第一章 後宮守翡翠、後宮を死守できず。 ④


 夜になり、少々気持ちを整えた翡翠はひっそりと文を書いていた。


 開け放った窓からは少し湿り気を含んだ夜風が吹き込んでくる。今までと同じ穏やかな夜なのに、皇帝も皇后ももうおらず、もうすぐ自分たちの命が奪われるとは信じられない。香澄は別室の官女に誘われて今夜は飲み明かすから戻らないと言っていた。後宮内にある酒蔵が開放され、あちこちで寂しい宴が開かれているらしい。


 故郷の家族に文をしたためようとしていたが、どう書いていいか分からなかった。事情があり、もう何年も文を書いていないから余計に迷う。


 恐らくこの文が届く頃には自分はこの世にいないだろう。今までどのように後宮で過ごして来たのかを書けばいいのだろうか? 幸せに暮らしていたと? 家族をせめて安心させるためであっても、そんな嘘を書くことはできないと、不自由な暮らしを強いられてきた我が身を思って惨めな気持ちになった。


「はあ~~~、なにを書いていいのか分からん!」


 捨て鉢になって言い、几に突っ伏したとき、ふと、部屋の扉を叩く音がした。香澄が戻って来たのかと扉を開けると、そこには予想外の人物が立っていた。


「あれ? 馬に蹴られて頭を打って、余命幾ばくもないって言うから見舞いに来たのに、元気そうじゃないか。おかしいな?」


 そう言いつつ、その者は部屋の中へとずかずかと入って来た。灰色の丈の長い上着である袍子に暗紺色の短い上っ張りを着て、黒地の下衣を穿いている。宦官かんがん稜諒りょうりょうだった。


「なにしに来たのよ?」


 彼がこんな態度なので、つい翡翠もそっけない態度になってしまう。いつものことだ。


「いやいや、厨房で肉饅頭が余っていたからお供え物にしようと持ってきたんだよ」


 見ると、稜諒の手には肉饅頭が入っているらしき包みがあった。お供え物というのが気になるが、いちいち突っ掛かっていては日が暮れる。


「ありがとう、いただくわ」


 稜諒の手から肉饅頭の包みを受け取った。

 反乱軍が皇帝を処刑してから、食料庫も全て開放していると聞いた。今まで厳しく帳面につけて管理されていた食料の在庫についてとやかく言う者はいない。反乱軍という名の簒奪者に奪われる前に自分たちで飲み食いしてしまおうということらしい。


 翡翠は窓の近くにある椅子に腰掛け、包みを開いて肉饅頭を口に運んだ。


 白いふわふわの生地の中に、甘く煮付けた肉に野菜が入っている。今までは滅多にありつくことができなかったものだ。

 後宮守という仕事をしている翡翠は、後宮の中では下級官女とされ、質素な生活をしていた。妃嬪たちが住まうような煌びやかな部屋ではなく、ひび割れた灰色の壁に囲まれた、いつ崩れてもおかしくないような粗末な部屋で暮らしている。その時の食糧事情によっては、食事にありつけないということもあるような有様だった。後宮に住まう者は誰でも着るものにも食べるものにも困らない、優雅な生活をしていると思われがちだったが、必ずしもそうとは限らない。妃嬪たちには、内庫という宮中の資材課から服も食事も支給されたし、女官となるとろくがあったが、下級官女はそうもいかないのだ。


「なにをしていたんだ?」


 稜諒は今まで翡翠が座っていた文台の前にある椅子に腰掛けた。


「家族に文でも書こうと思って」

「あれ? 毒の影響で手が動かなくなって、字が書けなくなったのでは? そう聞いていたけれど」

「ああ、ええ……。そういうことにしておいたんだったわね。実は書けるのよ」


 翡翠は、美しい文字が書けることをかわれて後宮まで連れて来られてしまった。そして、皇帝への文を代筆するようにと妃嬪たちに申しつけられた。美しい文字で少しでも皇帝の気を惹こう、ということだ。初めは特定の妃嬪に仕えていたが、噂を聞きつけたのか他の妃嬪にも頼まれることになり、妃嬪たちの間で翡翠を取り合うちょっとした争いが起きてしまった。挙げ句、誰にひがまれたのか、あるいは、翡翠を他の妃嬪に奪われるくらいならばいっそ、と思った妃嬪の仕業なのか、翡翠は毒を盛られて危うく死にかけた。


 そんなことがあり、身の危険を感じた翡翠は毒の影響で手が上手く動かなくなり、字を書けなくなったということにしたのだった。


(でも、そんなことももう隠している意味がないし)


 今まで、何度か佳耀に代筆を頼んで家族に文を書いたことがあったが、最後の文くらい自分の手で書きたいと考えていた。

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