第3話 コリントの花嫁
結衣の意外な言葉に京介は驚いた。思わず結衣の顔を見つめる。
「えっ、ゲーテと吸血鬼って、何か関係があるんですか?」
結衣が手帳のメモを眼で追いながら話を続けた。
「そう、ゲーテと吸血鬼の間には関係があるのよ。・・・つまりね、鏑木君が言ったように、ドラキュラを主人公にしたブラム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』は1897年に発表されたんだけれど、実はこれ以前にも吸血鬼を扱ったお話がいくつか発表されているのよ」
「えっ、吸血鬼の話って、『吸血鬼ドラキュラ』が最初じゃなかったんですか?」
「ええ、そうなの。・・・もともと、吸血鬼のお話は東欧の先住民の間で伝わっていた伝承を基盤にしたものなのよ。伝承をもとに、いろいろな小説が生まれたというわけなのね。それで、調べてみるとね・・・1748年にオッセンフィルダーという人が書いた『吸血鬼』という小説が吸血鬼を扱った文学作品の最初と言われているのよ。次いで、1773年にビュルガーという人が『レノーレ』という小説を発表しているの。さらに、1797年に問題のゲーテが『コリントの花嫁』を発表しているのよ。このように、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』の前に、吸血鬼の物語はいくつか発表されているのよね。ちなみに、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』は1897年の発表だから、ゲーテの『コリントの花嫁』はちょうどその100年前に発表されているというわけね」
「えっ、そうすると、『吸血鬼ドラキュラ』の100年前に、ゲーテが吸血鬼の小説を書いているんですか?」
「正確には小説ではなくて物語詩なの。物語詩というのは、文字通り、詩の形式で物語りを構成するものなのよ。物語詩は最も古い詩のジャンルと言われていて、有名な古代メソポタミアの『ギルガメシュ叙事詩』や古代インドの『マハーバーラタ』などは小説ではなくて物語詩なのよ」
「え~、ゲーテが吸血鬼の物語詩を書いていたなんて、知りませんでした・・・」
「でもね、ゲーテは『コリントの花嫁』の中では吸血鬼という言葉は使っていないのよ。その代わりに、血を吸う死んだ女性を登場させているの。でも、これって、吸血鬼に他ならないわけでしょ」
「山瀬さん。その『コリントの花嫁』というのは、一体どんなストーリーなんですか?」
今度は京介が結衣の話に引き込まれていった。その興奮にあおられたかのように、京介はミルクティーを口に含むと、一気に喉に流し込んだ。京介の喉からゴクリという音が出て、喫茶店の中に大きくこだました。そう言えば、さっきまで店の中に聞こえていた、マスターがコップを拭くキュッ、キュッという音がいつの間にか聞こえなくなっている。
京介がカウンターを見ると、マスターがカウンターの中の丸椅子に腰かけて、ウトウトと居眠りをしていた。けだるく暑い晩夏の昼下がりだ。・・・東京の住宅地の中にある小さな喫茶店は、今が一番暇な時間帯のようだった。
結衣は京介の視線に合わせて、チラリとカウンターのマスターを見ると、再び視線を手帳に戻した。
「ゲーテの作品は難しくてね。いろいろな解釈ができるのよ。これは私の『コリントの花嫁』の解釈なの。違うっていう人がいるかもしれないけれど、そのつもりで聞いてね・・・。
『コリントの花嫁』はかなり長い物語詩でね、設定は古代のギリシャ・ローマ時代なのよ。コリントは古代ギリシャの都市国家の一つなのね。それで、ある若者が旅をしていて、コリントに立ち寄るの。コリントには彼のお父さんの友人が住んでいて、かつて、お父さんと友人の二人が、友人の娘を彼の
すると、夜中にその家の娘という女性が、彼が寝ている部屋に忍んで来るの。そして、彼はその娘の美しさの虜になってしまうのよ。彼は娘にご馳走を食べるように言うんだけど、娘はなぜかパンには手をつけないの。そのうち、娘も若者を気に入って・・・もともと娘も彼の許嫁だったわけでしょ。それで、二人はその夜、契りを結ぶのよ。二人は誓いの言葉を取りかわして、娘は金色の鎖を若者に与えるの。そして若者は銀の杯をお返しに娘に与えようとしたんだけど、なぜか娘は受け取らず、代わりに若者の髪の毛を一房もらうのよ。
そこへ、物音に気付いた、先ほどのお母さんがやってきて娘を非難するのよ。しかし、娘は『自分はお母さんが病気になって異教の神に助けられた際に、いけにえにされて殺されて土に埋められてしまった。そして、この若者の血を吸うために、今夜、よみがえった。そうして、若者が死んだあとは、次々に新たな獲物を探すことになる。それはイヤなので、自分の身体を土の中から出して火葬にしてくれ』と積もりに積もっていた恨みを母親にぶちまけて、火葬を頼むの。若者はそれを聞いて驚くのだけれど、『君が土からよみがえった屍であっても、僕は君と冥府までついていく』と言うの。だけど、実は彼はもう娘に血を吸われて殺されてしまっていたのよね。物語は娘が母親に『火葬にしてくれ』と頼むところで終わるのよ」
結衣の話を聞いて、京介が大げさに肩をすくめた。
「へえ~。ゲーテの『コリントの花嫁』って、すごい話なんですね。なんだか、怖いですね」
「そうなの。この『コリントの花嫁』では、さっき言ったように吸血鬼という言葉は出てこないんだけれど、死んだ娘が墓からよみがえって、若者の血を吸って、若者を死なせるわけなのね。さらに娘が、若者が死んだあとは次々に獲物を探すことになると言っているわけでしょう。つまり、この娘が吸血鬼になってしまったというふうに解釈できるわけなの。だから、この『コリントの花嫁』は一般には吸血鬼の話として解釈されているのよ」
「吸血鬼かぁ・・・そうしたら、これで、ゲーテと吸血鬼がつながったわけですね」
「そういうわけね。・・・でもねえ。ゲーテと吸血鬼がつながっても、なぜ新聞記事の犯人が吸血鬼の格好をしなければならなかったのかなぁ?・・・この点はまだ謎なのよね。で、鏑木君、これから私たちはどうするの?」
「僕は今日、新聞記事の犯人を捕まえようと思います」
結衣は京介の言葉に飛び上がった。
「ええっ、犯人を捕まえるんですって?」
「そう、今日は8月28日ですよね。ゲーテの誕生日です。それで、今、午後1時です。一昨年の事件は8月28日の午後2時ごろ、そして、昨年の事件は8月28日の午後3時ごろに起こっています。そして、一昨年、昨年の犯人はきっと同一犯ですよ。・・・ですから、今日もこれからゲーテの小径に、吸血鬼に扮した犯人が出没すると思われるんですよ」
「そうねえ。でも、犯人を捕まえるって、あなた、一体どうやって捕まえるの?」
「それで、山瀬さんにお願いがあるんです。犯人は一昨年も昨年も若い女性を狙っています。そこで、山瀬さんにおとりになって、ゲーテの小径を歩いてもらいたいんです。僕が山瀬さんの跡をつけていますので、犯人が現われたら僕が取り押さえます。ですから山瀬さんは安心していて下さい。・・・そういうわけで、山瀬さん、おとりになっていただけませんか?」
思いも寄らない京介の提案に、結衣は再び椅子から飛び上がった。
「わ、私が、お、おとりですって・・・」
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