第4話 おとり捜査

 その日の午後2時を過ぎたころ、京介と結衣はゲーテの小径の脇の歩道を、西ケ原3丁目の交差点から北へ向かって歩いていた。ただし、二人は並んで歩いているのではなかった。結衣が歩く20mほど後ろを京介が素知らぬ顔でつけているのだ。結衣は結局、京介の「おとりになって下さい」という申し出を承諾したのだった。


 二人が歩く歩道の横には、まっすぐな片側一車線の道が続いている。喫茶ゲーテを出てから、道の両脇には4~5階建てのマンションがずっと並んでいた。


 夏のなごりの太陽が道路で跳ね返って、京介の顔を焼いた。道路には陽炎がたっている。制限速度30km/hを示す、30というオレンジの文字が車道から浮き出て、晩夏の陽光の中で揺れていた。


 ゲーテの小径は南から北に向かって、かなり急な上り坂になっている。坂を登りながら、京介の身体から汗が一気に噴き出してきた。一息ひといき入れたかったが、犯人がいつ現れるか分からないので、京介にはその余裕は全くなかった。前を見ると、この暑さの中なのに結衣は全く平気な様子で、スタスタと坂を登っていく。


 犯人の吸血鬼は、いつ結衣に飛び掛かるだろうか? 吸血鬼の格好をした犯人よ。はやく現れてくれ・・・


 京介は結衣から眼を離さないようにして歩きながら、犯人が現われるのを待った。実は京介には秘密兵器があったのだ。一昨年も昨年も犯人は襲った女性が悲鳴を上げるとすぐに逃げ去ってしまっている。そこで、京介は投げ網漁用の投げ網を用意していた。犯人が現われたら、すぐに投げ網を投げて犯人が逃げられないように網でからめとってしまおうという作戦だ。投げ網は結衣にも渡してある。京介も結衣もいつ犯人が現われてもいいように、投げ網を手に握って歩いていた。


 坂を少し登ると、左手のマンションの1階に動物病院が現われた。一昨年に大学生のA子さんが飛び込んで助けを求めたのは、きっとこの動物病院だ。京介は中に入って病院の関係者に取材をしたい衝動にかられたが、前を歩く結衣を見て、はやる気持ちを押さえた。


 さらに坂を登っていくと、道の両側はマンションから民家に変わった。晩夏の昼過ぎだ。住宅地には人通りがほとんどない。車も通らない。結衣と京介の二人だけが閑散としたゲーテの小径を歩いていく。


 少しすると、前方に信号のある四つ角が見えてきた。四つ角の先には、左手に東京ゲーテ記念館の白い建物が見えている。東京ゲーテ記念館の入口はギリシャのパルテノン神殿を模したのだろうか。西洋の神殿風の入り口になっている。入り口の神殿風の装飾が晩夏の日差しの中でくっきりとした陰影を作っているのが、京介にも見て取れた。ゲーテの小径を挟んだ、東京ゲーテ記念館の向かいは小さな公園になっている。ゲーテの小径ポケットパークという表示が見えた。


 結衣の話では、東京ゲーテ記念館はゲーテの著作や関連資料を約15万点も所蔵しているということだった。ゲーテの資料を集めた資料館としては世界でもトップクラスの施設らしい。そんな、海外からも高い評価を受けている有名な施設が民家の間に挟まれるようにしてポツンと建っているのが、なんだか京介には不思議だった。


 結衣は立ち止まることなく、信号のある四つ角を突っ切り、東京ゲーテ記念館の前を通り過ぎた。さらにゲーテの小径を北に向かって登っていく。


 続いて、後に続く京介が信号のある四つ角に入った。四つ角の左右は車一台がやっと通れる路地といっていいような細い道だ。左の道から、岡持ちを持った出前のお兄さんが自転車でやってくるのが見えた。右の道からはブルドックを散歩させている若い女性がスタスタとやってくる。女性の涼しげな水色のミニスカートが京介の眼に入った。東京ゲーテ記念館の神殿風の入り口の前では、小学生の女の子が二人、バレーボールで遊んでいる。


 結衣に続いて、京介が東京ゲーテ記念館の手前に差し掛かったときだ。記念館の前で遊んでいた女の子の手から、バレーボールがこぼれた。ボールはポンポンポンとはずんで京介の前に転がってくる。京介はボールを受け止めようと、立ち止まって道にしゃがみ込んだ。


 そのときだ。


 後ろからきた何かが勢いよく京介にぶつかった。その勢いで、京介はしゃがんだ姿勢のまま、思わず前のめりに道路に倒されてしまった。京介が取ろうとしたバレーボールが京介の手を外れて、前方に転がった。黒い影が京介の背中に乗って、顔を京介に近づけてくる。背中の重みで、京介の身体が、陽に焼けて熱い歩道に強く押しつけられた。思わず「うわあ」と叫んだ京介が必死になって顔を背中に向けた。眼の前に吸血鬼の顔があった。


 「吸血鬼だぁ」


 京介はさらに悲鳴を上げると、なんとか背中の吸血鬼を振りほどこうとして、両手を無茶苦茶に振り回した。そのとき、手に握っていた投げ網が宙に飛んだ。前を歩いていた結衣が京介の悲鳴に気づいて振り返った。結衣の口から悲鳴が出た。


 「きゃあ・・・吸血鬼よ。吸血鬼が出たわ」


 結衣は京介の方へ走りよると、持っていた投げ網を京介と吸血鬼に向かって投げつけた。しかし、結衣は投げ網など投げたことがなかった。このため、コントロールが定まらなかった。こうして、結衣の投げた投げ網は、京介と吸血鬼の上ではなく、そのとき左の道から現れた出前のお兄さんの自転車の上に広がって落ちていったのだ。


 一方、京介の手からこぼれたバレーボールは、ちょうど結衣の足元に転がっていた。結衣は投げ網を投げた後、そのバレーボールに足を取られて、スッテンコロリと歩道に転がってしまった。そこへ、頭上から、京介の手から飛んだ投げ網が落ちてきた。立ち上がろうとした結衣は、今度はその京介の投げ網にからめとられてしまった。足が網にからまって、結衣はもう一度、スッテンと坂の上で一回転した。そして、投げ網にからまったまま、ゴロゴロと京介の方に坂を転がっていった。


 出前のお兄さんは、急に降ってきた結衣の投げ網から逃げられず、投げ網を頭からかぶって、「うわあ」と叫びながら自転車ごと京介にぶつかっていった。


 京介は吸血鬼に背中に乗られて、恐怖で無我夢中に手足を振りまわした。すると、急に背中が軽くなった。


 「やれやれ、助かった」


 京介がそう言って立ち上がったときだ。結衣の投げ網を頭からかぶったお兄さんが自転車ごと京介にぶつかって来て・・・あろうことか、自転車の前輪が、思い切り京介の股間に激突したのだ。ドンと大きな音がした。京介が股間を押さえて、声にならない悲鳴を上げた。


 「ううう・・」


 京介にぶつかった勢いで、お兄さんと自転車が京介の上に倒れ込んだ。お兄さんが持っていた岡持ちが宙に飛んだ。岡持ちの中の中華そばのどんぶりが宙に浮いて、どんぶりから汁や麺や具が空中に飛散した。そして、汁や麺や具は空中を舞って、京介とお兄さんの上に降ってきた。そのあとで、空になったどんぶりのプラスチックの器が回転しながらゆっくりと落下してきて、京介の頭にスッポリと収まってしまった。


 眼の前が急に真っ暗になって、京介が恐怖の叫び声を上げた。


 「ひぇぇぇぇ」


 右の道からやってきた若い女性が連れているブルドックが、眼の前のどんぶりを頭からかぶった不審な人物に驚いて、女性の制止を振り切って走り出した。そして、お兄さんをやっと横にやって、起き上がりかけた京介の股間に思い切り噛みついた。どんぶりの中から声がした。


 「いたい。いたあい。そんなところを噛むな」


 叫ぶ京介のところに、網にからまった結衣がゴロゴロと転がってきて、ドシンとぶつかった。結衣が網の中から出ようとして手足を無茶苦茶に振り回す。結衣の足が京介の股間とブルドックを思いっ切り蹴とばした。京介とブルドックの悲鳴が飛ぶ。


 「むぎゅうぅぅぅ」「キャーーーン」


 京介は結衣の渾身こんしんのケリを食らって、道路にあおむけに倒れこんでしまった。そのとき、京介の頭から中華そばのどんぶりが宙に飛んで、今度はブルドックを連れていた若い女性の頭にスッポリとかぶさった。前が見えなくなった女性が、恐怖の悲鳴を上げる。


 「ひぃぃぃぃ」


 女性がどんぶりを被ったまま、道路にあおむけに倒れている京介の股間を思い切り踏んづけた。前が見えないのだ。


 再び、京介の悲鳴が周囲に響き渡った。


 「いたぁああい」


 女性が、頭のどんぶりを取ろうとして、京介の股間の上で何度も飛び跳ねた。まるで、京介の股間の上でダンスを踊っているようだ。


 「いたぁああい。いたぁああい。ちぎれてしまう。やめてくれぇぇ」


 京介が泣き叫ぶ。京介が暴れるので、飛び跳ねる女性の足が京介の股間を滑った。京介がやっと半身を起こす。しかし、今度は京介の頭が若い女性のミニスカートの中に突っ込んだのだ。女性が大声で悲鳴を上げた。


 「キャー。いやらしい。痴漢よぉぉぉ」


 女性がスカートの中の足をバタバタさせる。その女性の足が、京介の股間を蹴り上げた。再び、京介の悲鳴が飛んだ。


 「ぎゃあああ~。やめてくれぇぇ」


 東京ゲーテ記念館の前で、京介と結衣と出前のお兄さんと若い女性とブルドックが一塊ひとかたまりになって、投げ網に絡まり、中華そばにまみれて、もつれあっていた。それぞれが無秩序に好き勝手に立ち上がろうとするから、相互に邪魔し合って、誰も立ち上がることができないのだ。かたわらでは、バレーボールで遊んでいた、二人の小学生の女の子が茫然とそれを眺めている。


 騒ぎを聞いて東京ゲーテ記念館の中から人が何人も飛び出してきた。いつの間にか、吸血鬼の姿は見えなくなっている。東京ゲーテ記念館の中から出てきた、事務服を着た中年の女性が顔を京介たちに向けて叫んだ。


 「あの中華そば?・・・私が頼んだ出前だわ。痴漢め、中華そばをどうしてくれるのよ。これでも食らえ・・・」


 女性が手に持っていた本を京介に投げつけた。本が放物線を描いて宙を飛んで・・・なんとか立ち上がろうとしていた京介の股間を直撃した。京介の声が響く。


 「むぎゅうぅぅぅ」


 本が京介の股間で跳ね返って、ブルドックの頭に当たった。ブルドックがまたもや悲鳴を上げた。


 「ギャーーーン」


 怒ったブルドックが、再び京介の股間に思い切り噛みついた。京介の悲鳴が飛ぶ。


 「うげぇぇぇぇぇ。や・め・ち・く・りぃぃぃ」


 京介は歩道の上に仰向けに倒れて・・・そのまま伸びてしまった。


 騒ぎを聞いて、交差点の周囲の民家からも人が飛び出してきた。・・・もう、東京ゲーテ記念館の前はハチャメチャだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る