第一章 後宮守翡翠、後宮を死守できず。 ⑨


 ※


(……あの警備兵、本当に皇帝に文を渡してくれたのかしら? 途中で破って捨てておいて、渡したと嘘をつく可能性もあるわよね……って、いやいや、そんなふうに人を疑うのはよくないわ。いやでも、今頃文を燃やした焚き火で芋でも焼いて食べているかも。ああ、お芋が食べたい……焼き芋ふかし芋、餡を絡めてぱりっと揚げた芋も大好物……)


 ぎゅるるとお腹が鳴り、翡翠は自分のぺたんこの腹に手を当てた。

 翡翠は青鷺宮の門前にど真ん中に座り込んだまま、大きな門扉を見上げた。


 ここで座り込みをしてから、三日が経つ。


 皇帝に会わせてくれるまで帰りません、と冷たい石畳に座って三日、ずっと座っていたからか、身体は強ばり、足が鬱血してぱんぱんになり、腹が背とくっつきそうな空腹だった。そんな門前に座り込んだまま動かない翡翠を見かねたのか、若い警備兵がやって来て、可哀想だが皇帝はお前には会わない、名のある貴族ですらまだ皇帝にお会いできていない状態なのだ、諦めろと話しかけてきた。可哀想だと思うのならば、せめてこの文を皇帝に渡して欲しいと頼み込んで、それをなんとか応じてもらった。


(さすがに、そろそろ限界かしら……。いえいえ! そんな弱気なことでは駄目よ。なんとしても、皇帝に会って文句のひとつでも言ってやらないと!)


 そのとき、青鷺宮の中から誰かが出て来た。


 あの警備兵が戻って来たのかと思ったが、そうではなかった。

 なにかとても急いでいるようだった。勢いよく大きな門扉の隣にある、通用口を開けて出てくると、せわしなく周囲を見つめた。そして、翡翠の姿を見つけてなのか、雷にでも打たれたような表情となり、こちらに駆け寄ってきて、少し離れたところで足を止めた。


「翡翠……本当に翡翠なのか?」


(え? 誰……?)


 すぐには分からなかった。


 それは翡翠の記憶よりも彼が成長して背が自分よりもずっと高くなっていて、肩幅も広くなっていて、顔つきも少年のそれから精悍な青年のものになっていたからだ。

 だが、全てのものを包み込んでくれるような、優しい瞳は変わらない。


「え? もしかして旺柳なの? いえいえ、まさか……」

「やっぱり翡翠だ!」


 そして旺柳は一気に距離を詰めてきて、翡翠にぎゅっと抱きついてきた。


「わ、わー……」


 座った体勢だった翡翠はそのまま押し倒される形になってしまった。背中に衝撃が走り、痛みが襲ってきたが、それどころではない。


「信じられない、やっぱり翡翠だ! 間違いない。ああっ、こんな奇跡が起きるなんて。寂しくて眠れなかった夜も、絶望のあまり冷たい川に身を投げたくなった朝も、今まで生きてきてよかった!」

「いやいや、重い重い、旺柳! 奇跡なんて、大袈裟ねぇ」

「いや、奇跡だ。てっきり翡翠は後宮で死んだものとばかり……」

「え? 死んだ? この通り、生きているけれど」

「うん! 間違いない! 翡翠は生きている!」


 その歓喜に満ちた声に、こちらもじわじわと嬉しさが広がっていく。故郷で別れた婚約者、旺柳に再び会えるとは思ってもいなかった。


「でも、このままだと旺柳の重さで圧死しそう」

「わー、ごめん!」


 そう謝ると、旺柳は翡翠を抱き起こした。

 至近距離に旺柳の顔があって、翡翠は思わず目を逸らしてしまった。胸が高鳴る。予想はしていた、旺柳は成長したらきっと道を歩けば誰もが振り返り、なにか言葉を発すれば誰もがその手を止めて耳を傾けるような麗しい青年になるだろう、と。しかしこんな予想通りになっているとは、急な再会に焦ってしまう。


「ええっと、ちょっと離れてくれる?」


 翡翠は自分の動揺を悟られたくなくて、そっけなくそう言ってしまった。こちとら、後宮住まいが長くて男性に免疫がない状態なのだ。こんな美丈夫に至近距離で迫られたら、緊張のあまり鼻血でも噴きそうだ。


「あっ、そうだよね? もう昔とは違うものね。ごめんね、嬉しさのあまり急に抱きついたりして。翡翠もずいぶんと成長して美しくなったし。もう大人の女性なのだから、きちんとした距離感で接しないといけないよね」


(あらやだ。そんな本当のこと……!)


 後宮に住まうようになって、周りは女性か宦官ばかりで、お世辞であってもこんなことを言われることはなく、幼い娘のようにはしゃいだ気持ちになってしまった。


「ん? どうしたの? 顔が赤いけれど……?」

「なんでもないわ、疲れているのかしらね。それより旺柳、どうしてこんなところに? もしかして、あの皇帝の関係者で、もしかして反乱軍の一員なの?」


 そう聞いた途端、旺柳の顔が強ばったような気がした。

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