23. 息が吸えない視界が滲む
そのアパートは、新しく美しい家屋と古く傷んだ住宅がぎっちりとせめぎ合う路地の一角に建っていた。
トムは前もって綾瀬から住所や立地を教わったのだろう。ウェブマップにピン留めしていなければ見つけ出せそうにない建物だ。
一見アパートというより一軒家のような二階建ては、小さく廃れた外観で、築100年かなと思うくらい薄汚れ色褪せている。
路地に面した横壁に古ぼけた集合ポストが八つ張り付いており、二つはガムテープで塞がれている。ネームプレートの代わりにテープやシールがまばらに貼られ、手書きの黒文字はどれも外国の名前だ。
建物の側面から正面へ回り込むと、古い民家か民宿を思わせる玄関口からまっすぐに、洞窟のような狭い通路が伸びている。
二つ三つ洗濯機が置かれた通路には、左側に住戸だろうドアが二つ、右手前に一つ、右奥には上り階段があり、突き当たりにも扉が見える。
夜間は電灯が点くのかもしれないが、外が眩しい昼間では、黒ずんだコンクリートの通路はずいぶん暗い。生臭いような黴臭いような臭いもする。
先頭のトムが通路へ踏み込むと、きょろきょろと進む寺本の後に風馬も続く。
炎天下から暗がりに入った途端、水槽の中へ落ちたように蝉の声が遠のいた。
「これかな」
左奥にあるドアの前でトムが止まる。ところどころ殴る蹴るされたように凹んだ木製ドアに『102』の表記。
体の前にも後にもバックパックを背負っているトムが、スラックスのポケットから綾瀬宅の鍵を取り出し、「暗いなー」とドアノブの鍵穴に近づける。その手元を寺本がスマホカメラのライトで照らした。
在宅している住人が多いのか、周囲は静寂だがやけに人の気配がある。
ジャカッと鍵が回る。
さっとスマホを引っ込めた寺本は、カメラアプリの録画ボタンを押しつつ「ゆっくり開けて」と言い、トムの斜め後ろに退いた。
トムは軽く肩を竦めるアメリカ人ぽい仕草をして、凶悪犯が潜伏しているかもしれない部屋に忍び込む警官風に戸口の横手で身構えると、ゆっくりドアを開け放った。そして広がる薄明りの中へ踏み込むのかと思えば「フーマ、頼む」と鋭く声をかけてくる。
一瞬意味がわからず戸惑った風馬だが、勘で進み、片腕を伸ばして戸口を塞いでくるトムを盾にするようにして室内を覗き込んだ。
足元に小さすぎる
少なくとも、戸口から確認できる範囲に不穏なものは感知できない。
「ここから見た感じ…大丈夫」
不安ながらも風馬は言った。
「おし」と応えたトムが風馬の両肩に手を置いて後衛位置まで押し戻し、くるりと反転、室内へ「ぅあっつい」と入っていく。
カメラを構えて後を追う寺本が振り返った。
「かごめくん一旦待機ね。なんか見えたら言って」
風馬は「わかった」と頷き、戸口に立った。
寺本は既に満杯の三和土に無理やり靴を脱ぎ、靴箱があるべき所に据えられている小型冷蔵庫をチラッと開け閉めした後、上がっていく。
もう座敷に突入しているトムが綾瀬のバックパックを下ろした。録画しながら追いついた寺本が「近。せま。狭すぎて怖さが…えっこれ机?」などと実況する。
「アーティストなんだロクは。それよりエアコン探せ。リモコン点けよう」
「逆だが?」
「あとぅい…」
「エアコンの前にあの棚開けて。絶対Gいる」
「すまん無理だオレは今リモコンしか見えない」
「熱に浮かされたゴリラかよ。ねーかごめくーん」
寺本が踵を返して問いかけてきた。
「なんか見えない?」
「ううん」
「変な感じとか」
「うーん…」
全体的に空気がよくない感じはするが、古い建物に淀みが溜まっていることは珍しくない。
寺本が「平気そうなら来て」と手招きしてくるので、風馬は三和土に折り重なるシューズやサンダルを掻くようにしてスニーカーを脱ぎ、框に上がった。
「ここ開けてくれん?最近の俺閉まってるドア全部フラグに見える病気で」
よくわからない言い訳をしながら寺本がスマホカメラで指した、流し台の収納を風馬は開けた。排水管が剥き出しの中はほんのり黴臭いが清潔で、頭文字にGの付く者は何もおらず、食器がまばらに入っている。
「大丈夫だよ。きれい」
風馬は言い、流し台の上にも目をやる。歯磨きセットやポンプボトルの入ったバスケットが、電気コンロの上に乗っている。まな板を置いて料理ができるようなスペースはなく、シンクには生ごみの欠片一つ落ちていない。
寺本が「そだね」と同意して、「こっちも見て」と台所を離れていく。
追って入った座敷は、高校生三人で満員の四畳半だった。
制服やダウンジャケットが長押に吊るされ、ガムテープを巻いた上からびっしりと幾何学模様が描かれた段ボール箱らしき物だけが、座卓かスツールぽく畳に置いてある。
戸が取り去られている半間サイズの押し入れは、紙類や衣類や寝袋などのわずかな生活用品が下段に収まっている。上段に散らかるボードゲームやホットプレートや雑多な小物たちはきっと、訪れた友達の置き土産だ。
窓辺には黄ばんだ白色か褪せすぎたベージュ色のカーテンが引かれ、窓枠の脇に縦長の機械が据え付けられている。エアコンのようで、振動と共に吐き出される熱風に手をかざすトムの表情は切ない。
カーテンを捲ってみると、ピンチハンガーがぶら下がる物干し竿、その先に黒ずんだブロック塀が立ち塞がっていた。
もう綾瀬宅の全容を確認できてしまった。
風馬から見て異常はない。部屋自体はとにかく古いが、片づいているし汚れていない。
「どう?」
寺本の声。
振り向いた風馬は、こっちを見ているカメラのレンズから目を逸らして首を横に振り、ふと思い浮かんだ言葉を足した。
「お風呂ないね」
傍らで熱風を浴びているトムが顔を上げ、次いで寺本が応えた。
「言えばトイレもないよね」
「あ…ほんとだ」
「見てみる?」
「あるの?」
「行こっか」
寺本が肩からリュックを下ろすと、トムも自分のバックパックを畳に置く。彼らは風呂やトイレが別の場所にあることを知っていたようだ。綾瀬に聞いたのだろうと思いながら、風馬もリュックを置いて身軽になった。
再び縦に並んで部屋を出る。
先頭のトムは通路を突き当たりへ曲がり、「これだよな」と立ち止まった。扉に嵌め込まれた窓が仄かに明るい。よく見れば、窓には『入居者以外立入禁止』と手書きの貼り紙が被せられている。
トムがドンドンとノックして、呼応のない扉を開けた。
嫌な臭いがした。
亀裂が入った漆喰壁の空間を、磨りガラスの格子窓から淡い陽光が照らしている。窓より下はタイル張りで、相当な年季が漂う小便器が二つと手洗い場が見える。
中へ入っていくと、右手に和式トイレが一室と、おそらく掃除道具庫だろう戸がある。床にはこびりついた埃や髪の毛、虫の死骸。
風馬はようやく一つ理解した。
この物件はかつて、アパートではなく下宿屋だったのだろう。風馬が下宿している寺院の宿坊はもっと規模が大きく入り組んでいるが、様式は似ている。決定的な違いは、この共同トイレはまめに掃除されていないことだ。
撮影許可は取ってあるのか、右から順にカメラを這わせる寺本の「…きったな…」という呟きが鈍く流れた。
それほど脇目を振らないトムが向かった左手に、もう一枚、昭和レトロな模様のガラスが嵌まった木製ドアがある。大きな手が小さな丸ノブを掴むと、強い違和感が
ドアが開かれ、広い背中越しに風馬は中を見た。
脱衣所だとわかった。1帖程度のスペースに木製のロッカー、鏡を剥がした跡のある壁。
「ちょ早いって。こっち開けて」
おそらく掃除道具庫の前で寺本が呼び立てる。「オーケイオーライ」と踵を返していった長身と入れ違いに、風馬の足は脱衣所に向いた。
ここにも格子窓があって明るい。床はなんだか腐っているように柔らかい。奥の戸口は開いていて、水色のタイル壁が見えてきた風呂場を覗く。真四角に近い小さな浴槽に、両足を投げ出して浸かっている肢体が目に入った。乱れた髪がヘドロのように張り付いた顔は見えないが、視線を感じる。
しまった。
目を逸らした刹那、喉が詰まった。
「ごぼっ」
落ち着け。
大丈夫。
「わっ、どしたの。やば」
寺本が来た。
やばくないよ大丈夫。
風馬は吐きそうな口を押さえて顔を背け、できるだけ余裕ぽく見えるように片手をひらひらと振ったら、その手首をぬるい温度に掴まれた。
途端に体が羽になる。喉が通って酸素が入る。あまりに急な逆転でまた噎せる。
「おぁフーマだいじょぶか」
「わかんね出よとりあえず出よ」
手首を引かれて脱衣所を出る。
トムが風馬の後ろに付き、前を歩く寺本は共同トイレから出ていく。
明るい空間から暗がりへ移ると、洞窟じみた通路の出口が眩しすぎて白く見える。その白を背景に突っ立っている人影が、寺本の頭越しに風馬の視界に入った。
手首を放した寺本が「やべ鍵掛けてなかった」と綾瀬宅のドアへ近づいてく。
風馬は前方へ目を戻した。
まだ人影が突っ立っている。帰宅してきた住人だろうか。こっちを見ている。と思ったら走ってきた。突進してくる。黒いシルエットから、ぼさぼさの髪、片手に棒状の物を持っていることだけ捉えられた。
迫り来る人影を寺本は一顧だにせず、ドアに手を伸ばしている。
風馬は彼の二の腕を掴んで力いっぱい引き寄せた。「どぁっ」と体勢を崩した寺本の背中を抱き込むが支えきれず、後ろのトムに倒れ込みながらも風馬は片腕を上げ、振り下ろされる棒状の物を受けた。
が、風馬の腕に衝撃が走ることはなく、すり抜けて突っ込んできた人影は風馬の中へ入ると同時に消えた。
「…どんな状況?」
絞るようなトムの声が頭上から聴こえた。顧みれば、横向きに密着した風馬と寺本に倒れ込まれているトムはだいぶ踏ん張った体勢だ。
風馬は慌てて立ち直し、寺本の背中を突き飛ばす勢いで離れた。
うっとよろけた寺本は、二の腕を引っ張られた時にでも落としたのだろう、ドアの前に落ちているスマホを拾い上げ、「…なんで…?」と振り向いた。いきなりぶん殴る力加減でバックハグされた人の面持ちをしている。
「あ、ごめ、えと」
「メンブレ…?」
「違くて、それはもう消えてたんだけど、あっちにも変な人いて走ってきて、急だったから生きてるのか死んでるのか判断できなくて、生きてる人だったら昂輝さんぶつかると思って反射的に」
寺本は驚くような訝るような表情で「え待って」と通路を見やった。
「ここにもなんかいたってこと?」
「…来た時は見なかったけど…他の部屋から出てきたのかな…外から来た感じにも見えたけど…」
「えちょマジどゆこと?この敷地おばけだらけなの?安全な場所ねぇの?」
「わかんないけどおれはなんか、綾瀬さんちの中の方が、こことかよりはいい気がする」
ほんとかよという顔つきをする寺本を押し切るように、さわやかにも強引に「おし。じゃあ入ろう」と進み出たトムは、多分とにかく涼みたいのだろう。
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