第9話.デート回、前編です!~ぼくはリードできないけどね

 翌日。土曜日。新名さんとお出かけの日。


 学校が休みの日はいつも昼まで起きないが、今日はほとんど寝られなかった。


 だって、休日に男女が二人で出かけるって。それってほぼ……デートじゃないか。「そんな発想だからモテないんですよ~」と、先日からぼくの心に住み着くイマジナリー暁月さんの声が聞こえたが、無視だ無視。というか出ていけ。


 と、葛藤していると待ち合わせの駅に着いた。

 9時30分。学校の最寄り駅で、普段は生徒でごった返しているが、休日なのでほとんど人がいない。学校関係者以外でこの駅を使う人いるのか? この学校がなくなったら、一緒になくなってそう。


 ここで新名さんと合流し、電車で移動する予定だ。でも約束は10時。さすがに早く着き過ぎた。さて、どうしよう。まわりに時間潰せるとこなんてないし――


「おはようございます。相田さん」


 美しいお声がぼくの名前を呼ぶ。

 きゅんとして振り返ると、そこには学校とはまた違った雰囲気の、美しき天使様がいらっしゃった。


 初めて見る新名さんの私服。水色のワンピースは、風で裾の部分が少し膨らんでいて、ドレスをまとったお姫さまって感じだ。胸元についた大きな白いリボンもとてもかわいらしい。そして、髪にはあのお気に入りのイルカ。テーマは海といったところだろうか。とても爽やかだ。


「おはよう、新名さん」

「お待たせしてしまってすみません」

「大丈夫、いま来たとこ」


 言ってみたかったセリフ№3。男はどれほど待とうとも、いま来たばかりであることを宣言すべきなのだ。ちなみに一番は『ここは俺に任せて先に行け』である。


「それでは行きましょうか」


 電車で移動し、街中のショッピングモールに入る。この辺りで高校生が遊ぶとなると、まず候補に上がる場所だ。

 というか、うちの学校の周り、本当に何もないのよ。大きい建物は薬局くらい。寄り道しようにもする場所がないこの悲しさ……。


 モール内で最初にぼくたちが訪れたのは、この街一番の大きな書店だった。


「ここの本屋さんはカフェが併設されているんです。本を購入すると飲み物が割引になるんですよ」

「へえ、いいね」


 というわけで、まずは本を探すため、哲学の古典コーナーへ向かった。難しそうなタイトルの本がびっしりと並べられている。知らない著者の群れの中に、『ニーチェ』という文字を見た時には、何だか知り合いに会ったような安心感を覚えた。

 新名さんは目を輝かせながら、本棚を隅から隅まで見ている。きっと知り合いも多いんだろうな。


「新名さん、嬉しそうだね」

「は、はい。ここに来ると、まだ読んだことのないたくさんの本を目の当たりにして、ついワクワクします」


 新名さんは少し照れくさそうに、頬を赤らめながら言った。


「すべての本に触れることは、一生かけてもできませんが、だからこそ、一つ一つの本との出会いを大切にしたいなって、そう思うんです」

「そっか。今日も、そんな出会いがあるといいね」

「はい!」


 視線を再び棚に移し、本を順に見ていく。すると、あるタイトルが気になり、ぼくはそれを手に取った。


「この本、なんかこわいね」


 そこには『死に至る病』と書かれていた。


「キルケゴールですね。初めてルサンチマンを哲学的に定義したとされる人です。昔、図書館で一度読んだことがありますが、内容が難しすぎて挫折してしまいました」

「新名さんでさえわからないなんて……」

「いえいえ。私だってわからないことだらけですよ」


 たぶん、新名さんの『わからない』は、ぼくとは次元が違うと思うけど。知れば知るほどわからないことが増えてくる、みたいな。ぼくはただ理解力がないだけです。


「じゃあ、ぼくはこの本買ってみようかな。死に至る病って何なのか知りたいし。読める自信はあまりないけど……」

「いいですね。私もこの機会にもう一度読んでみたくなりました」


 こうして、新名さんはぼくと同じ『死に至る病』を選んだ。


「ふふ。おそろいですね」


 彼女のかわいすぎる笑顔と、お揃いという素敵な響きに、ぼくは既に悶え死にそうだった。落ち着け、自分。読む前から死に至ってどうする。


 次に、ぼくたちは資格試験向けのコーナーに移動した。

 資格っていろいろあるんだなあ。ぼくに馴染みがあるのは英検くらいだけど。それも中学生で三級を受けたっきり。準二級のテキストは埃を被ってる。


「新名さん、何か資格とるの?」

「はい。ドイツ語の検定を受けてみようかと思っています」


 もはや英語ですらなかった。昨日、ドイツの大学行きたいって言ってたもんな。


「学校の教科以外の勉強も……すごい」

「ありがとうございます。でも、やっと文法が少しわかってきたくらいで。単語もまだ全然覚えられていないんです」

「いやいや。勉強しているだけですごいよ」


 ぼくは英語の試験さえ投げ出したのに。他の言語にまで手を伸ばすなんて信じられん。

 かなり悩んだ結果、最終的に新名さんが選んだのは分厚いドイツ語の単語帳だった。


「では、買ってきますね」


 これ以上新名さんに置いて行かれないよう、ぼくも英語の問題集を一つ購入した。

 帰ったら、埃を被ったテキストも救出してあげよう。


 そしていよいよ、ぼくたちは併設されたカフェに向かった。

 お客さんは皆静かに読書を楽しんでおり、時間がゆっくり流れているみたいだ。

 案内された席に着き、二人でメニュー表を見る。


「相田さんは何を飲まれますか?」

「うんと、じゃあコーヒーで」

「わかりました。私は……私も同じにします」


 同じという響きがなんだか嬉しい。二人だけの特別って感じがする。「おめでたい頭ですね~」とか言うなし、イマジナリー暁月さんよ。


「初めて来たけど、すごくいいところだね」

「ふふふ。よかったです」


 新名さんの素敵な笑顔を拝みながら、幸せを噛み締めていると、店員さんが来てその場でコーヒーを入れてくれた。新名さんがマグカップに手を掛けたのを見て、ぼくもそれを口に運ぶ。うん、苦い。コーヒーにこれ以外の感想を持ったことがない。違いの分からない男、相田翼です。


 先ほど買った本を開く。序盤からかなり難解だ。何もわからないと言ってもいい。ただ、新名さんのページをめくる手もかなり遅くて、じっくりと読んでいるのが伝わってきた。


「ねえ、新名さん。一つ聞いてもいい?」

「はい。なんですか?」

「死に至る病とは絶望のことなんだよね? それがどうして信仰と結びつくんだろう」


 ぼくの質問を聞くと、新名さんは本に栞を挟み、それをテーブルに置いた。そして目を閉じ、ゆっくりと天井に顔を向ける。数秒の沈黙の後、彼女はぼくの目を真っすぐに見据え、一つ一つの言葉を確かめるように、慎重な様子で語りだした。


「これは私の理解ですが……。真の絶望を経験した先に信仰はある、ということかなと。極端な話、ずっと神様を信じてきた人でも、不幸な出来事が度重なったりすると、神様の存在に疑念が生じることもある気がして。何事にも揺らぐことのない真の信仰。それに至るためには、絶望を理解し、受け入れる経験が必要なのではないでしょうか」

「うーん。わかるような、わからないような……」


 そもそも、日常であまり神様を意識することがないからなあ。絶望なら、新名さんに冷たくされるだけで簡単に覚えるけど。


「相田さんは創世記のアブラハムとイサクの話はご存知ですか?」

「ご存知ないです……。すみません」


 教養の差を感じる。うう。


「だ、大丈夫ですよ」


 新名さんに慰められ、ただただ申し訳なさが増していく。

 幼稚園の時に歌った『♪アブラハムには7人の子~』の歌なら知ってるけど……。一人はのっぽで後はちびってひたすら言うやつ。


「『アブラハムの子』の歌のアブラハムは、この旧約聖書のアブラハムだと言われているのですが――」


 あ、本当にそうなんですか。

 珍しくぼくの予想が当たった。


「アブラハムはある日、神様から息子のイサクを生贄にするように告げられるんです。アブラハムはその命令通り、息子を捧げるため山に登ります。そして、彼は息子を縛り、手を下そうとするのですが、その直前に神様が止めに入り、アブラハムはその信仰の深さを讃えられるんです」

「神様に命じられたら息子も捧げるんだ……。すごい話だね」


 なんか神様が意地悪すぎる気もするけど。

 息子もかわいそうだし。そういうものなのかな。


「この試練は、良心や常識自体が惑わしになっていて、アブラハムが息子を愛しているからこそ、彼を殺すことに葛藤するわけです。もし、アブラハムが人を殺すことを厭わない悪人であったなら、これは試練にならかったでしょう。良心と葛藤し、なおも信仰を選択する覚悟。それは日常的な正しさの次元を超えていて、現代に生きる私たちがまねできるようなものではありませんが、それでも、その信仰の強さには圧倒されるんです」

「うーん。たしかにすごい覚悟だよね」

「たぶん絶望が信仰と結び付く理由も同じで、より深い絶望を経験するからこそ、頼れるものは神しかいないという境地に達することができるのかなと」 


 なんだか頭がこんがらがってきたな。

 でも、神様への信仰を極めるには、相応の強い覚悟が必要だということはわかったぞ。


「でも、なんか遠い話のように感じるなぁ」

「そうですね。けれど、私たちとまったく無関係ではないと思います。たとえば、相田さんはもし、一週間後に地球が滅亡するとしたら、今と変わりない仕方で生きることができますか?」

「いや、限られた時間で何しようってめっちゃ悩むと思う」

「そうなんです。でも実際、死はいつ訪れてもおかしくない。一週間どころか、明日終わりを迎えるかもしれないんです。ただ、私たちはその可能性を先送りにしてしまう。そういう意味では、私たちも向き合うべき現実から目を背けていると言えると思うんです」


 たしかに。小さい頃は死ぬのが怖くて眠れない夜もあったけど、最近は考えなくなってたな。その原因は、何ひとつ解決していないのに。


「だから、自分の死と向き合った時、後悔しないためにも、キルケゴールから学ぶことはあるのかもしれません」

「そうだね」


 新名さんっていつも、こんなに難しいことを考えているのかな。ぼくは頭を使いすぎてへとへとだ。


「もうこんな時間!」


 時計を見ると、席に着いてから既に二時間近く経過していた。


「とりあえず出ようか」


「そうですね」


 会計はぼくがスマートに済ませたが、店を出たところでもっとスマートに、新名さんに代金を渡された。かっこつけさせてくれてありがとう。


「この後、どうしようか」

「あの、もう一つ行きたいところがあるのですが、付き合っていただいてもよろしいですか?」



――デート回、いよいよ後半戦です――



(参考文献 キルケゴール著,鈴木祐丞訳,2022『死に至る病』国宝社)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る