プロローグ
「故郷にはとても優しい上に頭もよくて、私のことをなによりも大切にしてくれる婚約者がいるの」
後宮でそんなことを言っても鼻で笑われるだけと分かっているが、ときどきふと口にしてしまうことがある。
「また
佳耀はくすくすと笑う。鮮やかな朱色の襦裙を着て金の簪をつけた女官姿の
佳耀とは元々同じ主に仕えていて、その縁で仲良くなった。事情があって翡翠は主から離れて下級官女となったが、今でも親しくしてくれていた。
「元婚約者じゃないわ、今も婚約者よ。私には婚約破棄した覚えはないもの」
「後宮に来た時点で、結婚はできないって分かっているでしょう? それどころか、私たちは一生ここから出ることはできないのよ」
「でも、特別に許されて出れることはあるって……」
「望み薄よ、そんなものに期待しない方がいいわ」
少々厳しさを含んだ口調で言うので、もう、分かってるわよ、と笑ってみせる。
本当は知っている、後宮は一度入ったら最後、死ぬまで出られないところなのだと。後宮の外に婚約者がいても、一生結婚できないのだと。けれど、そんな夢物語でも語らないことにはやってられないことが後宮生活にはあるのだ。
そして、佳耀は厳しいことを言っているようで、決定的なことは口にしない。それは彼女の優しさだ。
(……もう十年だもの、きっと他の誰かと結婚して、子供もいるかもしれないわよね。私のことなんて忘れて、私を大切にしたように、他の誰かを大切に思って、幸せに暮らしているのだろうな。でも、ときどきは私のことを思い出してくれているかしら? そうだと嬉しいけれど)
突然後宮に連れて行かれてしまった婚約者をどんなふうに思っているだろうか。いつかそれを聞く機会があればいいと思うが、きっと一生ないだろう。
「……それに、後宮での暮らしも慣れればそう悪いものでもないし」
「急にどうしたの、翡翠? 熱でもあるの?」
佳耀は翡翠の額に手を置いた。ひんやりとして気持ちがいい。
「いつもはもう後宮での暮らしなんてさんざん! 好きにご飯も食べられないし、着るものも選べないし、
「そうそう。しかも私が仰せつかっている
「ええ、分かるわ……」
佳耀は達観したような、すべてを諦めたような表情を浮かべた。妃嬪に仕え、身の回りの世話をするという、翡翠に比べたらずっと優雅な仕事をしている佳耀も同じように感じたことがあるのだろうかと勘繰る。
「ま! そういうことで、そろそろ見廻りの時間だわ。行ってくるわね」
「相変わらず切り替えが早いというか……まあ、前向きなことはよいことよね。行ってらっしゃい」
「はい、行ってきます!」
翡翠は食べかけの饅頭を口に押し込むと、呆れた表情の佳耀に見送られ、休憩のために立ち寄った厨房を出て、後宮の入り口である
(そうなのよ、後宮にはもうやってられないってことが多いわよ。でも、佳耀のように優しくしてくれる人もいるし、たまにこうして余り物の饅頭にありつけることもあるし! 前向きに……ね!)
自分はこのまま一生結婚することもなく……皇帝に見初められて妃嬪になるようなことはもちろんなく、後宮から出ることもなく、後宮守として一生を終えていくのだろう、と当然のように考えていた。
しかし、まさかそれからひと月も経たないうちに、後宮というものの存在自体が危ぶまれることになるとは、翡翠も、この後宮にいる誰も、恐らくは皇帝ですら、思ってもいないことだった。
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