第5話 メッセージ

 「鏑木君。大丈夫?」


 結衣がやさしく京介をのぞきこむ。結衣の顔が明るく輝いて、まるで天使か女神のようだ。京介は赤くなって思わずうつむいてしまった。結衣は白のTシャツと水色の短パンに着替えていた。うつむいた京介の眼に、結衣のスラリと伸びた肢体がまぶしく映った。


 東京都北区の浮間けやき通りに近い、結衣の自宅マンションだ。埼京線の浮間舟渡駅から歩いて約10分のところにある瀟洒な建物だ。マンションの近くには池と風車がシンボルの『東京都立浮間公園』があった。3階の結衣の部屋のベランダからは、浮間公園やその周囲の青々としたけやき並木がよく見渡せた。


 あれから、東京ゲーテ記念館の人に助けてもらってなんとか網から抜け出した結衣が、気を失っていた京介を助け起こしてくれたのだ。そして、東京ゲーテ記念館の人に呼んでもらったタクシーに乗って、結衣が京介を自宅マンションに連れて帰ったのだ。中華そばの汁と麺と具でまみれた京介を見て、タクシー運転手のおじさんは最初、乗車を拒否したのだが・・・結衣が訳を話して・・・財布から3万円を出しておじさんに渡して・・・臭いがつかないように東京ゲーテ記念館の人からもらったビニールのゴミ袋をタクシーの座席に敷いて・・・それやこれやで、ようやくタクシーに乗車させてもらったという次第だった。


 京介を襲った吸血鬼はいつのまにか姿を消していた。


 京介は独身女性の部屋に入るので気が引けたが、中華そばにまみれたスーツで自宅の横浜にある毎朝新聞の独身寮まで電車で帰るわけにもいかず、結局、結衣のマンションに連れて帰ってもらった。服を脱いで、シャワーを浴びさせてもらい、それから結衣の出してくれたジャージに着替えたところだ。結衣の出してくれたジャージはシャイニーピンクのド派手なもので、着替えた京介も思わず赤くなってしまった。


 「濡れたスーツは夜までには乾くそうよ。それまで、私のお部屋でゆっくりしていてね」


 京介がシャワーを浴びている間、結衣が京介のスーツを近所のクリーニング店に出しに行ってくれた。訳を話して、超特急でクリーニングをお願いしてくれたのだ。


 「コーヒーでも飲んで一息ひといき入れましょう」


 結衣がアイスコーヒーを出してくれた。結衣の優しい心遣いが京介の身体にみわたった。京介には、ただやだ結衣の優しさがうれしかったのだ。よく冷えたアイスコーヒーのコップを手に持って、京介の口から感謝の言葉が出た。


 「レーコーですね。ほんと、助かりました。山瀬さん、何から何まで、ありがとうございます」


 結衣が首をひねる。


 「えっ、レーコー? レーコーって?」


 「アイスコーヒーのことを大阪ではレーコーと言うんですよ」


 結衣が笑った。


 「あはははは。やっぱり大阪の言葉って、おもしろいね」


 結衣の笑いを聞いて・・・京介の身体から緊張が解けていくようだ。を一口飲んで、京介は結衣を見ながら、もう一度頭を下げた。


 「今回はどうもすいません。とんだ大失敗でした。僕はてっきり吸血鬼に扮した犯人が山瀬さんを狙うものとばかり思ってたので・・・それで、山瀬さんを守ることだけを考えていました。まさか、男性の僕自身が吸血鬼に襲われるとは・・・僕は全く夢にも思いませんでした」


 結衣もを飲みながら、優しく言った。


 「それは仕方がないよ、鏑木君。誰を狙うかは犯人にしかわからないものね。でも、一昨年、昨年と女性が狙われたんで、今年もまた女性が狙われるはずだと決めつけたのは、ちょっと短絡的すぎたかもしれないわね。犯人にも何か事情があるようね」


 京介がさっきから気になっていたことを聞いた。


 「で、山瀬さんは吸血鬼を見たんでしょう? どんな人物でした? 男でしたか、女でしたか?」


 結衣が首を振る。


 「それがよく分からなかったのよ。鏑木君の悲鳴が聞こえて、私が後ろを振り返ったら、何か黒いものが鏑木君に覆いかぶさっているのが見えたのよ。その直後に、私は歩道に転がっていたバレーボールに足を取られて・・・それで転んじゃったから、私には犯人を見ている余裕がなかったわ。犯人が吸血鬼のマスクをかぶっていたことだけは分かったんだけどね。それから、てんやわんやの大騒ぎになって・・・私は結局、犯人がいつ逃げ出したのかも覚えていないのよ。でもね・・・」


 そう言うと、結衣はちょっと考えこんだ。考える仕草をすると、前髪が揺れて、前髪の一部が結衣の顔の正面に掛かった。ベランダに大きく開いた窓から差し込む太陽の光を受けて、その前髪が結衣の顔に妖しい白黒の陰影を造っていた。それを見ると、京介の胸が熱くときめいた。


 何かを考えている山瀬さんって・・・とっても知的で素敵だ。


 結衣はそんな京介の想いには気づかない様子だ。考えを巡らせながら、無意識に顔に掛かっている前髪を手でかきあげると、おもむろに口を開いた。


 「でも、今年もゲーテの誕生日に、ゲーテの小径で、吸血鬼に扮した犯人が現われたわけでしょう。これって、鏑木君が推理した通りの展開じゃない。鏑木君、あなた、やっぱり大したものね」


 結衣に褒められて、京介の顔がポッと赤くなった。そんな京介の変化を、結衣は気づかない。顔が赤くなったのを悟られないように、京介があわてて頭をかく。


 「いや、僕はたまたま偶然に新聞記事を見つけただけですよ。あの二つの新聞記事を見たら、誰でも今年も同じことが起こるって予想できますよ」


 京介は謙遜したが、結衣に褒められて悪い気はしない。思わず、身体全体が熱くなった。汗が吹き出すようだ。


 結衣がそんな京介を見つめた。


 「でも、鏑木君。不思議よね。・・・犯人は、今年もゲーテの誕生日に、吸血鬼の扮装をして現われたんだよね。でも、今年は女性ではなく、なぜか鏑木君を襲ったわけね。女性の私が鏑木君の前を歩いていたにも関わらずにね。・・・どうして、鏑木君を襲ったのか? 犯人が今年に限って、男性の鏑木君を襲った目的は何だったんだろうね?」


 京介は結衣の視線を避けるように、頭を下げて首を振った。


 「さあ、それが・・・僕にも、なんとも、分かりません」


 そう言ってから、京介が顔を上げて結衣を見ると、結衣はベランダの向こうに見える並木道を黙って見つめていた。今度は並木の緑が太陽に反射して、結衣の顔に緑の陰影を造っている。ゆるやかな風が吹いてきたようで、結衣の顔の上の緑の陰影がゆっくりと揺れていた。再び、京介の胸に何とも言えない熱いものが込み上げてきた。京介はあわてて、手に持ったを口に流し込んだ。ゴクリという、を飲み込む音が京介自身に大きく響いた。


 結衣は、しばらくそうして並木道を見ていたが、ふと京介を振り返ると、話題を変えた。


 「ああ、そうそう。さっき、鏑木君のスーツをクリーニングに出したときに、ポケットの中のものを全部出しておいたわよ」


 そういうと、結衣が部屋の奥からスーパーのレジ袋を持ってきて、京介に差し出した。


 「はい、鏑木君の持ち物は、この袋の中に全部あるはずよ。忘れないように、今のうちに中を確かめておいてね」


 京介がスーパーのレジ袋を覗くと、中に京介の財布などが入っているのが見えた。


 「ああ、助かります」


 京介がその袋を受け取ってさっそく中を確かめる。


 財布、手帳、ボールペン、名刺入れ、カードの定期券、ハンカチ、ティッシュ、スマートフォン、メモが書かれた紙・・・


 んっ、メモが書かれた紙?・・・なんでこんなものが?・・・


 京介はその紙を取り出してみた。右下に子犬のイラストが描かれている。子犬? 


 昔、京介の実家の隣はペットショップだった。小さいころ、京介はよくそのペットショップに遊びに行って、犬や猫を見ていた。それで、京介は犬の種類にはある程度詳しかった。


 この子犬のイラストは?・・ラブラドール犬だろうか? 


 その紙の中央には文字が書いてあった。メモ書きだ。このメモ書きは京介には全く覚えがない。京介が書いたものではなかった。


 紙を手にして首をひねる京介を、結衣が不思議そうに見つめている。


 いつ、こんなメモ書きがスーツのポケットに?・・・京介は紙に書かれている文字を読んだ。


 そこには・・・『コリントの花嫁』と書かれていた。


 思わず、京介の口から驚きの声が洩れた。


 「コ、コリントの花嫁だって・・・ええっ、こ、これって一体?」

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