第6話.もう後輩ができました~男心を弄ぶ女は許さんぞ
迎えた部活紹介当日。
体育館に集められた全校生徒を前に、壇上にいる各部活の部長は、順に一分程度で話をしていく。
部活見学自体は入学式の次の日から行われており、既に入部を終えた一年生も多い。そのため、これから部活を決めるという生徒はあまりいないようだ。加えて昼休み直後ということもあり、眠そうにしている生徒もちらほら見られる。まあ、ぼくも去年はそうだったし、気持ちはわかる。
さあ、いよいよ新名さんの番が回ってきた。
彼女な小さな手が、マイクを掴む
「皆さんこんにちは。哲学研究部部長の
丁寧なお辞儀。遠くからでも彼女の品の良さが伝わってくる。
「哲学研究部は、先週設立されたばかりで、現在、私を含めて二名が在籍しています」
他の部長はほとんどが原稿を見ていたが、新名さんは生徒に顔を向け、落ち着いて堂々と話している。さすがだ。
「哲学と聞いても、あまりぴんとこないという方が多いかと思います。実際、日常生活の中で哲学が必要になる場面はほとんどありません。しかし哲学は、視点を増やし、世界を広げ、人生を豊かにしてくれるとても素敵な学問なんです。私は、その喜びを皆さんと共有したいです」
熱く想いを語りながら、時に笑顔も見せている。
かわいいのに、かっこいい。
「少しでも興味を持っていただけましたら、ぜひ放課後、部室に足を運んでみてください。お待ちしています。ご清聴ありがとうございました」
新名さんが頭を下げると、パラパラと拍手が鳴った。
この中でどれくらいの人が興味を持ってくれたかはわからない。
でも、新名さんの真っすぐな想いはきっと伝わったはずだ。
少なくともぼくの心には、新名さんの情熱は深く刻まれていた。
※※※
「新名さん! すごくよかったよ」
「ありがとうございます。私、緊張してしまって」
「そうなの? 全然見えなかったよ。かっこよかった」
体育館での部活紹介を終え、部室に戻った新名さんは、緊張したとは言いつつも、すっきりした表情だった。
皆が見ている前でもあんなに堂々と話せるんだもんな。本当にすごい。ぼくなら50回は噛んでいただろう。
ただ……。
全校生徒に彼女の魅力がばれてしまったことだけが不安だ。良からぬ輩が寄って来なければいいのだけれども。
「とりあえず、いつも通り本でも読みましょうか」
「そうだね。待っていても仕方ないし」
と、本を読みつつ後輩が来るのを気長に待とうと思ったのだが、ページを開いてもソワソワしてなかなか進まない。まあ、ぼくの目が滑るのはいつものことなんだけど。
でも新名さんも同じみたいで、手がほとんど動いていなかった。それに何度も目が合う。瞳が美しすぎて吸い込まれそうだ。途中から新名さんに目を奪われ、もはや本に注意が向かなくなっていた。
「ふふふ。落ち着かないですね」
「う、うん。そうだね」
あなたに見とれてたせいです。ごめんなさい。
……いいえ、違うわ。あたしは悪くない。新名ちゃんがかわいすぎるのがいけないのよ。ほんとすぐあたしの心を鷲掴みにしちゃうんだから。ぷんぷん。
と、脳内になぜかお姉口調の新名オタクが召喚され、そろそろ診てもらった方がいいかもと考えていた時、部室の扉が動いた。ぼくと新名さんは同時に立ち上がる。
「失礼しま~す。哲学研究部ってここで合っていますか」
そこにいたのは、整った顔立ちの美人な女の子だった。新名さんよりも頭一つぶんくらい背が高い。短いスカートと着崩した制服、そして首にはネックレス。髪は二つに結ばれており、大きめなウサギのアクセサリーをつけている。まさにJKって感じだ。あと胸が大きい。
「はい。合っていますよ」
「よかった~。文芸部って書いていたから間違えたかと思いましたよ~」
扉のとこか。たしかにあれ紛らわしいよな。後で何とかしないと。
「あ、えっと入部希望で~す」
「本当ですか! ありがとうございます! 部長の新名智愛です。よろしくお願いします」
待ちわびていた言葉を聞くと、新名さんは腕をパタパタさせながら駆け寄っていった。ペンギンみたいでかわいい。遅れてぼくも、新名さんの隣に立つ。
「あたし、一年の
軽くお辞儀すると、彼女の二つに結んだ髪、すなわちツインテールもペコリと垂れた。
何を隠そう、ツインテールはぼくの一番好きな髪型だ。子どもっぽいとか言われることもあるけど、ぼくはそうは思わない。
想像してみてくれ。いつも髪を下ろしている君の好きなあの子が、イメチェンと称して髪を二つに結んでいる姿を。そう、ツインテールは女性の魅力を何倍にもする可能性を秘めているのである。いつか新名さんにもやって欲しいです。
まあ、そんな話はさておき。なぜ彼女はこの部活を選んだのだろうか。
どう見ても、哲学みたいな堅い響きは似合わなそうな女の子だ。話し方もなんか緩いし。
そんな疑問を新名さんが代弁してくれた。
「暁月さんはどうして、哲学研究部に入ろうと思っていただけたんですか?」
「えっと~。あたし、もともと部活する気はあんまりなかったんですよね。めんどくさいことは嫌いだし。でも、友だちがみんな部活入っちゃうし、あたしだけ暇なのもやだな~って思って。そしたら今日、体育館で新名先輩が話しているのを聞いて、そんなにきつくなさそうだからいいかな~って」
なるほど。それなら納得がいく。
最近できたばかりの少人数の部活。そして優しそうな部長。
活動が厳しいということはまずないだろう。あまり積極的な理由ではないけれど、入ってもらえるだけありがたい。
「それに……」
暁月さんがさっと両手で新名さんの手を握る。
「新名先輩がかわいすぎて!」
突然のことに、新名さんも反応できず、顔を真っ赤にさせながらあわあわしている。
「きらきらした大きな瞳に小動物を彷彿とさせる小さなお口。さらさらの美しい髪は、もはや神々しさすら感じます。それなのに、大衆を前に威厳たっぷりに話される姿はとてもとてもかっこよくて。まさにあたしの理想の女性です。ファンになってしまいました」
「あ、ありがとうございます」
新名さんが珍しく押されている。こんなに照れてる姿は初めて見た……。けれど、それもまたイイ。
って、違う違う。なんなんだこの女。軽々しく新名さんに近づきやがって。まあ、新名さんの魅力を一瞬で見抜いたことは褒めてやる。だが残念だったな。いち早く彼女の魅力に気がついていたのはこのぼくだ。忘れるな。とりあえずその手を放せ。
そんな心の叫びが聞こえたのか、暁月さんがこちらにくいっと身体を向ける。そういえば、自己紹介がまだだった。
「二年の相田翼です。よろしく」
ぼくは威厳が出るよう胸を張り、できる限り低い声で言った。だが暁月さんの反応を見るに、特に効果はないようだ。
「よろしくお願いしま~す」
初対面の異性×先輩だろうとリラックスしてしまうところに強者の余裕を感じる。対して、ぼくは彼女の太ももや胸がチラつき目が泳ぐ。これが格の違いか……。
すると、暁月さんは背伸びをし、ぼくの耳元でこうささやいた。
「先輩も、新名先輩目当てですか?」
「え!? い、いや……。べ、別にそういうわけでは……」
た、たしかに、新名さんと話さなかったら、哲学のことなんて何もわからなかったけど。ぼくが入ったのは純粋に哲学への興味からで。だから新名さん目当てとかそういうんじゃありません!
……まあ、新名さんともっと仲良くなれるかもって下心がなかったわけでもなくもなくもないけど。
と、動揺するぼくを見て、暁月さんがプッと吹き出した。
「冗談ですよ〜。先輩、さてはモテないでしょ?」
「う、うるさい。余計なお世話だ」
「すみませ〜ん」
先輩らしく振る舞おうと思ったのに、完全に暁月さんのペースだ。それにしても男心を弄ぶなんて……。許せん。悔しい。男の敵だ。
そもそも、ぼくは女の子の家に行ったことありますし、まったくモテないってわけじゃないと思いますよ。はい。
だが、頭ではどんなに彼女に反発していても、目は彼女の胸や太ももに引き寄せられてしまうのが男の性。こればかりは仕方ない。思春期だもの。
「暁月さん。改めてこれからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いしま〜す」
「ふふふ。困ったことがあったら何でも言ってくださいね」
「は、はい!」
新名さんに声をかけられると、さっきまでの態度が嘘のように、暁月さんは素直に振る舞う。まあ、そりゃ新名さんの方が頼りがいあるけどさぁ。そこまで露骨に態度に出さなくてもいいじゃないか。拗ねちゃうぞ。
そして、新名さんに席に座るよう促されると、暁月さんはすぐに新名さんの隣を確保した。
ずるい……。ぼくの特等席だったのに。
「あたしは何をしたらいいですか〜?」
「そうですね……。私たちも今はいろいろ読んでみているという段階なのですが」
新名さんは立ち上がり、本棚へと向かう。するとそこから比較的薄めの本を取り出した。ちなみに本棚は、おそらく文芸部が残していたものだ。初めはほぼ空だったものの、山口先生が自分の本を持ってきてくれたため、今はかなり充実している。
「まずは、これを読んでみてはいかがでしょうか。『ソクラテスの弁明』という作品なのですが」
部活を始めた日に話していた人の本か。新名さんも尊敬しているって言ってたもんな。
でも意外と厚くなさそう。なんか意外だ。
哲学の本って長くて難しくて訳わからないものばかりだと思ってた。
「これはプラトンという哲学者が、師匠であるソクラテスの裁判の様子を……」
新名さんの熱い想いがこぼれる。
そういえば、ソクラテスは一つも著作を残してないんだっけ。それで現代まで名前が残っているんだからびっくりだよな。
暁月さんもうんうんと頷いている。
「す、すみません。私また夢中になってしまって……。」
「いえ、新名先輩の情熱が伝わりました! 素敵です!」
「ありがとうございます。暁月さんにも読んでもらえたら嬉しいです」
「は〜い。読みま~す」
暁月さんは受け取ったその本をさっそく開いた。
だが、十秒で頭がぐらぐらし始め、一分後には机に突っ伏してしまう。
「疲れていたんですね、きっと。しばらく寝かせてあげましょう」
新名さんは自分の
でも暁月さんの気持ちもわかるなあ。あまりに内容が理解できないと、ぼくも思考が停止しちゃうもの。
こうして、静けさが戻った部室で、ぼくたちも読書を再開した。
ちなみに、ぼくがいま読んでいるのは、ジョン・スチュワート・ミルの『功利主義』という本だ。功利主義というのは簡単に言えば、行為の基準を幸福の最大化に置く考え方だ。と、先日新名さんが教えてくれた。
「ねえ、新名さん」
すでに本の内容をまとめ始めている新名さんに声をかける。
「はい、なんですか?」
「いま読んでいる『功利主義』で気になる部分があるんだけど、確認してもいいかな?」
「もちろんです!」
新名さんの大きな声に反応し、暁月さんが一瞬ビクッと動く。
が、起きたわけではないらしい。
反省してか、新名さんは口を手で押さえ、「続けてください♡」とぼくに目で合図した。……ほんとにハートついてたもん。嘘じゃないもん。
「満足した豚よりも、不満足な人間であれ、満足した人間よりも不満足なソクラテスであれ、っていうところなんだけど」
「幸福は量だけじゃなくて、質も大切だと論じている部分ですね」
音量を抑えながら、新名さんが相槌を打つ。
ベンサムという哲学者は『最大多数の最大幸福』を社会の目的だと考えたが、ミルはそこに快楽の質という概念も取り入れた。簡単に言えば、お腹いっぱい食べる快楽よりも崇高な芸術作品に心動かされる快楽の方が質が高いから、快楽の量だけじゃ比較できないよってことだ。まあ、これも新名さんの請け売りだけど。
あと、哲学の祖と言われるだけあって、当たり前にソクラテス出てくるな。この人が賢者であることは共通認識らしい。ぼくも何かの祖になってみんなに尊敬されたい。
「ミルの言いたいこともわかるんだけど。質とか関係なくたくさん満足できる人生の方がいいような気もして……。新名さんはどう思う?」
「そうですね。ただ、私は質の高い快楽に価値がある理由って、生きることに多くの意味を与えられる点にあると思うんです。どれだけ欲望に忠実に生きていても、その場限りの快楽を重ねるだけでは、人生そのものに意味を見出せなくて、どこかできっと、やりきれなくなってしまうから」
人生に意味を与える、か。その重みはぼくも痛いほど知っている。
ぼくは自分で生に意味を与えられず、他者にそれを委ねて、こじらせてきたから。
「不満足なソクラテスであるべき、というミルの言葉。学びによって、世界をより広く深く見られるようになることで増える、悩みと苦しみを端的に示しているなあと、私は思うんです」
「そう、なのかな?」
あまり飲み込めていないぼくを見て、新名さんは説明を続けた。
「知っていることが増えるにしたがって、自分の選択肢もまた増えて。そうすると今まで当たり前だと思っていたことにも、悩む余地が生まれるじゃないですか」
「えっと、今までは朝ごはんを納豆ご飯にしてたけど。夜の納豆もおいしいってことを知ると、納豆ご飯をいつ食べるか迷うようになる、みたいな?」
まあ、我が家では結局朝も晩も納豆を食べるんだけどね。
新名さんがお上品にクスッと笑って言った。
「たぶん、そんな感じです」
ぼくのような庶民の気持ちにも寄り添ってくれて。新名神はお優しい……。
「それって、たしかに悩みは増えるけど、とても満たされてるなとも思うんです。流されるしかなかった人生の一部に、主体的に選択できる余地が生まれたってことだから。質の高い快楽を求める段階にいられるということ自体が、ただ快楽に流されるだけの生き方よりもよいと言えるのは、こういうところにあるのかなって」
「なるほど。新名さんらしいね」
たしか、以前『道徳の系譜』について話していた時も、新名さんは似たようなことを言っていた。人生を選択する、か。やっぱりかっこいいな。新名さんは。
「あたしは悩んで苦しむくらいなら、誰かに決めて欲しいってなあって思いま~す」
寝ていたはずの頭が急に起き上がる。
びっくりしたぁ。何なんだよ、おい。
驚いてまた机に膝ぶつけてしまったじゃないか。
うう、痛いよぉ。
「暁月さん……。寝てたんじゃないの?」
「寝てましたよ。七割くらい」
「七割?」
「はい。ほら、電車とかでよくあるじゃないですか〜。眠っていたサラリーマンが、目的地ついたらぱっと起きるやつ。それくらいの睡眠度ですね」
「うーん、なるほど?」
「目を瞑っているだけでも意外とすっきりするんですよね〜。まあそれで、なんかおもしろそうな話をしてたのでおきました」
「そ、そうなんだ」
納得したような、してないような。ここ電車じゃないし。この人サラリーマンじゃないし。
まあ細かいことはいいか。せっかくだからさっきの話、暁月さんにも聞いてみよう。
「暁月さんは、あまり悩みたくないタイプ?」
「う~ん。あたしそんなに頭よくないので、悩んでも結局間違えそうなんですよね~。だから、悩むだけ無駄なので適当に決めちゃいたいです~」
「あー、なるほど。一理あるかも……」
暁月さんらしい考え方だが、納得もいく。悩んで決めたことって、失敗しても自分に言い訳できないもんね。それなら、余計なことを考えず決めてしまうというのも悪くないのかもしれない。あまり彼女に共感したくはないけど。
「先輩もそういうタイプですもんね」
「え、そう?」
いやまあ、ぼくも楽な方に流れることはあるけど、あなたとは違うような。
「だってほら、先輩欲望に忠実じゃないですか〜」
「いや、そんなこと――」
暁月さんが自分の胸を指して、口パクでなにか言っている。『見 て ま し た よ ね?』……ってばれてた⁉
いや、あれは目線が勝手にそっちに向いただけで、別に見てたわけでは……。それに、ぼくは胸より太ももの方が好みだし。だってよく考えてみてよ。あのふくらみの中に本当に胸が詰まっているかなんて、服の上からではわからないじゃん。もしかしたらなにか別のものが入っている可能性だってある。それに比べて太ももは肉眼で認識可能。どちらが魅力的かなんて明白だ。いや、まあ、巨乳は気になるんだけど……。
「相田さん、そうなんですか?」
「いや、えっと……」
うえーん。ひどいよぉ。このままじゃ新名さんに変態さんって思われちゃう。
「ほ、ほら。あのー、夜とか? 欲望に負けてすぐ寝ちゃうし。ははは」
「なるほど……?」
新名さんが首をかしげる。あまり納得していないようだ。おのれ小娘。どうしてくれる。前言撤回だ。貴様に共感など二度としてなるものか。
「いや~、哲学って難しいけどおもしろいんですね」
我が敵が何ごともなかったかのように姫に話しかけておる。先刻までわしをからかっておったのが嘘のようじゃ。ぐぬぬ。
「ふふふ。そう思ってもらえると嬉しいです。ゆっくりでいいので、一緒に学んでいきましょうね」
「新名先輩、優しい……。あたし、がんばります!」
こうして、新入部員は再び本を開いたのだった。
……解せぬ。
(参考文献 J・S・ミル著,関口正司訳,2021「功利主義」岩波書店 )
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