9. 後ろ姿はもう千メートルくらい遠くに感じて、風馬の声は掠れて散った




 果たして放課後。


 ホームルームが終わるなり半ダッシュで4組へ行くと、既に教室を去っているパターンも稀にある寺本は、まだいた。


 4組は担任が語り出しやすいようでホームルームがよく長引いている。

 年代がまったく読めないマニッシュな女性の先生は、やる気が強いことは窺える。


 生徒の大半は机の上で抱えたリュックに突っ伏していたり、虚ろな面持ちで爪の先や窓の外を眺めたり、返却されたてのスマホを机の下で操作したりしているが、寺本はだいたい先生を見ている。

 聞き飽きたような顔をしているわりに、先生の講釈に質問を被せることもある。

 先生は眉をしかめつつも、どこか嬉しそうにちゃんと答える。


 そんな風景を背景に、風馬は賑やかな廊下の端に寄り、煩悶を再開した。


 2時間ほど前からぐるぐる迷っている。一人称どうしよう。


 身体的性を表明するしかないオフィシャルな場つまり学校では、風馬は『おれ』だ。

 美愛と二人で話している時やプライベートの場では『わたし』だ。


 寺本と話をする時はどっちを使えばいいだろう。

 正味どうでもいいことかもしれないが、風馬には結構重大だ。

 自分の本心さえ曖昧な部分が多いのに、そこに他者評価とか社会通念とか印象操作とか絡めてみると本気でカオスになる。


「うーーどうしよう」


「まだ迷ってたの?」


 隣の美愛はスマホする片手間でコメントしながら、3組と4組の間の壁に凭れた。


 すると3組から出てきた男子が「あ、えと、誰か待ってる?呼ぼうか?」と美愛に問い、ゆるく苦笑した美愛は「ううん。こっちだから」と4組の方をちらり見やった。


 男子は「あー。こっち長いよねーまだやってる」と、1秒でも長く会話を続けたいように言葉を繋げ、しかし照れが勝ったようで「じゃ」と足早に廊下を去っていった。


 その後ろ姿になんとなく蹴りを入れたいという感想を風馬は悪霊のせいにしておき、悩む。


「考えないようにしてみたら?話し始めちゃえば自分の見せたい方が自然に出るよ」


 多分彼氏にメッセを送りながら美愛がアドバイスをくれる。


「そうかなぁ…」


 返事にしつこく不安が混ざる。


 ちらりとスマホから離れた美愛の瞳がいたずらっぽくキラついた。


「それかTさん専用のやつ新しく作る?」


「専用?てどんな?」


「えー?『あてし』とか『ぼく』とか、『ふーま』とか?」


 ニコッとあざかわ仕草の見本付きで提案する美愛はまあまあふざけている。でもかわいい。

 自分も同じくらいかわいければ、たとえ『ふーま』でも世界中から許容される気がするしそれで行ってみたいと思っていたら、風馬はハッと震撼した。


「っやば」


「?」


「顔。髪。そのまま来ちゃった」


 昼休み以降、一人称について悩むばかりで身だしなみチェックを忘れていた。

 トイレで鏡を見るどころかホームルーム中にコンパクトミラーを覗いてもいない。

 やばい詰む。


 野性味が漂っているレベルなら美愛が教えてくれるはずだからデッドラインは越えていないようだが、天パ用コームもリップクリームもちゃんとした後の印象は自分的に全然違う。

 やばいちくしょうどうしよう。

 今から秒でトイレを往復するか最悪この場で光速処理―――


 ガタガタざわわと、にわかに背後がうるさくなった。4組のホームルームが終わったのだ。


 振り向く風馬の心臓が鐘になる。


 立ち上がり入り乱れる制服姿が、堰を切ったように教室から溢れ出てくる。

 人ごみに紛れやすい顔を見つけた時にはもう戸口まで迫っていた。

 横を向いて口を動かしている。男子の一団と一緒だ。

 なんだかんだと声を交わしながら一団が戸口から流れ出ていく。こっちを向かない彼の横顔が通り過ぎていく。

 すごく呼び止めにくい。

 

「ぁの、待っ…」


 それでも呼び止めようとした後ろ姿はもう千メートルくらい遠くに感じて、風馬の声は掠れて散った。

 今日はやめよう、明日でいいよ、と弱虫が嬉しそうに耳元で鳴く。でも明日は土曜日なのだ。

 

 不意に、隣の美愛が凭れる壁から離れ、すっと息を吸った。


「あの!」


 ザンッという効果音が立ちそうな勢いで前方の男子たちが振り向いた。

 大方、廊下で誰か待っている風の美少女を脇目に捉え、心の中で気にかけたりしていたのだろう。


 が、肝心の寺本が振り向いていない。

 立ち止まる後衛たちを置き去りにしていることにも気づかずべらべらと喋りながら歩いていく。


「えっと…」


 ちょっと気圧されたあざかわ仕草で美愛が戸惑うと、男子たちは「うん?」「なんすか」「どうかした?」と、とぼけた表情を見せながら前髪をサッと風に遊ばせたり両手をスッとポケットインしたりネクタイをクッと整えたりした。

 なんだこいつら様子がおかしい。


 しかしさすがは美愛、後ずさりしたりせずに言葉を繋げた。


「寺本さんて人と話したいんだけど、歩くの速くて」


 途端、殺気にも似た波動が男子たちから放たれ、続けてぐるんと前方を向いた一人が「てーらもとお前はえーよ!!」と理不尽に責め立てた。

 その呼び声は廊下に反響して、寺本じゃない人たちまで振り返らせた。


 数秒後。


 理不尽そうに引き返してきた本人の、美愛を前にして「ふぁ?!!俺??!!」と吃驚する反応は、男子たちの目つきをより尖らせた。


 数分後。


 どこまで本気なのか、一団はこれからカラオケのパーティールームでテスト勉強会をするらしく、変な空気の中に寺本を取り残して口々に別れを告げた。


「じゃーねー寺本くん」

「おめでとーモトテラ」

「がんばって寺クソ」

「クソ本さよーなら」

「チャルケセヨクソ」

「ゴッドブレスクソ」


 にこやかに去りゆく一団を寺本は半笑いで見送るが、風馬は罪悪感を覚えた。


「……なんか、ごめんなさい。なるべく早めに終わらせるので」


「へ?」


と振り向く寺本の顔つきは意外そうだ。


「いいよ別に急いでないから」


「でも、勉強会」


「いやハハねぇし。あいつらの無意味な嘘だから。単に数人でファミレス行こうとしてただけ」


 まぁそうだろうと風馬は内心頷いた。

 なぜ彼らが唐突に無意味な嘘をついたのかはわからないが、嘘っぽい口調なのはわかっていた。


 ただ漠然と、この一件が寺本の人間関係に影を落とさないか不安になったのだが、余計な心配だろうか。







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