼくが少しでもなれていたら嬉しいな。
HRを知らせるチャイムが鳴る。周りも段々と席に着き始め、静かになっていく。
「じゃ、じゃあまた後でね」
「あの!」
席に座ろうとするぼくを、新名さんが引き止める。
だが、彼女の方を向くと、恥ずかしそうに視線を落としていた。
「どうしたの?」
すると、新名さんは顔を赤らめながらぼくの方に顔を近づけた。彼女の熱が移ったかのようにぼくも顔が熱くなっていく。そして、二人にしか聞こえないくらいの小さな声で、こうささやいた。
「もしお時間がありましたら、放課後、私の家に来ませんか?」
予想外の言葉に、すぐにその意味を飲み込めず、ぼくはただ、頷いていた。
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