第一章 後宮守翡翠、後宮を死守できず。 ①
翡翠は後宮守の槍を握り絞めながら、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
賊を後宮内へ立ち入れさせてはいけないと、急ぎ外套を羽織って後宮の入り口である東翔門まで駆け付けたが、翡翠ひとりの力ではどうにもならないことは明らかであった。
皇城のあちこちから火の手が上がっているのが見えた。誰かの悲鳴がこちらにまで聞こえてくる。建物が崩れるような音、馬のいななき、大砲の音が大きく響き、地面が揺れているように感じる。この世の終わりが来たのではないかという光景に、これが夢ならばいいのにと願うが残念ながら現実だった。
突然、反乱軍が皇城へ攻め入ってきたと聞いたのは今から一刻ほど前のことだ。それから、鼓膜が破れそうな轟音が響き渡った。皇城を取り囲む高く分厚い壁が破られたのだ、と誰かが言った。それから、後宮内は上を下への大騒ぎとなった。早く逃げなければ、でもどこへ? 下手に飛び出して行ったら戦いに巻き込まれて死んでしまう。
そんな中、翡翠は佳耀や他の官女たちが止めるのも聞かずに飛び出して来た。みんな、翡翠ひとりが行っても無駄だと言い、まったくその通りだとすぐに後悔した。
(わっ、私は後宮守なのだから……後宮を守るのが仕事なのだから……)
強がって心の中で繰り返すが、手も足もがくがくと震え、今ならば童にも蹴り倒されてしまいそうだ。それでも翡翠はこの場から離れるつもりはなかった。
間もなくして、馬の群れがこちらへ向かって走って来るのが見えた。翡翠は門前に立ち、大きく腕を広げた。
「ここをどこだと思っているのです? 畏れ多くも、
震える声で精一杯叫ぶが、翡翠のそんな声など反乱軍には届いていないようだ。騎乗したままこちらに突っ込んできた。危ない、と翡翠が避けた隙に馬から下りた男が、大きな槌を手にして瞬く間に固く閉ざされていた大門を破ってしまった。
そして見ると、その門の向こうに佳耀の姿があった。もしかして翡翠を心配して来たのだろうか。このままでは佳耀が危ない。翡翠は咄嗟に後宮を背にして、再び大きく腕を広げた。
「ま、待ちなさい! ここから先へ通すわけにはいきません!」
翡翠が叫ぶと、部隊長だと思わしき、黒い鎧を身に纏い、顔を覆う黒い兜を被っている者が翡翠の方を見た。翡翠は震える手で槍を握り絞めたままで、その者と視線を合わせる。
「……まさか、生きていたのか?」
「え?」
その者がくぐもった声で言う。どういう意味か分からない。聞き間違いかと思いながら記憶を辿るが、生きていたのか、なんて言われるような心当たりはない。誰かと間違えているのだろうか。
その者が腕を上げで指示すると、一団は後宮の中へと入っていってしまった。
「ちょっ……と! 待ちなさい!」
そう追いすがるように言い駆け出そうとしたところで、なにかに外套を引っ張られてそのまま転んでしまった。見ると、大きな黒い槍が外套を突き破って地面に刺さっていた。
慌てて槍を抜いて賊を追いかけようとして見ると、黒い鎧を纏った者が騎乗したままで剣を抜き、翡翠へと向かってくるところだった。
殺されてしまう、ああ、短い一生をこんなところで閉じるのか、と目を瞑った瞬間。
「……翡翠! 危ない!」
門の向こうから佳耀が飛び出してきて、翡翠に覆い被さった。その勢いで翡翠も佳耀も地面へと叩きつけられる。
「佳耀! 危ないから佳耀は後宮の中へ……!」
そう叫んだところで、佳耀が腕から血を流しているのが見えた。翡翠を被って、その剣を腕に受けてしまったのだろう。
「佳耀……! 佳耀!」
佳耀は堅く目を瞑り、呼吸を荒くしていた。袖口がみるみる血で染まっていく。
「よ、よくも佳耀を……!」
翡翠は黒い鎧の者へと飛びかかっていった。
「ちっ! 邪魔だ!」
必死の抵抗も虚しく、翡翠は後宮へと入っていくその者が乗る馬に蹴られてしまった。
馬に蹴られて死ぬなんて……なんて間抜けな我が人生……。
それきり翡翠は気を失った。
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