第8話 京介の推理
2時間後。
東京ゲーテ記念館の前には、京介と結衣と川越がいるだけだ。あれだけ大騒ぎした大観衆は、きれいさっぱりと東京ゲーテ記念館の周りからいなくなっていた。猿回しの芸人グループもサルを引き連れて帰っていった。パトカーでやって来た滝野川警察署の警官たちも全員が警察署に戻っていた。
京介は、東京ゲーテ記念館の玄関で、結衣と川越の前に正座をして座っていた。結衣と川越の二人が、頭を下げている京介の前で両手を組んで、京介を見下ろしながら立っている。
正座をする京介の横には巨大な穴が開いていた。穴の傍らには大きな木がニョッキリと立っていて、穴の壁面にはその木の根が露出していた。穴の周りには掘られた土が山になっている。満月が辺りを
あれから、京介はさらに木の周りを掘りまくったが、京介の意に反して、いくら木の根元を深く掘っても、またどこを広く掘っても、死体どころかゴミ一つ出てこなかったのだ。
「それで、東京ゲーテ記念館の周りに死体が埋まってるって推理したということなの?」
京介のしどろもどろの説明を聞いて、結衣があきれたように声をあげた。京介を叱責するような厳しい顔だ。
「そうなんです・・・」
「まあ、あきれた人ね」
京介は上目遣いに結衣を見ると、先生に叱られた生徒のように、恐る恐る尋ねた。
「山瀬さん。死体がでないということは・・・ぼ、僕の推理が間違っていたということでしょうか?」
そのとき、京介の横で立っている木からメリメリメリという音が聞こえた。京介が見ると・・・かろうじて立っていた大きな木が、京介の方にゆっくりと音を立てて倒れてくる。それに驚いた京介は「ヒャァァァッ」と叫んで横に飛びのいた。
大きな木が、京介が正座していたところに正確に倒れていって、床のコンクリートを直撃した。ドシィィィンという乾いた音が東京ゲーテ記念館の周りにこだました。コンクリートの床の上で、倒れた木がブルブルと震えている。
結衣と川越は何も言わずに倒れた木を見つめていた。二人の沈黙が京介に重くのしかかった。その重圧に耐え切れなくなった京介はもう一度、二人の前に正座すると、おずおずと結衣に先ほどと同じことを聞いた。
「山瀬さん。・・・ぼ、僕の推理が間違っていたということでしょうか?」
結衣が再び厳しい眼で京介を見つめた。
「鏑木君。あなたの推理は最初から間違ってるわよ」
「えっ、ど、どうして?」
「それより、これから、二人で川越さんにきちんと謝罪をして、ここの後片付けをしましょう。いくらなんでも、このままでは東京ゲーテ記念館の皆さんに申し訳がないわよ」
・・・・・
翌日の午後の早い時間に、京介は結衣に呼び出された。場所はまた西ケ原3丁目の交差点にある喫茶『ゲーテ』だ。
喫茶『ゲーテ』に入って、二人がこの前と同じ、入口に近い四人掛けのテーブル席に座ると、マスターが水を持って注文を聞きに来た。マスターは京介をよく覚えていた。笑いながら京介に聞いた。
「いらっしゃい。今日もミティですか?」
京介が首を振る。
「いや、今日はレーコーにします」
マスターが驚いて声を裏返らせた。
「はっ? レ、レーコー?・・・レーコーって・・・一体何なんですか?」
マスターは眼を白黒させている。マスターが手に持ったコップの水が大きく揺れていた。
結衣が笑いながらとりなす。
「アイスコーヒーのことを大阪ではレーコーと言うんですよ。マスター、私もレーコーをお願いします」
結衣の機嫌はすっかり直っているようだ。京介は結衣の笑顔を見て安堵した。京介と結衣の二人のレーコーが運ばれてくると、結衣がおもむろに口を開いた。今日も喫茶『ゲーテ』の中には、二人の他に客はいなかった。
「鏑木君。今日は事件のことをもう一度二人で整理してみたいの」
「あっ、昨日は本当にごめんなさい」
京介はイスから立ち上がって、結衣に深々と頭を下げた。
昨日あれから、京介と結衣は、東京ゲーテ記念館の部長をしている川越に平身低頭で謝罪をしたのだ。すると、川越はよくできた人で「そういう勘違いだったら、もういいわ。ちょうど、この庭木も剪定しようと思っていたので。後片付けは、明日、庭木屋さんにお願いするわ」と言ってくれたのだった。
結衣が笑った。
「ううん。昨日のことはもういいのよ。済んだことをいつまでも言っていても仕方がないでしょう。・・・それでね。今日は、昨日聞いた鏑木君の推理のどこが間違っているかという点を二人で確認してみたいのよ」
京介は結衣を見つめた。今度は先生にすがる生徒の顔つきだ。
そうだ。昨日、山瀬さんは僕の推理が間違っていると言っていた。一体、どこが間違っていたんだろう・・・
そんな、京介の顔がおかしかったのだろう。結衣がクスリと笑って京介を見つめた。まばゆい結衣の瞳に見つめられて、京介の顔が赤くなった。京介はそれを結衣に見られないように、あわてて首を横に振った。
京介の横では・・・カウンターの中で、マスターが丸イスに座って、ウツラウツラと居眠りをしている。今日も喫茶『ゲーテ』の中には、日常の平穏が満ちあふれているようだ。そんな平穏の中で、結衣と吸血鬼の事件の話をしていることが、なんだかひどく現実から
山瀬さんともっと他の話をしてみたい・・・趣味とか・・・もっといろんなことを・・・
「つまりね・・・」
結衣の声で京介は我に返った。あわてて、顔を結衣に戻す。
「鏑木君はこう推理したのね。・・・まず、吸血鬼に扮した犯人が鏑木君に『コリントの花嫁』というメッセージを渡したことには、どんな意味があるんだろうと考えたわけね。・・・そこからスタートして、次に『コリントの花嫁』は娘が殺されて埋められる話だから、これはきっと女性が殺されて土の中に埋められているというメッセージだと考えた。・・・それでは、どこに埋められているのか?ということになって・・・鏑木君が吸血鬼に扮した犯人に襲われたのは、東京ゲーテ記念館の前だったから、きっと女性の死体は東京ゲーテ記念館に埋められているという結論に達した。・・・犯人がわざわざ吸血鬼の格好をしたのも、ゲーテの小径で犯行に及んだのも、すべて吸血鬼を印象づけて、『コリントの花嫁』をアピールしたかったんだと鏑木君は思ったのね。・・・どう、鏑木君、何か違っている?」
結衣の頭の良さに京介は驚いた。昨日、東京ゲーテ記念館の前で、しどろもどろに話した自分の推理が実に理路整然と整理されているのだ。感嘆の念を含んだ声が、京介の口から飛び出した。
「や、山瀬さん。すごいですね。ま、全く、その通りですよ」
「でもね。この推理は間違っているのよ」
京介が怪訝な顔をする。
さっきの山瀬さんが整理した話を聞いていても、僕の推理は間違っていないように思えるのだが・・・
結衣がそんな京介の顔を見ながら続けた。
「実は、鏑木君の推理では説明できないことがいくつかあるのよ」
「・・・」
「いい?・・・犯行は2年前、昨年、今年と全てゲーテの誕生日の8月28日に行われているのよ。ゲーテの誕生日に犯行が行われることと、東京ゲーテ記念館に殺された女性が埋められていることは、どういう関係があるの? 東京ゲーテ記念館に殺された女性が埋められていることを告発するんだったら、犯人は何もゲーテの誕生日に限って、わざわざ犯行を行う必要はないわけでしょう。ゲーテの誕生日は年に一回しかないのよ。だったら、犯人は、ゲーテの誕生日以外にも頻繁に現れて、東京ゲーテ記念館に女性が埋められていることを告発した方が、はるかに効率がいいわけよね」
京介は絶句した。言葉が出てこない。
「そ、それは・・・た、確かに・・・」
確かに山瀬さんの言うとおりだ。そう言われると、僕の推理では、毎年、ゲーテの誕生日に限って犯行が行われることが説明できない・・・
結衣がさらに追い打ちを掛けるように言った。
「それに、鏑木君の推理では説明できないことが、まだあるのよ」
京介はもう言葉も出ない。黙って結衣を見つめている。
「・・・」
結衣が続ける。
「それはね、吸血鬼に扮した犯人がどうして昼間に犯行に及んでいるのかということなのよ」
思わず、京介の口から「あっ」と声が洩れた。昼間の犯行・・・京介が全く思ってもみなかった切り口だ。
結衣はレーコーを一口すすると、ゆっくりと話し出した。
「2年前、昨年、そして今年と、犯人は吸血鬼の格好をして、昼間に犯行を行っているわ。吸血鬼が現われるのって、夜と決まっているじゃない。『コリントの花嫁』でも、吸血鬼になった娘が若者の部屋を訪問するのは夜でしょう。・・・なのに、なぜか、犯行は昼間に限って行われているのよね・・・鏑木君の推理のように、犯人がわざわざ吸血鬼の格好をしたのも、ゲーテの小径で犯行に及んだのも、すべて吸血鬼を印象づけたかったんだとすると、犯人はわざわざ吸血鬼の格好をしているわけだから、絶対に夜に現れるべきでしょう。犯人はわざわざ吸血鬼の格好をして、なぜか吸血鬼のイメージとは真逆の昼間に現れているのよ。鏑木君の推理では、この点も説明できないのよ。・・・実はね、私には、わざわざ吸血鬼の格好をした犯人が昼間に出没しているってことが、今度の事件で最も重要なポイントだと思えるのよ。・・・」
「重要なポイント?・・・で、では、山瀬さん。吸血鬼の格好をした犯人が昼間に出没するって、一体どんな意味があるんでしょうか?」
「さあ、それはまだ私には分からないわ。・・・それでね、鏑木君。これから、私にちょっと付き合ってくれない?」
「えっ、ええ・・・それは、構いませんが・・・付き合うって・・・これから、どこかに出かけるんですか?」
「そう、私とデート!」
結衣はそう言うと、いたずらっ
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