第6話 さぷれの正体

「ここが俺の家。姉ちゃんはあと一時間くらいで帰ってくると思う」


『おじゃまします』


「狭いけどゆっくりしてて。お茶淹れてくる」


 湖宮さんをリビングに案内してからキッチンに移った。

 なんだか気持ちが浮足立っている。


(あの湖宮さんが俺の家にいる。やばい、やばいぞ。これお持ち帰りって言うんだよな? マジどんな状況だよ)


 家主の姉ちゃんには「同級生が家に来る」とだけ伝えた。すぐさま返事がきて「男?それとも女?」と聞いてくる。嘘をつくわけにもいかずに「女の子」と返すと「夕食はすき焼きに決定」と購入する食材リストが送られてきた。ご丁寧に黒毛和牛指定だ。


(すき焼きってあれだよな。姉ちゃんがだけ作るメニュー。これ絶対に勘違いしてるだろ)


 彼女でもなんでもない、ただの同級生だ。

 ちょっとワケありなだけで。


(俺の語彙力じゃなにを説明しても理解してもらえないだろう。実際に会って話してもらえば……でも湖宮さん話せないしな……)


 悶々としているとコンコンと壁が叩かれた。

 湖宮さんがすぐ後ろにいる。あまり至近距離だったので叫び声を上げそうになった。


「ああっと、待たせてごめん。ふだん客なんて来ないからお茶出し慣れなくて」


 気にしてない、と首を振る。

 だがくいくいと袖を引き、どこかへ連れて行こうとしている。


「どこへ……ああ防音室か。姉ちゃんがこの中古マンション買って真っ先に作ったのがこの部屋なんだ。家のローンもあるのに金かけてバカだよな。中汚いけど入ってみる?」


 こくん、と応じる。


 防音工事を施した一室にはアップライトピアノやギター、ドラムやヴァイオリンなどが雑に置かれていた。湖宮さんは床に落ちていた楽譜を拾い上げ、俺の鼻先に突きつけてくる。


「弾いてみろって? むりむり。俺、楽譜読めないんだよ」


 ぷぅ、と頬を膨らませる。可愛いやつか。


「でもイントロくらいなら弾けるぜ。たとえば……」


 ピアノの蓋を開けていくつかの音をポンポンと鳴らしてみた。

 さぷれの初期の曲「いろはにほへと」だ。


 湖宮さんがすぅっ、と息を吸う。

 空気が一変した。



「――まぶしい夕焼けにきみの涙がしたたりおちる。」



 無味乾燥だった防音室が極上のライブ会場に変わる。

 ピアノの伴奏なんて必要ない。そんなのはただの雑音だ。



「――明日またねって送り出したぼくはうまく笑えていたかな。踵踏んで駆け抜けた街路樹の下、星が笑ってる」



 全身で音を帯びる。

 息をするのも忘れて聴き入っていた。


(ああ、マジか。マジなんだな)


 信じがたいけど、信じるしかない。ニセモノでもそっくりさんでもない。


(さぷれだ。本物の歌姫がいる)


 脳が揺さぶられる。

 歌声が証明してくれる。

 びりびりと痺れる感覚がはっきりと肯定してくれる。


 湖宮さんが”さぷれ”だ。涙か流れる。




「――神! 神! 神ぃいい!!!」


 一曲が終わり、拍手喝采していたのは俺だけじゃなかった。

 いつの間にか帰宅していた姉ちゃんがボロ泣きしながら手を打っている。


(やばい、完全に聞き入ってて姉ちゃんの存在に気づかなかった)


 仁科 彩子、二十七歳。

 男まさりのショートボブにラフなTシャツジーパン姿。黙っていれば美人なのに酒癖が悪くて男に縁がない。一応音大を出ているだけあって音には厳しい姉ちゃんが諸手をあげて称賛している。さぷれがホンモノだからだ。


(しかし、この状況をどう説明したもんか)


 なんて悩む必要はなく、姉ちゃんは湖宮さんにぐいぐい迫ってる。


「さぷれ最高! 最強! もういま死んでもいい! でも折角だから『アイロン』聴いてから死にたい!」


「いや大げさ……」


「陽人、音とって! これ家主の絶対命令!」


「はいはい」


 ポーンポーン、と音を刻む。

 その数音をきっかけに再びさぷれのワンマンライブが始まる。


 「アイロンだけ」と言った姉ちゃんだが当然それだけで終わるはずもなく、次から次へとリクエストして、この後めちゃくちゃ楽しませてもらった。



   ※



「はい、神。黒毛和牛が美味しく焼けてますよ。どうぞ召し上がれ~」


 数時間後、俺たちは三人ですき焼き鍋を囲んでいた。


「姉ちゃん、その人は湖宮さんだって。神とかあんまり言うなよ」


「分かってるわよ、でも神は神でしょ。敬わなくちゃ。神、シラタキどうぞ。はいあーん」


 湖宮さんの隣に陣取って甲斐甲斐しく世話をやいている。彼女も嫌がる素振りなく素直に頬張っている。


 相変わらず湖宮さんは喋らない。

 姉ちゃんが言及したらどう説明したものかと思ったけど幸いにして気にしていないようだ。


(すげぇ歌声だったな)


 いま思い出しても体が震える。

 高音から低音まで自由自在の幅広い音域、圧巻のビブラート、パワフルな声、滑舌の良さ。同じ喉を持つ人間とは思えない。ホンモノの表現者アーティストだ。



(ちょっと待て、俺いま『推し』と同じ空間にいるってことか? え、ヤバくない? いやでも湖宮さんは同級生で、たまたま推しなだけであって、同級生が推しだっただけで……ダメだ混乱してきた……)



「ん?」


 ふと肩を叩かれた。

 湖宮さんが黒毛和牛を差し出しているではないか。


「くれるのか?」


 こくん。


「ありがと。じゃあここに」


 受け皿を出そうとするとイヤイヤと首を振った。

 箸でつまんだまま口元に近づけてくる。口を開けろ、と言わんばかりに。


「あ、あーん」


 湖宮さん直々の黒毛和牛はそりゃあ美味だった。

 恥ずかしくて目を合わせられなかったけど。




「ぷはぁ美味しかった。ごちそうさま。神……じゃなくて湖宮さん、たくさん歌って汗かいたでしょう? 良かったらお風呂入って行かない? 一緒に入ろ!」


「ぶっ!!」


 口内のこんにゃくを吐きそうになった。


「ちょっ、姉ちゃ――」


「お家の人は? へぇ、おばさんと住んでるんだ。夜勤で今日は帰ってこないのね。じゃあお風呂まで済ませたらあとは寝るだけでいいじゃない。帰りは陽人に送らせるから心配しなくていいわよ。どう? いいわよね? やった、きーまり!」


「待て待て待て!! なに勝手に決めてるんだよ!」


 たまらず割って入るとぎろっと睨まれる。


「ああん? 居候は黙ってな」


「ぐっ……」


 だがここで引いたら湖宮さんがセクハラの被害者になってしまう。


「と、とにかく、湖宮さんを困らせるなよ」


「困らせてないわよ。喜んでるじゃない」


「うそつけ。一言もしゃべってないじゃないか」


「……陽人、あたしを誰だと思ってんの?」


 すっ、と指先が伸びて顎を上向きにされた。


(誰って、そりゃあ酒癖が悪くて男運がない独身女――って言ったら飯抜きにされそうだから黙っておこう)


「老舗楽器店の副店長、だろ」


「そーよ。読唇術と読心術はあたしの得意技。楽器店のお客さんは寡黙な人も多いから自然と身につけたの」


 初耳だ。嘘も大概にしてほしい。


『湖宮さん、姉ちゃんの言うこと真に受けなくていいから』


 気づかれないようメッセージを送る。

 湖宮さんはスマホと姉ちゃんを交互に見た後、こう返してきた。




『せっかくだし、| お風呂 |ૂ•ᴗ•⸝⸝)<ハイリマース♪』





「…………はぇあああぅぇえええっ!!??」


 自分でも聞いたことがない声が出た。

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