第一章 後宮守翡翠、後宮を死守できず。 ⑭
「なにも今すぐに出て行けというわけではないんだ。皇帝は恩情をかけて、一年という期間を設けた。それだったら、これからどうすればいいかじっくり考えられるだろう?」
「そうなの? 怪しいけど……。それに、一年以内に行き場所を探すことができなかったらどうするの?」
ふと香澄のことを考えた。彼女は故郷に家族も頼る人もなく、行き場所がないと言っていた。そのような者は後宮内に他にもいるだろう。そのときはどうすればいいのだろうか。
「そのときは処刑されるかな……」
「酷い、やっぱり酷い皇帝だわっ! 皇帝の重臣たちは彼に信頼を寄せているんだろうけれど、私は大嫌いっ!」
翡翠が吠えるように言うと、旺柳は泣きそうな顔になってしまった。
「あの……やっぱり後宮始末官なんてできないかな? それなら、俺から皇帝に、他の者を任命するようにと頼んでみるけれど」
「他の者……新しい皇帝の手の内にある人ってこと?」
「そうなるかな」
それはあまり好ましくないような気がする。冷酷無比な皇帝の配下に居る人である、強硬な手に出るかもしれない。
翡翠は元のように椅子に腰掛けて、もう一度皇帝からの文……任命書を見た。
後宮始末官なんて、嫌われそうな役割である。
けれど考えてみれば、これから後宮に住まう人たちは後宮という狭い檻から解放されて新しい人生を歩むことができるようになる。自分はその手伝いができるのだ、と考えれば悪くないかもしれない。
それに、一年という猶予もある……短いけれど。
なにも箒を持って、今すぐ後宮から出て行け、とみんなを追い出すわけではない。一緒にこれからどうするか考えていける、と捉えればいい仕事かもしれない。
「いえ、やってみるわ。難しそうな仕事だし、私に務まるか分からないけれど、後宮の人たちを守るために私にもできることがありそう」
「そう、よかった。それから、俺もその仕事を手伝うから」
「え? 本当に?」
予期していなかった言葉に、翡翠の心は弾んだ。
不安でいっぱいだったが、旺柳が一緒ならば、なんとかなるような気がした。
「うん。後宮は元は男子禁制だったと思うけれど、もうそんな決まりもないようなものだろう? 俺が出入りしても咎められないはずだ。それになにも皇帝は、全ての責任を翡翠に押し付けようとか、そういうつもりではないんだ。ただ、皇帝の元へひとりで抗議に来た翡翠の勇気と決意を認めて、始末官としてこれ以上に相応しい人はいないと思ったから、任命しただけで」
旺柳は皇帝を庇うように言うが、皇帝がそんないい人だとは思えない
しかし今は、異議を挟むことはやめておこう。ひたすらに、旺柳が手伝ってくれるということが嬉しいから。
「そうね、旺柳を手伝いにつけてくれたということからも分かるわ。旺柳みたいな優秀な人、近くにおいて他の仕事をさせたいはずなのに」
「そ、そんなこともないと思うけれど……」
翡翠は照れるように笑った旺柳の手を取って、親愛の情を込めてぎゅっと握りしめた。
「頼りにしているわ」
「ああ、もちろんだよ。任せておいて」
旺柳は昔のように、ゆったりと微笑んだ。
○
旺柳は真っ青な顔をして、青鷺宮までの回廊を歩いていた。
その隣を歩く警備兵は、旺柳の様子を見ながら、ひたすら頭に疑問符が浮かぶばかりだった。
(おかしい……旺柳様……俺が知っている旺柳様ではない。あの翡翠とかいう女、旺柳様のなんなのだ? 昔馴染みではあるようだが)
ここへ来る途中で、自分が皇帝であることはなにがあっても言うなと厳命された。
だから我慢していたが、あの女のあの態度はなんなのだ。気安く旺柳様に触れようとしたり、横柄な口の利き方をしたり。挙げ句の果てに、皇帝である旺柳様への非難を平気で口にする。あの女の身分では、旺柳様の前に跪いてその顔を見ることすら畏れ多いのに。
この警備兵にとって旺柳は、目的のためには手段を選ばない、ときにはどんな冷酷な命令でも出すような人物で、神に選ばれた、皇帝となるのに相応しい人物だった。近づくことすら畏れ多い、反論なんて許されない、命令されたことをありがたいと受け取り、彼の意向に沿うように全てを投げ出しても惜しくないと思うような人物だった。
それが、これはどういうことだろう。
「お、旺柳様」
警備兵は先を行く旺柳の背中に恐る恐る話しかけた。
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