第8話.後輩が助けを求めています〜ぼくも名前で呼ばれたい

 次の日も、ぼくは部室でミルさんと葛藤していた。暁月さんはまだ来ていない。


 うーん。今日はいつも以上に目が滑る気がする。疲れてるのかな。昨日はあの女に振り回されたし。ぐぬぬ。

 こういうときは癒やしを摂取するに限る。そう、新名にいなさんの観察だ。


 ぼくは視線を左前方、すなわちお美しい新名様のお顔へと向ける。


 本を読む新名さん、ほんとに天使だなあ。すごく集中した目だ。苦戦しているのかな。口がいつもよりきゅっとしまってる気がする。あ、緊張が緩んだ。嬉しそう。なにかわかったのかな。かわいすぎる。ずっと見ていたい。


 おっと、いかんいかん。また顔がにやけてしまった。これでは新名さんに引かれてしまう。昨夜練習した爽やかな笑顔をキープしないと。


「智愛せんぱーい。助けてくださーい」


 部室の扉がバーンと開き、暁月さんが登場した。新名さんの顔が上がる。まずい。見ていたのがばれる。軽蔑されちゃう。『変態! ストーカー!』とか言われちゃう。いや、新名さんなら『……気持ち悪いです』って冷たく言うのかな。あれ、ちょっといいかも。


 だが幸か不幸か、新名さんの視線はそのままあの少女に引き寄せられる。ふぅ、新しい世界せいへきは開拓されずに済んだか。

 って、ん? まてよ。いま新名さんのこと名前で……。


「どうしたのですか、奏さん?」


 新名さんまで……。ずるい。ずるいぞ! ぼくだって名前で呼ばれたいのに。『……翼くん』って言われたいーーー。言われたい言われたい言われたいーーーーー。


 だが、ぼくの心の叫びは届かず、暁月さんは続けた。


「昨日、数学と英語の小テストがあったんですけど。帰ってからママに見せたらめっちゃ怒られて。期末テストで半分取れなかったら塾に行きなさいって。酷くないですか?」


 二枚のテストが机の上に置かれた。50点満点中、数学12点と英語16点。


「あー。これは塾に行った方が――」

「あたしの睡眠時間はどうなるんですか! ニキビが増えちゃうじゃないですか!」


 ぼくの提案は即座に退けられる。まあ、たしかに寝るのは大事だ。たくさん寝ないと大きくなれないもの。昨日だって部室で寝てたじゃん、というのは置いておこう。けど暁月さん、(何がとは言わんが)十分に大きいような。


「あたし、暗記はけっこう得意なんですけど、数学と英語は全くダメで……」


 暁月さんは新名さんの方だけを見ている。ぼくに用はないみたいだ。そもそも、ぼくの名前は呼ばれてないか。


「部活入ったばかりで、こんなこと頼むのは本当に申し訳ないんですけど、あたしに勉強教えてもらえませんか? あたし要領が悪いから、たぶん一人じゃ、勉強も部活もっていうのは難しくて。でも、ここでの時間は絶対に手放したくないんです。きっかけは軽い気持ちだったけど、昨日お二人の話を聞いて、あたしにとっても大切なものもここにはあるって、そんな気がしたから」


 暁月さんの目は真剣だった。


 そっか。

 彼女も彼女なりに、悩み苦しんできたんだな。


「わかりました。一緒に頑張りましょう!」

「智愛先輩、いや智愛様、ありがとうございます」


 智愛様……か。

 新名さんにふさわしい呼ばれ方だな。

 ぼくのこともその10分の1でいいから敬ってくれ。


「あの、相田さんの得意な教科って何ですか?」


 本日初めて、人に声をかけられる。よかった。ちゃんと認識されてた。もうぼくの居場所はないのかと思っちゃった。


「うーんと。一番できるのは数学かな」


 こないだのテストも数学は四位だったもんね。

 上に三人もいるって落ち込んでしまうのは、ぼくの性格の損な部分だとは思う。


「では、私が英語を教えるので、数学は相田さんが教えませんか?」

「……!」


 まさかだった。


「えっと……。ぼくが暁月さんに……?」

「はい。お二人の仲も深まってきているみたいですし、いい機会かなと思いまして」

「深まってる、かな……?」


 ただ舐められているだけのような……。それにあまり自信もない。

 客観的に見て、ぼくは勉強ができる方ではあると思う。けれど、教えるとなると話は別だ。知識を人に伝える力は新名さんの足元にも及ばない。地の頭の良さが違うというか。


 でも何となく、新名さんから断りづらい圧を感じる。やっぱり昨日から少し怖くない? ぼくの気持ち悪さに愛想をつかされたのかなあ。


 ぼくは考える素振りを見せつつ、新名さんの顔色をちらちらと窺っていると、彼女のある変化に気がついた。


「新名さん、そのイルカの髪飾り、すごくかわいいね!」

「ほ、本当ですか? ……ありがとうございます」


 控えめにお礼を言っているが、先ほどと比べて明らかに口角が上がっている。かなり機嫌が好さそうだ。よほど気にいってるのだろう。見たか。ぼくは女性の変化に気がつける男なのだ。


 新名さんは、そのまま頬を緩めて話し出した。


「私もまだまだ人に教えられるような人間ではありません。ただ、持っている知識を相手に伝えることは、自分の視野を広げるきっかけになりますし、哲学にも役に立つと思うんです。せっかくの機会ですし、このテスト勉強の時間を、暁月さんだけじゃなくて三人で成長できる機会にしませんか?」


 なるほど。これも部活の一環ってことか。良かったー。てっきり、暁月さんを押し付けられたのかと思っちゃった。

 それにしても新名さん、本当によく考えているな。謙虚なのに向上心があって。どこまで魅力的なんだろ。


「わかった。ぼくも一緒にがんばるよ」

「ありがとうございます。奏ちゃんもよろしいですか?」

「もちろんです! ありがとうございます。相田先輩、よろしくお願いします」


 そう言って、暁月さんはにこっと微笑む。こうして見ると、やっぱり美人だよな。

 いつもこれくらい素直ならいいのに。


※※※


 部活後、暁月さんはもう少し勉強したいということで図書室へと向かった。

 新名さんはどうするんだろ。やっぱり図書室行くのかなぁ。できれば一緒に帰りたいけど。でも、昨日は断られちゃったしな。どうしよう。


「相田さん、一緒に帰りませんか?」


 まさかの新名さんからのお誘い。

 嬉しいよー。イルカのおかげかな。


 校舎を出ると、部活を終えた運動部の生徒たちで賑わっていた。誰が見ているわけでもないが、女の子と二人というのは何となく緊張する。


「私たちもテスト勉強、がんばらないといけませんね」

「あ、そうだよね」


 暁月さんに助けは求められたけど、テストが近いのはぼくらも同じだ。

 そういえば、新名さんはやっぱり成績も優秀なのかな。勉強苦手なイメージはまったくないけど、あまりそういう話をしたことなかったな。


「新名さんって勉強得意なの?」


 ストレートすぎる聞き方をしてしまった。新名さんも少し困った顔で考えている。ダメな男だ。また暁月さんに「はあ、こんなだからモテないんですよね、」とか言われてしまう。うるさい、余計なお世話だ。


「うーん。どうなのでしょう。知らないことを学ぶのは好きなのですが、得意かと聞かれると……。ただ、数学は少し苦手です。それもあって、相田さんの力を借りさせていただいたんです」

「そうなんだ。新名さんに苦手ものなんてないのかと」

「ふふふ。そんなわけないじゃないですか」


 新名さんが心底おかしそうに笑っている。

 いや、全然冗談のつもりはないのだけれど。

 それくらい、完璧に見えますよ?


「でも、外国語の勉強は特に力をいれてしまいます。実は私、ドイツの大学を目指しているので」

「ドイツ! すごい。ニーチェが生まれたとこだから?」


 あれからニーチェについて少し調べて知ったんだけど。ドイツはニーチェのみならず、カントとかヘーゲルとかマルクスとか、有名な哲学者を多数輩出した国らしいですね。


「もちろん、それもあります。やっぱり、彼ら哲学者の思想を直接受け止めるためには、ドイツ語を学ぶことが不可欠かなって。そうして、自分の可能性を広げていきたいんです」


 新名さんはすごいな。

 将来を見据えて前に進み続けていて。

 それに比べてぼくは……。


 特に何を目指すでもなく、なんとなく将来に役立ちそうだからという理由で、それなりに勉強して。時間は皆に平等なのに、新名さんが成長している間、ぼくは少しも変わっていなくて。彼女と出会ってから、そんな焦りをより感じるようになった。


「それでは、私はここで。付き合ってもらってありがとうございました」


 気がつけば、新名さんの家の前だった。実は、普通に帰るよりもやや遠回りだが、少しでも長く一緒にいたいのでこの道を通っている。新名さんには内緒だ。


「ううん。こちらこそありがとう。それじゃ、また明日ね」

「は、はい。えっと、お気をつけて」


 新名さんに別れを告げ、少し寂しさを感じつつ、来た道を引き返そうと足を踏み出した時、背中から再び声がした。


「あ、あの」


 振り返ると、手をぎゅっと握り、耳を真っ赤にした新名さんがいた。


「どうしたの?」


 すると、新名さんは一度深く息を吸い、そして言った。


「明日、もしお時間ありましたら、一緒にお出かけしませんか?」



 ――次は、デート(仮)回です――

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