21. なんで涙が止まらないんだろう




 桃色の肌や伸びやかな背筋、気さくな笑い顔がとても健康的なトムと、土色の肌やひょろ長い猫背、俯きがちな無表情がゾンビぽい綾瀬は、風馬から見て対照的な二人だ。

 トムと綾瀬は2年2組のクラスメイトで、彼らと寺本は芸術選択科目の工芸クラスのクラスメイト、そういう出会いらしい。

 寺本とトム曰く、綾瀬は事故物件に住んでいる。

 家庭環境がワケありなのか、大久保のボロアパートで一人暮らしをしている綾瀬は、およそ1年前、幽霊が同居していることによる割引価格で入居した。

 だが、彼は未だかつて同居人の存在を感知したことがない。遊びに来た友人たちから同居人いるんだねと言われたこともない。

 ただ、なんかヤダというような不明瞭な理由で二度と来なくなる友人は多い。尚その多くがヤリ友のため、単純に部屋の設備面か衛生面に幻滅したのかもしれない。

 また、綾瀬は物件の貸主や仲介者に会ったことがなく、賃貸契約を代行した知人から聞いたのは『幽霊が出るから家賃が安い』という説明のみで、詳細は不明。


「実はその知り合いの冗談だったりしてなー」


 炎天下の街を不揃いに行進する中、呑気な観光客めいた口ぶりでトムが言う。ノーネクタイの首元やアッシュブロンドの髪は涼やかだが、顔色は暑そうに赤みを帯びている。

 学校を出てもう10分ほど歩いただろうか。

 景色は都心の街並みから、木立が広がる緑地公園へと移っている。

 若干ゆるんだネクタイが暑苦しいわりに顔色は涼しげな寺本が、頷きながら言い返した。


「確かに雑すぎの説明だけど。どっかに異常あるのは確実じゃん」

「まあボロいらしいぞ」

「大久保のワンルームで2万切ってんでしょ?まあボロいのは当然だから。当然にプラスして異常あるから。値下げ理由がもし幽霊以外なら、住んだ瞬間バチクソ納得してるって」

「どうかなー。ロクってすばらしくテキトーなとこあるしさ、この物件が初めての一人暮らしなんだし、細かい所は見ないだろ?」


 トムに問いかけられたロクこと綾瀬は、暑そうでも涼しそうでもない、ぼんやりとした面相を少し傾げた。うぐいす色の髪と色褪せたみどり色のTシャツも相まって、濁った池を思わせる。

 無口な彼の仕草は否定なのか肯定なのか、見分けにくいボールを寺本が「いやだから」とトムに投げ返した。


「細かくてわかんないレベルの異常じゃねぇって。人が住むとこじゃないレベル」

「オレはわからない自信あるけどな。東京の住宅事情ムツカシイネ」

「出たよテキトーキング。ガチでおばけいたらミラノ風ドリア三回奢らせるからな」

「あっついなーーかき氷とか言えよ」

「ちょね、かごめくん。専門家の観点から意見ない?」


 声を向けられた風馬は寺本と目を合わせたが、質問の内容は頭に入らなかった。

 初めて彼に『きみ』以外の呼び方をされた。けれど違う。

 籠女かごめくん。

なんでだろう。好きじゃないから下の名前で呼んでほしいと伝えたのに。


「聞いてる?」

「あ、んと…なんて言った?」

「おばけ専門家の観点から意見ないですか」

「えー……」


 おばけの専門家なんかじゃない。クソみたいな病気を持って生まれただけだ。

 いっそう困惑した風馬の内側で、悲しいようなムカつくような感情が膨らんできた。

 そもそも、寺本は風馬が霊感人間であることを勝手に他の人に話してしまった。特に口止めはしていないが、風馬にとっては自分自身の核みたいな秘密だし、寺本は4組生たちに告白フラグの真相を隠してくれたし、口止めなんてしなくても認識を共有できているつもりでいた。

 だいたい、同級生たちにバレないように面倒な方法で除霊活動アカウントを作ったのに、自らバラしてしまったら意味がない。それともこのトムや綾瀬という人は、寺本にとって特別なのだろうか?


「―――ノーコメント?腹痛いの?」

「そうじゃないけど…」

「気分悪い?」

「…んーん」

「機嫌悪い?」

「べつに」

「つまんねぇの?」

「違うよ」

「じゃ何?」

「なんでもない」


 にへらと風馬は作り笑いした。

 うんこでも押し付けられたように眉根を寄せた寺本は、怒り出すか投げ出すかと思えば、くしゃっと露骨にブスな泣き顔を作って「ぷぇぇ」と対抗してきた。

 ぎゅんと風馬の頭が熱くなった。


「だって。だって昂輝こうきさんが勝手に言うから」


 ひょんと眉を上げた寺本は「何を?」と尋ねた。


「おれのこと、学校の人たちに知られないようにアイス屋さんで話したし別アドで垢作ったのに、なんで喋っちゃうの?」

「喋んなきゃ退治行けねぇじゃん」


 あっけらかんと答えて寺本は続ける。


「言っとくけど学校中に喋り散らして退治案件募集したわけじゃないからね?単に興味で実話怪談募集してたら綾瀬さんちの話が出たわけで。身近にこんな怪しい物件あるなら行く一択でしょ?」

「でも、そうかもしれないけど、勝手に喋んないでほしかった」

「きみの許可がなきゃ俺は喋っちゃダメなんすか?」

「そうじゃなくて。先に相談とかしてほしかったし、おれの話はしてほしくない」

「きみの話ってか俺の話の中にきみも入ってるんだけど?」

「だから、そういうのは、おれの話でもあるし」

「きみが出てくる話題はとにかく無断で喋んなってこと?」

「…うん」

「ちなみにさ、きみが4組で話題に出てた件は別なの?俺に相談とかもしないで放置してたじゃん?なんなら勝手にクイズにされて喜んでる感じだったじゃん?」

「あれは、どうしたらいいかわかんなくて結果放置になっちゃって、でも昂輝さんが上手に対応してくれてたからうれしくて」

「上手対応と下手対応の境界どこなの?」

「…とりあえず…霊感とか体質のことは喋んないでほしい」

「学校の人にだけ喋んなければいい?広告出したくて俺親にも喋ったじゃんな」

「それも、ちょっと驚いたけど、しょうがないていうか」

「これからは先に相談しろっていうか」

「うん…」

「りょす。かごめくんの地雷配慮できなくてすいませんでした」


 堂々と棘のある謝り方に胸を殴られ、違う呼び方が頭に引っ掛かる。

 前から太陽が照りつけていて、蝉の悲鳴に挟まれていて、並木道はまるで熱の川だ。溺れてしまってぼんやりしてくる。

 やけに何も言いたくないし思いたくない。しかし風馬はそんなふうになりたくない。調子がへんだ。


「あとその、呼び方。なんだけど」

「むぁ?」

「好きくないって言ったやつ」

「あーうん。そうすね」

「わざと?」


 驚いた風馬の語尾が上がると、寺本はニヤッと口角を上げた。


「呼び方なんて俺の自由だし?」


 なんだか聞き覚えのある台詞だ。


「でも、いいよって言った」

「へ?」

「おれの呼び方だからって言ったら、いいよって」

「ブーー言ってませーん記憶捏造すんな?呼び方のこだわりはわかりましたって言ったけど、そうしますとは言ってねぇから」


 アヒャヒャと笑う音が遠ざかり、風馬の足元から地面がなくなり、追憶へ滑り落ちる。

 確かにそんなような台詞だった。会話がごちゃごちゃしていたし、怪談も握手も受け入れてもらえて浮かれていたテンションで解釈した。

 風馬は滑り落ちていく。

 いいよなんて彼は言っていない。やだ、ダメと拒んでいた。名前で呼ぶのも呼ばれるのも。

 昂輝さん。

 この3週間、彼を何回そう呼んだっけ。


「…名前で呼び合いたくないって、言ってくれたらやめたのに」

「呼び合いたくないんじゃなくて押し付けられたくないんだよね。そういうのあるじゃん?宿題しなさい言われたらゲームしたい的な」

「……」

「えマジか。この感覚ない?」

「宿題しなさいって言われたことないし」

「いやそこはなんでもいいんだって。推し布教されるほど推したくなくなるとか、開けるなって書いてある箱を意地でも開けるとか、走れって急かされたら歩いちゃうとか。なんか指示されると逆らいたくなるっていう、なんだっけ、なんちゃら心理みたいなやつ」

「ふーん…」

「くっそ興味ねぇw」

「わかんないし」


 もう十分だ。何も言いたくないし思いたくない。ただ悲しい。でも笑わなければ。けれど醜い演技をすると彼はブスい芝居で対抗してくる。どうすれば。ぼやける。あつい。


「へ?」


 不意に横から聴こえた変な声を見やったことで、風馬は汗ではない雫が頬を流れ落ちていくのに気づいた。と同時にばちっと目の合った寺本が「ぁわ」と、ちょっとひるんだように狼狽えた。

 途端にぎゅわっと背筋から突き上げた焦燥が、風馬の足を現状から逃走させた。

 ちょうど緑地の行く手に見える小振りな白い建物へ、遊歩道から逸れて駆け寄ってみればやはり公衆トイレだ。

 ちょうど空いていたユニバーサルトイレにがらばんと飛び込み、ガチャッと鍵を掛けてから熱湯のような息を大きく吐いたら、本当の汗が涙と重なり顎から滴った。

 やらかした。

 絶望に軋む首を回して洗面台の鏡を見る。が、ウォータープルーフのマスカラを使ったおかげで、意外に崩れていない。

 だがやらかした。

 風馬はリュックを背負ったままよろめき、どさっと便座に座り込んだ。

 タオルを出して顔を拭きたいのに腕が重くて動かせず、呆然とする。

 冷房は効いていないが通気がしっかりしているようで、白い壁の個室内は外よりも涼しく、徐々に頭が冷めてくる。

 ―――なんで涙が止まらないんだろう。

 猛暑に脳がやられたとしてもメンブレがひどい。確かにムカついたし悲しいがこんなに泣くほどのことじゃない。もはや細かく覚えていないが、寺本に対して我儘すぎる態度をとったような気もするし、一緒にいるトムと綾瀬の存在を忘れるほどに無視していた。

 あーーもうやだ……

 全身から気力が抜け出ていくような、細胞が腐っていくような自己嫌悪に項垂れた。

 直後、ふと風馬は首をもたげた。

 鏡を見ようとしたが、便座に座っている角度からは見えない。がんばって立ち上がると、湧き水かというくらい流れ続ける涙を振り払いつつ洗面台に取り付いた。

 そうして映った肖像から、普段はなるべく意識しない『影』に焦点を移した。

 やっぱり増えている。

 濁った池のように不鮮明で音を立てない、複数の男女を崩れるまで煮たような集合体が、濃霧か粘液のように纏いついている。これは、さっきまで綾瀬が纏っていたものだ。

多分、風馬の発した感情のどれかが彼の波長と合った時に、もらってしまったのだろう。

 なんだか虚しいような嬉しいような納得感で胸がすいた矢先、コンコン、とドアが鳴った。


「…ふーちゃん…ふうまくん…」


 くぐもっているせいで亡霊の呼び声のように聴こえなくもないがドア越しの寺本だ。


「…いますか…?」

「うぁ、います」


 風が吹きつけたように、いつの間にか涙は乾きかけている。

 我に返った風馬が両手で顔を整える間に亡霊風寺本は言った。


「ごめんです…もう苗字呼びしないんで…まぁ別の理由かもですけど…とりあえず今日もう帰」


 ガチャッと鍵を回してドアを引き開けると、どっと圧し掛かる蝉の合唱と反対に、逆光の人影が戸口の前から退く。

 外で立ちっぱなしは暑かっただろう、こめかみで光る雫の筋が少し驚いた表情よりも目を引いた。


「ううん違くて、おれ―――」


 言いかけて風馬は辺りを見渡した。

 離れた木陰に立っているトムと綾瀬は、気を使っているのかこっちじゃない方を向いて、主にトムが軽いジェスチャー付きで何か喋っている。その声は蝉たちに塗り潰されて断片さえ聴こえない。

 風馬は寺本に目を戻した。


「綾瀬さんに憑いてたやつ、だいぶ移ったみたいで、それですごいあのなんていうかメンブレしたみたいで、びっくりさせてごめん」


 3秒くらい、寺本がリアクションするまでに間が空いた。


「憑いてたの…?」


 急に体温が下がったような声を出した寺本は後ろを振り向かないが、風馬は再び綾瀬に目を向けた。

 濁った池のような幕が剥がれ、彼自身の『影』がくっきりしている。ひどく歪で人の形をしていない。表面が炭化した樹皮のような、のっぺらぼうの小さな頭部や長細い六本足を持つものが、綾瀬の身体にところどころ埋まりながら被さっている。


「…まだ残ってるけど」

「うそ」


 今度こそ寺本も振り向き、しかし綾瀬自身だけをまっすぐ捉える視線を上滑りさせ、風馬に戻しながら尋ねてきた。


「物件のやつかな」


 曖昧な問いだが風馬は語意を掴んだ。


「そこ、住んだのいつだっけ」

「去年の今頃つってた」

「…わかんないけど、あの残ってるやつはもっと、ずっと前からな気がする」

「なんでって聞いていい?」

「おれに移んなかったし……もうだいぶ、本人と混ざっちゃってるから」


 寺本が眉をしかめた。

 言葉を尽くして説明するべきか風馬は迷う。


「どんなんでも俺が触れば消えるんだよね?」

「と思うけど…一応、物件の方に何もいないか確かめてから消した方がいい、と思う」

「なんで?」

「んーと、えっとね……昂輝さんのせいじゃないから軽く聞いてほしいんだけど、前のおれがそうだったみたいに、あの残ってるやつが昔から綾瀬さんと一緒にいた場合、なんていうか厄病神だけど守護霊みたいな感じになってたり、もしかしたら本人の代わりに綾瀬さんを生かしてるかもしれなくて、消えると綾瀬さんがすごい弱ったり、今までできてたことができなくなっちゃったり、」

「ごめ、ちょ待って。りょす」


 両手を浮かせて寺本が遮った。


「深そうな話だからやっぱ、まず物件スッキリさせよ。そのあと今の話、綾瀬さんにもするか考えよ」


 風馬はぐっと深く頷いた。


「けどふうまくん行ける?メンブレは?」

「憑かれたって自覚すればだいぶ落ち着くから、もう平気」

「握手したい?」

「う」


 宙に浮いたままの、しかし差し出されない両手に吸い寄せられる視線を、風馬は気合でもって剥がした。

 できるならいつだって触りたいのが本音だが、今のタイミングはなんか情けなさすぎるし、まだ早い。


「行くまで憑けといた方が、物件に関係あるやつなのかとか、わかるかもしれないし」

「へーーすげぇ。マジ専門家ぽい」


 寺本の声と瞳に他意は窺えない。今の風馬は卑屈な気持ちにはならず、代わりに恥ずかしさと気まずさが湧いた。


「全然あやふやで役に立てないかもだけど。あとえっと、無理に名前で呼んでくれなくて大丈夫だよ」


 気恥ずかしさが過ぎてにへらと笑うと、寺本は拗ねた感じでヘッと笑った。


「俺のは意味があるこだわりとかじゃねぇからいいんすよ。気分だから。ただの」

「ううん。えへへ」

「ちょえ、どうしたの?激落ちの反動でネジ飛んだ?」

「かもだけど…気分の方が楽しそうだなって」

「ふぁ?」

「やっぱりおれが呼ばせた名前より、昂輝さんが呼びたい名前がいいなって。今のこだわりで固めるより、未来の気分で変わってく方が楽しそう」


 変わっていったら願わくば、『ふうまくん』より『ふーちゃん』がいいという結局我儘は胸にしまっておく。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る