第一章 後宮守翡翠、後宮を死守できず。 ⑧

 確かに秀亥の言う通りではある。そして、彼が旺柳のことを思いやってそう言ってくれる気持ちも分かる。


 だが、やはり旺柳には迷いがあったのだ。後宮は解体するにしても、そこに居る者たちは解放してもいいのではないか。生かして遺恨が残り、その遺恨が後々自分の首を絞めることになる、と言われれば、確かにそのようなこともあるかとは思うのだが。


「新皇帝様はお忙しく、お前に会っているような暇はないのだ、と何度も断ったのですが、聞き入れず。それで、会えないのならばせめてこの文を皇帝に、と」

「文を?」

「はい、翡翠という名の官女なのですが」

「ひ、翡翠……?」


 その名前を聞いただけだけで、雷に打たれたような衝撃に身が震える。

 翡翠とは、無理やりに後宮に連れて行かれて、命を落とした旺柳の婚約者の名前だ。別れてから今まで、思い出さなかった日はない。


(まさか翡翠が生きて……いやいや、違う。ただ名が同じというだけではないか。単なる偶然だ。翡翠はもうこの世にいないのだから)


 しかし、その同名の翡翠が自分に向けて文を寄越したということは、なにかの暗示のような気がしてしまう。亡くなった翡翠からの自分への伝言のような……。


「くだらぬ、そんな文など読む必要はない」


 秀亥が警備兵からその文をひったくろうとするが、それより前に旺柳が素早く動き、警備兵から文を奪う。

 緊張のあまり自分の手の動きさえもどかしく、文へと目を落とす。婚約者と同名というだけでこれだけ動揺する自分をおかしく思うが、それだけ、旺柳にとって翡翠とはかけがいのない存在であり、生涯にひとりと心に刻んでいる女性だった。


 そして『新しく皇帝として立った方へ』との一文を見ただけで、心の鼓動が早くなり、胸が苦しくなった。


「そんなまさか……これは……間違いない。翡翠の文字だ……」


 文を持つ手が震える。

 字を目で追うだけで、その内容など微塵も頭に入って来なかった。


 私は翡翠よ、ここに居るのよ。


 そう訴えられているような気がした。そして、自分はそれを見つけたのだ、と。ようやく見つけたのだ、と。


「そんなはずはない。翡翠は後宮に行って間もなく死んだと、翡翠の家族が言っていたではないか」


 秀亥は否定するが、旺柳の興奮は収まらない。


「翡翠はお主に文字を習っていた。弟子の文字を間違えるはずがないな」


 旺柳は翡翠からの文を秀亥へと突きつけた。旺柳は不承不承それを受け取り目を落とす。


「確かに似ている……が、私には違うように思える。翡翠、という名を聞いてこれがあの翡翠のものだと思いたいだけではないか?」

「もしかして、翡翠から手ほどきを受けた者が、翡翠、という名を名乗っているのかもしれない」

「いや、そんな馬鹿な」

「どちらにしてもその官女に会って来る! 翡翠のことをなにか知っているかもしれない」


 そんな迷いなど捨てろと秀亥に言われていたが、翡翠が後宮でどのように暮らしているか知っている者がいたら話を聞きたいとかねてから思っていた。旺柳は秀亥が止めるのも聞かず、自分が皇帝という立場になったことすら忘れて、部屋から飛び出していった。

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