第一章 後宮守翡翠、後宮を死守できず。 ⑪
自室に戻ってきた旺柳は文字通り頭を抱えていた。
まさか翡翠が生きていたなんて。
前皇帝に私怨があるとしたら、翡翠のことに他ならない。この国の現状を危ぶみ、苦しんでいる民を救いたい、という志を持って挙兵したことに間違いはないが、根っこのところには翡翠のことがあった。どんな大義を掲げたところで、その根底に翡翠の仇を討つ気持ちがなかったといえば嘘になる。
翡翠は後宮で辛い目に遭って死んだと思っていた。
翡翠が後宮へと連れて行かれてから半年ほど経ったところで、翡翠の家族に翡翠は後宮で病死したのだと聞かされた。そのような文が来たのだと。
だから翡翠のことは忘れて、別の娘と結婚して新たな家庭を築きなさいと言われた。死んだ翡翠もきっとそう望んでいる、旺柳が幸せになることをなにより望んでいると。
だが、翡翠が病気で死んだなんてとても信じられなかった。人一倍身体が丈夫で、風邪ひとつ引いたことがない。家族みんなが生ものを食べて腹を下して苦しんでいたときも、翡翠ひとりぴんぴんして野山を駆けまわっていた。だから翡翠はきっと子をたくさん産んで、旺柳は子だくさんの父親になるのだと言われ、そうなるのだろうと、ささやかな幸せを感じて、それで満足だった。
そんな翡翠が病死したなんて。
もし死んだならば病死ではない。後宮で酷い目に遭って殺されたのだと思った。後宮は酷い場所だと聞いていた。皇帝の寵愛を得るためならば誰を殺すことも躊躇わない、目的のためならばなんでもする場所だ、と。そんな伏魔殿で、地方ののどかな町で素直に純真無垢に育った翡翠は、誰かの醜い手にかかって殺されてしまった。
旺柳は変わった。
翡翠が死んだ前と後で、だ。
自らの師でもあり、翡翠の書の師でもあった秀亥に、お前はこんな片田舎でこのまま終わる存在ではない、翡翠の仇を討つためにも、悪政をしいている現皇帝を倒そうと言われた。旺柳こそ皇帝に相応しい器だ、と。自分はそんな人物ではないと意に介していなかったが、元は皇城に仕えていたという秀亥に強く勧められてとある豪族の養子となった。
この国では重税が課されており、皇帝とその周囲の者たち、後宮に住まう者たちは民から集めた税金でこの世の春かという暮らしをしているという。その一方で壊れた橋はずっと壊れたまま、道も整備されておらず景気も悪く、貧しい人は飢えて死んでいる現状だった。玄大皇帝が即位して間もなくからそんな状況になった、全ての元凶は玄大皇帝、彼を倒すべき、との機運があり、旺柳もそれを望んだ。そして、周囲の豪族たちを味方につけて自ら先頭と立ち、反乱軍を立ち上げて皇城まで攻め込んできた。
皇帝一族を処刑したことも、新たな国を作るためには必要なことだと目を瞑った。どんな非道な、冷たい者だと言われても、それで国を平定して人々が幸せになれるならばいいと思っていた。自分がどんな残忍な悪者になったとしてもいい、と。誰にどう思われても構うものか、と。そんな覚悟を決めて皇帝となったのだ。
(それが翡翠が生きているとはどういうこと……いやいや、もちろん嬉しいに決まっている! 天にも昇るような気分だ! だが、しかし!)
翡翠は言っていた。旺柳は昔と変わっていない優しい人だと。虫も殺せないような慈愛に満ちた人だと。
違うんだ、違うんだ翡翠。
直接手を下さないまでも、皇城に攻め込んで来るまでに何千という人を犠牲にしていた。それはこの国の反乱の歴史を考えれば少ない方かもしれないが、それでも多くの人を殺してきたことに変わりがない。虫も殺せない、なんてとんでもない。
言えやしない。
自分がその悪辣な皇帝だなんて言えやしない。
「うぅー……一体どうしたら……」
旺柳はとうとう几に頭をぶつけ始めた。
誰にどう思われてもいい。嫌われてもいい。
ただ、翡翠にだけは話は別だ。
翡翠にだけは嫌われたくない。翡翠に嫌われたらそれは世界に嫌われたと同義である、生きている意味も価値もない。
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