第1話 ゲーテの小径

 「えっ、それじゃあ、これが『ゲーテの小径』なの?」


 鏑木かぶらき京介きょうすけは思わず、頓狂とんきょうな声を上げた。


 東京都北区西ケ原3丁目の交差点だ。交差点から飛鳥山公園まで行く道路が北にまっすぐ延びていた。通称『ゲーテの小径』と呼ばれている道だ。


 この西ケ原3丁目の交差点から東に道路に沿って進むと、昔なつかしい雰囲気が残る霜降銀座商店街が現われる。一方、交差点から西に行くと都電荒川線の滝野川一丁目駅に行き当たり、交差点の南には『北区立西ケ原みんなの公園』があった。


 8月末の太陽はまだ十分に夏の暑さを残している。道路が太陽に焼かれて白く光って見えた。横断歩道の白黒の塗装が陽炎に揺れている。


 「ええ、そうよ。鏑木君、何かご不満?」


 山瀬やませ結衣ゆいが口をとがらせて答えた。学生時代からのゲーテファンを自認する結衣にとっては、京介の言い方はまるでゲーテ自身を非難しているかのように聞こえた。結衣は気に入らない。


 「そんな、山瀬さん。ここは、何の変哲もないただの道じゃない」


 「ここをまっすぐ北に行ったら、東京ゲーテ記念館があるのよ。それで、この道がゲーテの小径と名付けられたのよ。どう?・・お・わ・か・り?」


 京介は首を振った。


 「で、でも、山瀬さん。この道のどこがゲーテなの? 両側は普通のマンションだよね。どこから見ても、日本の普通のただの道でしょう? こんな道だったら、日本中どこにでもあるんじゃないの?」


 結衣がキッと京介をにらんだ。


「うるさいわね。そこにゲーテの小径って書いてあるでしょ。だから、ここがゲーテの小径なの。文句ある?」


 京介を睨みつけながら、結衣が道の左手を指差した。交差点に面して、白壁で6階建ての瀟洒なマンションが建っている。その前に、道路に沿って茶色のボードに白字で『ゲーテの小径』と書かれた小さな標識がぶら下がっていた。標識が晩夏の昼下がりの太陽に光りながら、ゆっくりと揺れている。


 京介と結衣は毎朝新聞の記者だ。京介は社会部、結衣が文化・科学部に所属している。京介は入社4年目の26才、独身だ。160㎝、65㎏の小太りの体形に、夏だというのに見るからに暑苦しい黒のスーツを着込んでいた。まだ幼い顔がその黒のスーツの上に乗っている。入社以来4年間ずっと社会部記者として毎朝の大阪本社に勤務していたが、このたび東京本社に転勤となり昨日赴任したばかりだ。


 結衣は入社5年目。京介より1つ先輩である。27才のこちらも独身だ。170㎝の長身に、ショートボブにした髪形がよく映えて、活動的な雰囲気を醸し出していた。うすいピンクのブラウスにグレーのパンツスーツが、結衣の都会的な顔立ちに良く似合っている。


 結衣は入社以来5年間ずっと東京本社の文化・科学部の記者として、主に日本各地の歴史と文化に関する取材をこなしてきていた。京介とは、さきほど西ケ原3丁目の交差点で待ち合わせて、初めて会ったばかりだった。


 京介が首をひねりながら、歩き出した。


 「う~ん。なんか、納得できないけど・・・まあ、いいか。それでは、行きましょうか」


 どこかに行きかかる京介を結衣があわてて止めた。


 「ちょっと、鏑木君。行くって、いったい、あなた、どこへ行くのよ。ちょっと待ってよ。私たち、待ち合わせして、さっき初めて会ったばかりなのよ。ここで、ちょっと今回の『事件』を整理していかない。ちょうど、あそこに喫茶店があるわよ」


 結衣が先ほどの白壁のマンションの1階を指差した。『喫茶ゲーテ』という看板が出ている。


 『喫茶ゲーテ』の中に入ると、クーラーの冷気が京介と結衣を包み込んだ。汗が一気に引いていく。4人掛けの小テーブルが2つと、5人掛けのカウンターという小さな店だ。客はいなかった。昭和の時代に流行ったを思わせるレトロな内装が眼を引いた。カウンターの中にいた40才ぐらいのちょび髭を生やして、蝶ネクタイに黒のベストを粋に着こなしたマスターが、店に入ってきた二人を交互にながめて声を掛けた。


 「いらっしゃいませ」


 二人が手前のテーブル席に座ると、氷と水の入ったグラスを持ってマスターが注文を聞きにきた。


 「何になさいます?」


 結衣がテーブルの上にあったメニューを見ながら答える。


 「私はアイスコーヒー。鏑木君は?」


 「僕はミティ」


 マスターが裏返った声を張り上げた。


 「ミ、ミティ? な、何ですかぁ? ミティって?」


 マスターは眼を白黒させて首をかしげている。手に持ったコップの水が大きく揺れて、コップの中の氷がカランと大きな音を立てた。


 結衣も首をかしげながら、京介に聞いた。


 「鏑木君。ミティってなぁに?」


 「えっ、ミティはミルクティーのことだよ。大阪では、ミルクティーをミティって言ってたけど・・・東京では言わなかったっけ?」


 結衣が笑った。


 「あはははは。東京では言わないよ。なんか大阪の言葉って面白いね」


 京介が頭をかいた。


 「しばらく大阪にいたから、東京の言葉を忘れてしまったよ」


 京介は東京近郊のA市出身で大学卒業までA市に住んでいた。毎朝新聞に入社し大阪本社に配属になって、はじめてA市を出たのだ。大阪本社には4年いたが、4年間ですっかり大阪になじんでしまった様子だ。


 マスターは氷の入った水をテーブルの上に置くと、「ミティ、ミティ・・」とつぶやきながら奥へ引っ込んでいった。マスターが厨房へ入るのを見て、結衣がさっそく京介に話しかけた。


 「では、このお店で今回の『事件』を整理しておきましょう。鏑木君が大阪本社で、うちの社の昔の新聞を見ていて偶然『事件』を発見したのよね。そのときのことから話してくれない?」


 結衣がコップの水を一口飲んで、ほおづえをつきながら京介の顔をのぞきこんだ。コップの表面には、涼しげな水滴がいくつも浮かんでいる。


 京介はさっき会ったばかりの結衣の顔を見つめ直した。よく見ると・・・結衣はかなりの美人だ。整った大きな瞳が京介をじっと見つめている。柔らかそうな唇には優しい微笑が浮かんでいて、唇の端がさっき飲んだ水で少し濡れて光っていた。薄いピンクのかわいらしいルージュが、結衣の都会的な顔にとてもよく似合っている。形のいいあごに、髪の毛が少しかかって、何とも色っぽい。


 京介は思わず顔が赤くなるのがわかった。ドキドキして、言葉づかいがため口から敬語に変わった。もっとも、京介は結衣の1年後輩なので、京介が先輩の結衣に敬語を使うのは当たり前なのだが・・・


 「そ、そうですね。あれは、今年の5月の連休明けでした。僕が毎朝の過去の記事を整理していたら、偶然これを見つけたんですよ」


 京介はカバンから新聞の切り抜きを整理したクリヤーファイルを取り出して、ページをめくると結衣に差し出した。結衣がのぞき込むと、2年前の毎朝新聞の切り抜きがはさんであった。切り抜きには短い記事が載っている。


 『   吸血鬼が女子大生にかみつく

                東京都北区の路上

 8月28日の午後2時ごろ、東京都北区西ケ原2丁目33番地付近の路上を通行中の大学生A子さん(19)が、後ろから歩いてきた人物に、首筋にかみつかれるという事件が起こった。おどろいたA子さんは悲鳴を上げながらすぐ前の動物病院に逃げ込んで助けを求めた。動物病院の医師や看護師らが路上にでてみると犯人の姿はもう見えなかったという。A子さんに怪我はなかった。A子さんによると、犯人は口だけを出した吸血鬼の仮面をかぶっており、黒っぽい上下の服を着ていた。性別や年齢は不明。警視庁滝野川署では、付近の聞き込みを進めるとともに不審者を調査中』

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