第2話 東京ゲーテ記念館
結衣が新聞記事を読み終わると、京介がクリヤーファイルのページをめくって、結衣にさらに1枚の新聞の切り抜きを指し示した。
「さっきのが2年前の記事なんです。で、こちらが去年の記事です」
結衣が新聞の切り抜きを見ると、見出しの『昼』の字に強調の傍点がつけられていた。シェークスピアの有名な喜劇『真夏の夜の夢』をもじっているのだ。自分の社の新聞の安易な表題に、結衣の顔が思わずほころんだ。
『 真夏の昼の夢?
東京都北区で吸血鬼さわぎ
8月28日の午後3時ごろ東京都北区で、吸血鬼の扮装をした人物が通行人にかみつくという事件があった。場所は東京都北区西ケ原2丁目34番地の路上。警視庁滝野川署の調べでは、被害にあったのは近所に住む20才の専門学校生A子さん。後ろから首にかみつかれたA子さんが驚いて悲鳴を上げると、犯人は飛鳥山公園方面に逃げ去った。A子さんにけがはなかった。警視庁滝野川署では、飛鳥山公園を中心に不審者を調べている』
結衣が読み終わるのを待って、京介が言った。
「この二つの事件はともに、犯人がまだ見つかっていません」
しかし、結衣はあまり興味がなさそうだ。
「ふーん。吸血鬼かぁ。でも、どうせこんなの誰かのいたずらでしょ。で、鏑木君、あなたはこの二つの記事のどこが気になったわけ?」
「僕が気になったのはまず場所です。一昨年の事件が東京都北区西ケ原2丁目33番地で、昨年の事件が34番地です。つまり、二つの事件はご近所で起こっています。それでこの場所をインターネットで調べたら、33番地と34番地をつなぐ道路が『ゲーテの小径』って呼ばれているって出てきたんです。それが、この喫茶店の前の道ですね」
京介が店の窓を指差す。窓のガラス越しに陽光に光る道路が見渡せた。さっき、二人が立っていた『ゲーテの小径』だ。
京介が続ける。
「それに次に気になったのは日付なんです。両方とも8月28日に起こっています。一昨年と昨年の8月28日ですね」
「8月28日?」
結衣が興味を持ったようだ。もう一度、二つの新聞の切り抜きを交互に見直している。
「そうね。確かに、二つとも8月28日に起こっているわね。どういうことかしら?・・・えっ、8月28日って言ったら、今日も8月28日じゃないの?」
京介がここぞとばかりに勢い込んで話し出した。結衣が、自分の話にやっと興味を持ってくれたので、安心したようだ。
「そうなんです。今日も8月28日です。・・・でも、山瀬さん。8月28日に何の意味があるんでしょうか?・・・それで、僕は8月28日は何の日か調べてみたんですよ。そうしたら、なんとゲーテの誕生日だったんです。つまり、一昨年、昨年と2年続けて、ゲーテの誕生日に、ゲーテの小径で女性が吸血鬼の扮装をした人物に襲われたということになります。つまり、この二つの事件はすべてゲーテにつながっていたんですよ」
「2年続けて、ゲーテの誕生日に、ゲーテの小径に吸血鬼の扮装をした人物が現れて、女性を襲ったいうわけね?」
京介がうんうんと大きくうなずいた。
「山瀬さん。そうなんです。それって、いたずらにしては、手が込みすぎていると思いませんか? そこで、僕の新聞記者の勘にピンとひらめいたんです。これはきっと何かあるとね。・・・それで、ちょうど、僕の東京本社への転勤が決まっていましたので、それで東京に行ったらこの事件を追わせてほしいと東京本社のデスクに頼んでおいたんですよ。そうしたら、デスクが『お前も酔狂だなあ』と言いながら了解してくれたんです。しかも、ゲーテに絡むということで、こうして、我が社で一番ゲーテに詳しい山瀬さんと組ませてもらったんです。山瀬さんに助てもらえることになって、本当に良かったですよ」
結衣が苦笑いをしながら言った。
「私はドイツ文学を専門とする文学者じゃないから、そんなにゲーテに詳しい訳でもないわ。でも、鏑木君にできるかぎり協力するよ」
京介がぴょこんと結衣に頭を下げた。
「ほんとに助かります。僕は、ゲーテといっても名前を聞いたことがあるという程度なので、山瀬さんには期待してます」
結衣がバックから手帳を取り出した。
「では、まず、ゲーテとはどういう人物かという基礎知識から整理しておきましょうか?」
「ええ、お願いします」
そのとき、マスターがアイスコーヒーとミルクティを運んできた。アイスコーヒーとミルクティを二人のテーブルに置くと、マスターがまた「ミティ、ミティ」と口ずさみながら奥に引っ込んでいった。よっぽど、京介の『ミティ』という言葉が印象に残ったらしい。
京介が運ばれてきたホットのミルクティーを口に含んだ。この暑いのにホットだ! たちまち、京介の額から汗が吹き出した。それを見て、結衣はアイスコーヒーをストローで一口すすった。氷がカランと音を立てて、焦げ茶色の液体の中に沈んだ。
喫茶店の中は冷房がよく効いていた。それに静かだ。カウンターに戻ったマスターがコップを拭いているようだ。マスターのたてるキュッ、キュッという乾いた音だけが店内に響いていた。
結衣が手元の手帳を開いて、書かれたメモを見ながら話し出した。
「私もゲーテについて調べてきたわ。・・・ゲーテの本名は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。1749年8月28日に生まれて、 1832年3月22日に82才で亡くなってるわ。鏑木君が言ったように、確かに8月28日はゲーテの誕生日ね。・・・それで、ゲーテはいろんな才能に恵まれていてね、ドイツを代表する文豪であるとともに詩人、劇作家、小説家、政治家、法律家、科学者としても有名なのよ。代表作には小説『若きウェルテルの悩み』や詩劇『ファウスト』があるわね。1832年に死去したときの最後の言葉は『もっと光を』だったと言われているわ。この『もっと光を』という言葉は今でも有名ね」
「でも、さっき、そこの交差点で・・」
京介が窓の外の交差点をまた指し示す。結衣が見ると、さっき、二人が待ち合せた北区西ケ原3丁目の交差点が晩夏の暑さにうねっていた。
「山瀬さんと落ち合って、この道がゲーテの小径だって教えてもらったときは、ほんとに驚きました。僕はゲーテの小径というから、もっと文学的な、ロマンチックな道をイメージしていたんですけれど・・・」
京介が大げさに肩をすくめるのを見て、結衣は苦笑した。
「仕方がないでしょ。はじめにこの道があって、後からゲーテの小径って名付けたんだから。・・・さっきも言ったように、この道の先に東京ゲーテ記念館というのがあるのよ。それで、東京ゲーテ記念館が建てられてから、この道がゲーテの小径という名前で呼ばれるようになったというわけね。東京ゲーテ記念館は実業家の
「ふ~ん。東京ゲーテ記念館ですか。・・・でも、僕にはこの新聞記事の話で、どうしても一つ分からないことがあるんですよ」
「何なの?」
京介も上着の胸ポケットから手帳を取り出して、メモを見ながら話し出した。
「吸血鬼です。どうして犯人は吸血鬼の扮装をしていたのか、そこが分からないんですよ。・・・え~と、調べてみましたら、僕も知ってる有名な吸血鬼ドラキュラは、アイルランド人の作家のブラム・ストーカーが書いた恐怖小説『吸血鬼ドラキュラ』に初めて登場しているんですけど、これは1897年に出版された本なんです。ゲーテが亡くなったのは、さっき山瀬さんが言われたように1832年ですから、ゲーテが生きていたときには、まだ吸血鬼ドラキュラの小説は出版されていなかったわけです。つまり、ゲーテと吸血鬼は何のつながりもないはずなんです。なのに犯人はどうして吸血鬼の格好をしたのかが、分からないんですよ。それとも、ゲーテと吸血鬼には、何か僕の知らない関係があるんでしょうか?」
結衣はちょっと宙を見るような仕草をした。そして、少し考えてから、おもむろに口を開いた。
「ゲーテと吸血鬼ねえ・・・関係がなくはないわよ」
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