第13話 停電
もうすぐでマンションが見える、という時だ。ぽつ、と頬に冷たいものが当たった。
「やばい雨だ、走れ湖宮さん!」
空がごろごろとうなっている。湖宮さんの手首を掴み、大急ぎでマンションに向かった。
「着いた!」
エントランスに飛び込んだ直後、ザーッと音が強くなって滝のような雨になった。
ギリギリセーフと言いたいところだが、俺の靴や制服、湖宮さんの頬にも雨や泥が飛んでいた。
「ちょっと濡れちゃったな。大丈夫か?」
「……くしゅん!」
答えのかわりに盛大なくしゃみをした。ぶるぶると体を震わせ、ただでさえ白い肌が血管が浮き出そうなほど青ざめている。
これは大変だ。
急いで部屋に向かい、給湯スイッチをONにした。
「いま風呂半分くらい溜まったから温まってこいよ。出たら夕飯食べよ」
貸した毛布で身を包んでいた湖宮さんは大人しく脱衣所に向かう。しばらくすると鼻歌が聞こえてきた。上機嫌で楽しそうだ。
さて俺は……とキッチンに立つ。
風呂上がりにすぐ食べられるよう簡単なスープを作っておくためだ。
(にんじんに玉ねぎ、ジャガイモ、キャベツ、トマト缶もあるな。コンソメで味付けしたトマトスープにするか)
料理と呼べるほどのものじゃないが、台所に立つようになったのは実家を出て姉ちゃんと暮らすようなってからだ。それまでは包丁を持ったことがない。過保護な母親から刃物に近づくことを禁じられ、ピーラーの存在すら知らなかった。
「そうだバスタオル! いやいや、この前のことがあってから余分に置いとくようにしたんだ。……ん、これって」
廊下に見覚えのあるメモ帳が落ちている。湖宮さんと親しくなったきっかけだ。
開かれたページにはこんな走り書きが。
『KOIBUMIをたくさん歌った。歌詞のスキってどんな気持ちだろう?』
『仁科くんと目が合うだけで心がウキウキする』
『授業中にもチラチラ見ちゃう。こっち見てーって念じても、残念。彼は勉強中です』
『盗み見するのがこんなに楽しいなんて』
『仁科くんはどうして優しいんだろう』
『私だけが特別? まさかね』
『こんな不純なラブソング、よくない』
(ラブソングを書くために思ったことをメモしてるのか。でもこんなに真っすぐだと恥ずかしくて目を背けたくなるな)
いつか湖宮さんのラブソングが完成したとき、俺はどんな顔で聴けばいいのだろう。
――――ドーンッ!!
強い雷鳴とともに地面が揺れた。
「雷!? すげぇ近いんじゃないか!?」
バチツ、と強い音がして辺りが暗闇に包まれた。
「マジか停電! ブレーカーは……」
スマホの灯りを頼りに玄関横のブレーカーを上げにいく。しかしスイッチをあげても照明は復活しないままだ。マンションの隣の棟も暗闇に包まれている。この地域全体が停電したのかもしれない。
(どうする? 姉ちゃんに電話……)
ふいに、風呂場の方でガタンと大きな音がした。
「湖宮さん――!!」
※
「湖宮さん大丈夫か!?」
慌てて脱衣所に駆けつけた。
勝手知っている場所なのに暗いせいでまったく知らない場所に見える。慎重に足を踏み入れると隅の方でもぞっと影が動いた。
「ぁっ……」
「そこにいるのか?」
スマホの灯りを向けたようとした瞬間、
「だ……――めぇーっ!」
正面から体当たりされた。
「わっ!?」
あまりに突然のことにスマホを取り落としてしまう。液晶から灯りが消えてたちまち暗闇に包まれた。
腕の中からは洗いたてのシャンプーの匂いがする。ぽたぽたと首筋が濡れていくのは髪を乾かしていないからだろうか。
「っはっ……ごめ、なさ……」
むせかえるような入浴剤の匂いにまじって、かすれた声がした。
(湖宮さんが喋っているのか?)
歌唱する時とは一味違った甲高くて女の子らしい声音。まさかこんなタイミングで聞くことになるとは。
「みな、いで……おね、が」
泣きそうな声で訴えかけてくる。
すぐ近く――俺の腕の中にいる。
「湖宮……さん?」
暗闇の中で恐る恐る手を伸ばすと暖かくてやわらかな感触に至った。
(ま・さ・か……)
とびきりイヤな予感がする。
「湖宮さん、俺の肩を叩いて教えてくれ。イエスなら一回、ノーなら二回。停電になった時まだ入浴中だった?」
こんこん。二回。
「脱衣所に出てた?」
こん。一回。
「着替えは済ませてた?」
こんこん。二回。
「ずばり、ハダカ?」
こんこん。二回。
「じゃあ、なにか着てるんだね」
返事のかわりにざらついたもので頬を撫でられた。
「この感触、バスタオル?」
こん。一回。
「つまりバスタオル一枚だったから灯りを向けられるのがイヤだったんだな」
ためらいがちに、こん、と一回。
どうしよう、布切れ一枚の湖宮さんが俺の腕の中にいる。絶体絶命の大ピンチだ。
――いや焦るな。こんなときこそ冷静に、冷静に。
「ええと、見てのとおりいま停電で。この辺一帯が消えているかも知れない。いつ復旧するのか分からないから、まずは、その、服を着た方がいいと思うんだ」
手探りでスマホを探す。見つからない。
「わ、い……こわい……」
さっきから震えが止まらない。
せっかく風呂に入ったのにこれじゃあ元も子もない。
どう宥めれば落ち着きを取り戻すか考えて、ふと、こんなことを思いついた。
「湖宮さん、想像してくれ。たとえばここがステージの上で、もうすぐライブが始まる
薄暗い会場内。押しかけたファンたちの声が途切れ途切れに聞こえる。
湖宮さんは舞台の中央でスタンバイし、始まりの合図を待っている。
「どれくらいお客さんが入っているのか湖宮さんには分からない。開演のブザーがけたたましく鳴り響き、ゆっくりと幕が上がる。まだ照明はつかない。焦らしてるんだ。ファンたちは待ちきれない」
とん、とん、とリズミカルに床を叩いた。
「バラバラだった歓声や手拍子が何十何百と重なって少しずつうねりとなり、やがて大声援になる。さぷれ!さぷれ!って呼ぶ声がシャワーのように降り注ぐ。みんなが前のめりになって第一声を待ち構えている」
窓を叩く雨音が強くなった。
「イントロが流れて、スポットライトがさぷれを照らす。きみは、ようやく顔を上げて超満員の会場を目に焼き付ける。さぁステージの始まりだ! 曲は――!」
湖宮さんが弾かれたように上体をそらした。
「――しわしわの心も、アイロンみたいにぴしっと伸ばせたらいいのに♪」
ノリノリで「アイロン」を歌っている。
空気を吸い込むたびに腹部が膨らみ、歌声とともに喉が振動する。密着しているせいですべての感覚がダイレクトに伝わってくる。
「――ぴっと背筋を伸ばして、明日、きみに逢えたらいいのに。しわだらけの笑顔で」
パワフルな声は雨も雷も遠ざける。
いいぞ、もっとやれ。手拍子した。
「――イマイチな毎日モヤモヤな感情、洗濯機でぐるぐる洗っちゃいましょう。まっしろな洗剤で、心の中までスッキリ。柔軟剤でふんわりぎゅっ、いい匂い。このまま眠りたいあなたの腕枕で」
そのとき。パチパチッと蛍光灯が点滅した。電気が戻ったんだ。
「やばい、湖宮さんちょっと待――」
無情にも灯りがついた。
まずい湖宮さんのあられもない姿が見えてしまう――!
(そうはいくか!!)
ぐきっと無理やり首をひねった。強引だったので首筋にピーンと衝撃が走る。
だが真横を向けば少なくとも湖宮さんに恥ずかしい思いをさせなくて済む。
「ぐぎぎ……こ、湖宮さん。今のうちに服を着てくれ。なんでもいい、体を隠すものなら。申し訳ないけどこの体勢つらいから出来るだけ急いでもらえると助かる」
「……ぁ」
「なに? 俺の手の下になにか……はぅぁあああっ!!」
薄く、なめらかな手触りの
大大大大ピンチだ!! もうなにをどうしたらいいのか分からない。パニックだ。
「で、んき、けす?」
「消さなくていいから……ってもう消してるし!!」
「――泥だらけの手も、涙にぬれた髪も明日になればピシッときれい♪」
「歌わなくていいから! いや良い声だけども!!」
「……あんたたち、なにしてんの」
冷たい眼差しを送ってきたのは帰宅した姉ちゃんだった。
※
「仲良くなったのはいいけど、こんなに早く一線を超えるのはどうかと思うの」
リビングで説教タイムが始まった。解せない。
「超えてねぇよ! 停電で身動きとれなかっただけって何度言わせるんだよ! なぁ湖宮さん?」
同意を求めたつもりが湖宮さんは膝の上に手を置いてうつむいたままだ。
雨でぬれた制服が乾いていないので姉ちゃんのシャツを貸しているのだが、胸元のCAT Loverのロゴのようにやや猫背になって頬を真っ赤にしている様子に、姉ちゃんが疑いの眼差しを向けてくる。
「冗談のつもりだったけど、本当に超えてないでしょうね、あんたたち見ていたらちょっと心配になってきたわ」
「断じて、なにもなかった! 死んだじいちゃんばあちゃんに誓う!」
「そこは神仏に誓うべきじゃないの」
「だって姉ちゃんにとっての神はさぷれだろ? もう少し身近な存在の方がいいと思って」
「なるほど一理あるわね」
納得している。単純。
いまのうちに。
「……湖宮さん、さっきごめんな」
「んん」
優しい笑顔を浮かべ、小さく首を振る。
さっきの一件で普通に喋るようになったかと思ったけど、まだ難しいようだ。
「こら、話聞いてるの陽人」
「え? ごめん何の話?」
「もういいわ。二人でイチャイチャしてなさい」
い、イチャイチャなんてしてないし!!
これはラブソングのためなんだ!!
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