第2話 楽寿館
窓の外の木々を見ながら、京介は無意識のうちに、思わずつぶやいていた。
「龍・・・」
結衣には京介のつぶやきが聞こえなかったようだ。結衣が話を続ける。
「それでね、鏑木君。今日はこれから、私たち、龍が目撃された楽寿館、白滝公園、柿田川公園へと順番に行ってみましょうよ。どこも、ここから近いし・・・」
その声に、京介はあわてて視線を結衣に戻した。
「あっ、では、今日は龍の目撃現場に行ってみて・・・そして、実際に龍を目撃した人とも会うわけですね」
結衣は首を振った。
「いえ、それがね。静岡支局から、これはもう終わった話なので、今後は目撃者には会わないで欲しいって言ってきたのよ。目撃者に迷惑を掛けたくないという配慮なのね。実は、龍の目撃後、彼女たちはみんな、周りから『龍を見たなんて、おかしな人ね。大丈夫なの?』って変な眼で見られているのよ。それで、みんな、とっても困っているらしいの。そういったことで、目撃者やその家族が静岡支局にもう龍の話には触れないでもらいたいって要求をしてきたというわけなのよ」
京介は黙って
結衣が続ける。
「それで、この事件の目撃者にはもう会えないんだけど・・・現場の確認は、私たち新聞記者の調査の基本でしょ。どう? 鏑木君、これから、私と一緒に現場に行って見ない?」
京介の心は張り切っていた。結衣と一緒なら、どんなところへ行くのもOKだ。
「もちろん、僕には異存はありません。では、山瀬さん、行きましょうか?」
京介はせっかちだ。そして、ちょっぴり、おっちょこちょいでもある。急いで席から立ち上がりかけた。そんな京介を結衣があわてて手で制した。
「ち、ちょっと待ってよ、鏑木君。もうすぐ、お昼だし・・・よかったら、この喫茶店で、お昼を一緒に食べてから出かけましょうよ」
**********
結衣と京介は、楽寿園の中にある喫茶店で簡単に昼食を済ますと、並んで外に出た。初夏の正午前のさわやかな日差しが二人を包み込んでくる。
結衣が持っていた日傘を差した。そして、京介の顔をチラリと横目で見ると、「暑いでしょう」と言って手で京介を傘に招いた。結衣が傘の中で、京介の場所を開けてくれている。京介はどきどきしながら結衣の傘の中に入った。京介の頭が真っ白になる。思わず、頭の中でつぶやいた。こ、これは、相合傘だ・・・
相合傘という甘美な言葉が、早鐘のように京介の頭の中に鳴り響いた。息が荒くなってくる。結衣に気づかれそうだ。あわてて、京介が手を差し出しながら言った。
「山瀬さん、日傘が重いでしょう。僕が傘を持ちますよ」
結衣が笑う。
「いいわよ。これ、軽いし、それに女性ものの日傘だから、鏑木君が持ったら恥ずかしいでしょう」
京介が答えに困って、差し出した手を引っ込めようとしたときだ。京介と結衣の手が軽く触れた。結衣は素知らぬ顔をして歩いている。しかし、京介は恥ずかしくて・・・日傘の中で結衣と並んで歩きながら、真っ赤になって思わず下を向いてしまった。
道は喫茶店の横から二手に分かれていた。片方の道に『楽寿館』と書かれた矢印が表示されている。二人はその矢印の道に進んだ。
しばらく歩くと、道の周囲は鬱蒼とした木立になった。道が少し登り坂になっている。ここは小高い丘のようだ。さらに進んでいくと、木立が薄くなり、青空が大きく広がった場所に出た。和風の建物が眼に入った。数寄屋造りの木造の建物全体が陽に光っている。入口に楽寿館と書かれた看板が置いてあった。
二人は並んで楽寿館の入り口に立った。入り口は普通の民家と見間違うような、ごく普通のガラスの引き戸になっていた。今は、ガラス戸が閉じられている。
結衣は、楽寿館の屋根から突き出したひさしの中に入って日傘をたたむと、バッグから手帳を取り出した。メモを見ながら、京介に説明する。
「楽寿館はね、明治23年に小松宮
京介が入口のガラス戸を見ると、館内の見学についての説明が貼ってあった。
それによると、楽寿館の見学は1日6回、無料のツアー形式で行われるらしい。見学ツアーの所要時間は30分だ。見学希望者はツアー開始時間前に楽寿館玄関前でお待ちくださいとも記載されていた。入口には次のツアー開始時間も赤字で表示されている。11時30分とあった。まもなくだ。
見学者は京介と結衣だけだった。時間になると、ガラス戸が少し開いて、中から顔色の悪い女性がひょっこりと頭を出した。案内員だ。なんだか古めかしい紺の事務服を着ている。胸に名札があった。『中津』と読めた。
女性の案内員は見学希望者がいるのを確認すると、黙ってガラス戸を大きく引き開けた。それから、京介と結衣にそれぞれパンフレットを手渡し、二人が中に入れるように、入り口の脇に身体を寄せた。ずっと、押し黙ったままだ。
京介はふと疑問を感じた。女案内員が何も言わないのが奇異に思えたのだ。普通だったら、「ようこそ」とか「いらっしゃいませ」とか言って、京介と結衣に簡単に楽寿館の説明をすると思うのだが・・・
でも、京介は頭を振って、その疑問を打ち消した。これは無料の見学ツアーだ。三島市が運営するもので、営利目的の営業ではないのだ。だから、サービスという考え方はあまりないのかもしれない。きっと、この中津という女案内員も三島市の職員なのだろう。
結衣と京介は、女案内員に導かれるようにガラス戸の玄関をくぐった。中は薄暗い。ヒンヤリとした空気が京介と結衣を包み込んできた。玄関の先に磨き込まれた廊下が左右に広がっている。
先に女案内員が靴を脱いで廊下にあがった。京介も結衣も玄関に靴を脱いだ。廊下に上がる。ヒンヤリとした感触が足を伝わってきた。顔を上げると、廊下の向こうに中庭が見えた。見事な日本庭園だ。
女案内員は、二人の先に立って、玄関から廊下を右へ進んだ。京介と結衣も黙って後ろに従った。廊下はさらに左に折れている。廊下が左に折れている角のところに和室があった。女案内人が障子戸を開けて、和室の中に入っていく。京介と結衣も続いた。
京介は入り口でもらったパンフレットを開いた。この和室が『
女案内員はとくに説明をするでもなく、黙って『
廊下の左手は、さっき玄関で見えた中庭になっている。廊下の解放された窓から、日本庭園が見わたせた。日本庭園の池が初夏の陽に光っている。
歩きながら、京介が結衣に小さくつぶやいた。
「龍が出るとすれば、あの池からかも知れませんね。すると、観光客はこの中庭を見ていて、龍を見たんでしょうか?」
突然、前を歩いている女案内員の足がピタリと止まった。結衣と京介もあわてて立ち止まる。紺の事務服の背中がゆっくりと回転して、女案内員が二人を振り向いた。京介は彼女の顔を見て思わず息を飲んだ。恐ろしく怖い顔だった。前髪が大きく顔の前に垂れ下がっていた。前髪の向こうから、うつろな眼が上目遣いに二人を睨んでいる。
女案内員はそのまま黙って、数秒間、二人を睨んでいたが・・・すぐに背中を向けた。そして、何ごともなかったかのように、再びすたすたと廊下を歩きだした。相変わらず、一言もしゃべらない。しかし、あまりのことに、京介の足はその場から全く動かなかった。
中津という案内員はどうして、あんな眼で僕たちを見たんだろうか? 僕は龍って言っただけなんだが・・・
廊下で固まってしまった京介に、結衣が小さく言った。
「鏑木君。ここは黙ってついて行きましょう」
その声で、京介はやっと我に返った。横を見ると、結衣が京介を見つめている。京介はウンと結衣に頷き返すと、あわてて結衣と一緒に女案内人の後を追いかけた。
まもなく、廊下の左手に風呂場、次いで右手に水屋と女中部屋が現われた。水屋と女中部屋の前を素通りして、廊下を突き当りまで進むと・・・そこが有名な『楽寿の間』だった。
女案内員が廊下から障子戸を開けて、二人を楽寿の間に招き入れた。二人が中に入ると、女案内員が「しばらく自由にご見学ください」と言葉を発した。初めて聞く女案内員の声だ。陰にこもった不気味な低い声だった。そして、女案内員は障子戸を閉めると、京介と結衣を『楽寿の間』に残して、どこかへ行ってしまった。
京介と結衣は呆然として『楽寿の間』を見渡した。
豪華な部屋だ。12畳ほどの和室である。横に少し小さな和室がつながっているのが見えた。パンフレットを見ると、こちらの部屋が『主室』で、横の部屋が『次の間』と書かれている。
『主室』のふすまと天井一面には極彩色の絵画が描かれていた。正面のふすまには金箔地に鳥の群れが飛翔している絵があった。京介と結衣は再びパンフレットに眼を落した。ふすまにあるのが、
一方、『主室』と『次の間』の天井は細かく格子で区切られいて、それぞれの格子の中に草花の絵画が描かれていた。パンフレットでは、これは
京介と結衣は『主室』の豪華な絵画にしばし見とれた。
女案内員はどこに行ったのか、なかなか戻ってこない。ふと、京介は肌寒さを覚えた。
「山瀬さん。この部屋、なんだか寒くないですか?」
結衣も京介の顔を見た。
「私もさっきから何だか寒いの」
「初夏だというのになんだか寒いですね。この部屋にはクーラーは見当たりませんが、どこかで、建物全体の全館冷房でもしているのかな?」
結衣が首を振った。
「まさか。こんなに古くて由緒ある建物を全館冷房するなんて、ありえないわよ」
「そうですねえ。さっきの案内の人に聞いてみましょうか? しかし、さっきの人はなかなか戻ってこないなぁ。いつまで、この部屋で待たせるんだろう?」
そう言いながら、京介は廊下につながっている障子戸を何気なく引き開けた。
眼の前の廊下に女案内員が立っていた。女案内員と京介の眼があった。女案内員が不気味にニヤリと笑った。そして、さっきと同じ低い声で言った。
「死ね・・・」
そう言うと、女案内員は廊下から障子戸に手を掛けた。次の瞬間、ピシャリという湿った音が響いて、京介の間の眼で障子戸が閉まった。
京介と結衣は唖然として、部屋の中から閉められた障子戸を見つめた。
京介の頭の中では、さっきの中津という女案内員の言葉が反芻していた。
死ね・・・死ね・・・死ね・・・
京介は首をひねった。
どうして、あの女案内員は、そんなことを言ったのだろう?
しかし、京介が深く考える時間は無かった。
突然、廊下の対面のふすまに描かれた
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