第一章 後宮守翡翠、後宮を死守できず。 ⑥

「そうよ、あんな皇帝、ちっとも好きじゃなかった。あんな禿げて太って口が臭くて足も臭い皇帝の寵愛を争うなんて、妃嬪たちは可哀想だと思っていたくらいなのに!」

「そうよ、一度だけ声を掛けられたことがあるけれど、げぇって感じだったわよ。『げふげふげふげふ、お主、よい髪質をしているな』なんて言われて! おぇー」

「あんな男の相手をして喜んでいるなんて、妃嬪はみんなどうかしているわよと思っていたくらいなのに」


 前言撤回である。


 皆、しこたま飲んでかなり酔いが回っているらしい。香澄も、いつも物静かな女性、という雰囲気なのに、すっかり興奮している。


「そんな奴のために死ぬなんて冗談じゃないのよ!」

「そうよ。禿げて太っているのはまあ仕方がないにしても、あいつのやりようって本当に酷くなかった? 気に食わない官女がいるとすぐに器を投げつけたり棒で殴ったりして。中には一生き残る傷を負わされた人もいたわ」

「その、気に食わないの理由も酷かったわよね。今日はいつもよりも顔がむくんでいる、儂の御前に出てくるのにその顔は何事だって。人間なんだから、顔がむくむ朝も、疲れて顔を洗う気力さえない日もあるっていうの!」

「皇后様も酷かったわよ。気に入らない女官の額に『狗』って入れ墨させて。狗なんだから人の言葉を話すな、四つん這いで歩け、狗のように吠えろって強要して……。可哀想に、半年も経たないうちに病気になって、そのまま亡くなってしまったわ」

「それを言うならば、皇后様付きの宦官も酷い目に……」


 今まで堪っていた皇帝や皇后たちへの不満をぶちまける宮女たち。ふたりが生きている頃だったら、そんなことを口にしたが最後、死ぬまで牢に繋がれてもおかしくない罪だった。後宮のあちこちで宴……というと少し語弊がある、酒を飲む場がもうけられているらしいが、みんなこんなふうなのだろうか。


「悲しいねぇ」


 官女たちの話を聞いていた稜諒が、物憂げにため息を漏らす。


「嫌な主に仕えて耐えていたのに、そんな主のために死なないとならないとは。それが宮仕えの宿命とはいえ、やりきれないよねぇ」


 そして翡翠へと視線を移す。翡翠ももちろん同じ気持ちだったので、大きく頷いた。


「そうよ! このまま大人しく処刑されるなんて冗談じゃないわよ! 私たち、なんの罪も犯していないのに!」


 翡翠が力を込めて言うと、みんなはうんうんと頷いた。


「私……、抗議してくる!」

「え?」


 皆の驚いたような視線が、一斉に翡翠へと集まった。


「新しい皇帝のところへ行って、抗議してくる! 後宮人たちを残らず処刑するなんてどういうつもり? って問いただしてくる。私たちを殺してもなにもならないって!」

「いやいや、それはやめた方がいいんじゃないかな? 後宮人皆殺しーなんて言っている人だよ、新しい皇帝は。官女が抗議をしたところで蚊が鳴いているくらいにしか思わない。蚊を潰すような気持ちで、剣を振り下ろされたらどうするのさ?」


 稜諒はそう言うが、翡翠はもう決めたのだ。


 無謀なことは分かっている。

 だが、このまま大人しく処刑のときを待っているだけでは、自分の人生はなんだったのだろうか、と死の間際に後悔することになるだろう。どうせ殺されるならば文句のひとつでも言いたい。


「うん……、そうね、やめた方がいいわよ」


 稜諒の意見に同意するように、香澄をはじめ、他の官女たちは先ほどの勢いはどこへ行ったのか、声を潜めた。


「きっと怖い人よ、新しい皇帝って。皇帝一族をあっという間に処刑したし……」

「刃向かったら、どんな酷い方法で処刑されるか分からないわ」

「そうよ。抗議するにしても、翡翠がそんなことをする必要はないわ」


 皆、口々に言って止めるが、もう翡翠は心を決めたのだ。

 そして朝が明けるのをじりじりと待ち、翡翠はひとり、新たな皇帝が居るという青鷺宮あおさぎきゅうへと向かった。

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