第1話 三島

 JR三島駅の南口を出ると小さなロータリーが眼に入った。ロータリーには、タクシー乗り場がある。客待ちのタクシーが何台か並んでいた。


 鏑木かぶらき京介は額の汗をぬぐうと、半円形のロータリーのふちに沿って歩いた。客待ちで退屈そうなタクシーの列を横目で見ながら進むと、駅前の巾広い道路に出た。スクランブル交差点がある。信号が変わって、交差点を渡ると、眼の前にわさび漬けの店が現われた。


 京介は、わさび漬けの店の前を右に折れて、歩道をまっすぐに歩いていく。すると、京介の眼に『釜めし』と壁に書かれた、老舗らしい食堂が見えた。食堂の前には『うなぎ』、『桜えび』、『生しらす』と、静岡の名物が書かれた三本のノボリが、明るい太陽の光の中でひるがえっていた。梅雨の晴れ間のひとときだ。


 京介はいつものように、黒いスーツの上下に身を包んでいる。初夏の陽光の中で、黒いスーツが見ていても暑苦しかった。 


 老舗食堂の前をまっすぐに進むと、歩道の左手にレンタカー屋と土産物屋があった。土産物屋の2階が食堂になっているようで、2階の壁に『うなぎ』という文字が見えた。ここにも店の前の歩道には『うなぎ』のノボリが出ている。


 静岡の人たちは本当にノボリが好きなんだなあ・・・京介は思わず苦笑した。


 土産物屋の前をさらに先に進むと、木々が茂る一画が現われた。石碑が立っている。石碑には、大きく『楽寿園』という文字が彫ってあった。


 楽寿園は静岡県三島市の市立公園だ。


 園内には約1万年前に富士山が噴火した際に流れ出た溶岩流の跡が残っている。溶岩流の上には、自生した木々が茂っていて、木々に集まる野鳥を観察することができた。園内には小浜池こはまがいけがある。富士山からの湧水である三島湧水群により形成された池だ。池の水位が季節によって変化することで有名だが、近年は湧水不足に悩んでいるようだ。小浜池と周囲の自然林を含む庭園は、昭和29年に国の天然記念物および名勝に指定され、また平成24年には伊豆半島ジオパークのジオサイトとして指定されている。


 京介は、楽寿園の茶色を基調としたあずまや風の事務所で入園料の300円を払うと、園内に足を踏み入れた。砂利道に沿って歩く。まわりは青々とした木々だ。まばらに生えているので、鬱蒼としているという感じはしない。木々の隙間から隣のビルが見えていた。


 しばらく進むと広場に出た。広場の向こうに茶店風の喫茶店が見えた。茶色に白の壁で囲まれた新しい建物だ。黒い屋根が初夏の陽に光っていた。赤地に白抜きで『いらっしゃいませ』と書かれたノボリが見えた。その横で白地に黒文字の『そばうどん』というノボリが初夏の太陽を反射しながらゆっくりと揺れている。京介はポケットからメモを取り出した。メモを確認する。


 間違いない・・・山瀬さんとはこの喫茶店で待ち合わせだ。


 山瀬とは山瀬結衣のことだ。


 結衣と京介は毎朝新聞の東京本社の新聞記者だ。結衣が文化・科学部に、京介が社会部に所属している。でも、二人は社内の非有名観光地特捜班のメンバーでもあった。


 非有名観光地特捜班は、文字通り、各地にある有名ではない観光地のさまざまな不思議を探ることを目的としている。班員は結衣と京介の二人だけで、結衣が班長だ。つまり、結衣は京介の上司というわけだ。非有名観光地特捜班は去年の秋に発足したのだが・・・有名ではない観光地の不思議などは、そうそう見つかるものではなく・・・今まで、なかなか活動機会がなかったのだ。


 しかし、ようやく、班長の結衣から京介に活動開始の連絡があって、京介は三島の楽寿園の喫茶店に呼び出されたのだ。本来なら、結衣も京介も同じ東京本社勤務なので、二人が一緒に東京から三島に来たらいいのだが・・・京介は前任地の大阪に仕事があって、大阪に出張していたので、結衣が京介の出張帰りに三島で待ち合わせをしましょうと提案してきたのだった。


 時計を見るとまだ10時だ。結衣とは10時半の約束である。京介は喫茶店に入っていった。


 中には4人掛けのテーブルが20脚ほど並んでいた。平日の午前中とあって客はまばらだった。入口近くに散歩に出てきたとおぼしき老夫婦が1組、中央に男の子と女の子を連れた若い母親が1組・・・そして、奥の窓際の席にアイスコーヒーを飲んでいる結衣がいた。こちらを見て、笑いながら手を振っている。結衣の声が喫茶店の中に明るく響いた。


 「鏑木く~ん」


 今日の結衣は淡いピンクの花柄のブラウスにベージュのロングスカートだった。スカートの麻の生地がいかにも涼しそうだ。結衣は長い髪を自然に肩に流している。喫茶店の開け放った窓から初夏のやわらかい緑の風が入ってくるようだ。結衣の長い黒髪がゆっくりと揺れていた。目鼻立ちのはっきりした結衣の美しい顔に、黒髪が軽く掛かっては、また離れていく。そんな黒髪の中から、結衣の眼が笑って京介を見つめていた。結衣と視線が合うと・・・京介の胸がはずんだ。


 京介は右手を上げて、結衣の声に簡単に応えると、結衣の席に向かった。


 京介が結衣のテーブルに座ると、さっそく結衣が口を開いた。結衣の輝くような笑顔が京介にまぶしい。


 「鏑木君。大阪出張、お疲れ様」


 京介がしどろもどろに答える。


 「や、山瀬さん。早かったんですね。な、長いこと、待ったんでしょう?」


 結衣が首を振る。


 「いいえ。私もいま来たところなの・・・で、鏑木くん、何を飲む? いつもの、レーコー?」


 そう言いながら、結衣は顔を少し右に傾けて、下から京介をのぞきこんだ。結衣がよくする仕草だ。京介の胸がドキンと鳴った。


 「は、はい。レーコーにします」


 レーコーとは、大阪の言葉でアイスコーヒーのことだ。この前の『ゲーテの小径と吸血鬼事件』で、結衣は初めて京介からレーコーのことを知らされたのだ。

 

 結衣はクスリと笑うと、喫茶店の人を呼んで、アイスコーヒーを注文してくれた。そして、店の人から冷たいオシボリを受け取って、京介に手渡してくれた。結衣が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるのが、京介には何とも照れ臭い。


 京介にアイスコーヒーが運ばれてくると、結衣がおもむろにバッグから手帳を取り出した。取材に使っている手帳だ。とたんに、結衣の顔が仕事モードに変わった。京介がちょっぴり緊張する。


 結衣が話しだした。もう笑顔はない。


 「それでね、鏑木君。やっと、私たち、非有名観光地特捜班の出番が来たのよ」


 「ええ。僕も山瀬さんから、そう聞いて、奮い立っていますよ。で、山瀬さんは、この喫茶店で『事件』のことを話すって仰ってましたが・・・こんどは、どんな『事件』なんですか?」


 結衣がちょっと難しい顔をした。


 「それがねえ。『事件』っていうか・・・ちょっと不思議な話なのよ。去年、私たちが遭遇した『ゲーテの小径と吸血鬼事件』とは、だいぶ趣きが違うのよ」


 「と、言いますと・・・」


 「この静岡の三島市に龍が出たのよ」


 「リ、リュウ? リュウって?」


 「ほら、龍というのは・・・ドラゴンの龍よ」


 京介が結衣の顔をマジマジと見つめた。


 「えっ、あの・・・身体にはウロコがあって、羽根があって、空を飛んで、火を拭くっていう、あの龍ですか?」


 「そう、その龍が、この三島市で、このところ何回か目撃されているらしいのよ」


 「で、でも、山瀬さん。龍って、伝説の生き物でしょ。実際にいるわけがないですよね?」


 結衣がちょっと顔をしかめた。


 「う~ん。それがねえ・・・」


 そういうと、結衣は手帳をのぞきこんだ。


 「この情報はね、毎朝新聞の静岡支局にいる私の友人からもらったんだけどね・・・彼女の話だと、今年に入って、もう三回も三島市内で龍の目撃情報があるのよ。最初の目撃は、この楽寿園の隣の白滝公園というところなの。この公園は富士山の湧き水でできた池が有名なところなんだけど、今年の3月に近所の高校生の女の子が犬を連れて公園の中を散歩していたら、その池から龍が飛びだして、すごい勢いで空の向こうに飛んで行って、最後は空中で消えたらしいの。その女の子がそれを目撃しているのよ。女の子の家の人は、何か見間違いをしたんだろうと言ってるんだけど、その女子高生は、飼い犬が龍を見て、ものすごく吠えたので・・・絶対に見間違いじゃないって主張しているそうなの。だけど、龍を見たって言うのを信じろというのは、やっぱり無理よね」


 「・・・」


 「次の目撃が今年の4月なの。この三島市には柿田川公園というのがあって、その中にやはり富士山の湧き水でできた柿田川湧水群というのがあるんだけど・・・三島市の男性職員が一人で、その柿田川公園の整備をしていたときにね、やはり、湧水の中から龍が飛び出して、空に消えていくのを見たと言ってるのよ」


 「へえ、すると、二件とも、龍は水の中から飛び出したんですね?」


 「そうなの。もともと、龍というのは水の神様だから、水から飛び出すっていうのは不思議じゃないんだけどね・・・でもね、やっぱり龍なんか現実にいるわけがないということで、この男性職員の話も何かの見間違いっていうことになったのよ」


 京介はだんだんと結衣の話に引き込まれていくのを感じた。しかし、龍なんて本当にいるのだろうか?・・・なんだか、おとぎ話を聞いているみたいだ。


 結衣の話が続く。


 「それでね、三件目は今年の5月、つまり先月のことなの。龍が目撃されたのは、この楽寿園の中なのよ。楽寿園の中に楽寿館という建物があって、一般に公開されているんだけど、この楽寿館を見学していた女性が、建物の中から何気なく空を見たときに、龍が飛んでいたのが見えたって言ってるのよ。でも、この女性は、チラリと見ただけだったので、本当に龍だったのか、自分でも自信がないって言ってるらしいの」


 京介は首をひねった。


 「ふ~ん。なんだか不思議な話ですね」


 「それでね、さっき言った、毎朝新聞の静岡支局にいる私の友人がね、この三件の龍の目撃を取材したのよ。でも、彼女の取材は結局、ボツになったの」


 「えっ、どうしてですか?」


 「静岡支局の中でも、そんなのは見間違いに決まっているから、ニュースにはならないってことになったのよ。それで、彼女が、『非有名観光地特捜班で調べてみない? 案外、面白いことが分かるかもしれないわよ』って言って、私に話してくれたのよ」


 「では、今日は、まず、静岡支局にいらっしゃる、山瀬さんのその友人の方に会うわけですね」


 「いえ、それは彼女がダメって言ってきたのよ。静岡支局が既にボツにした話だから、彼女は立場上、いつまでも、その話に関わっているわけにはいかないらしいのよ。だから、この話は私と鏑木君の二人だけで調べることになるわね」


 「分かりました。・・・でも、なんとも不思議な話ですよね。龍は現実の生き物じゃないのに・・・目撃者が三人もいるなんて」


 「そうなのよ。三人目の楽寿館の女性は記憶があいまいなんだけどね。・・・それで、私は非有名観光地特捜班として、鏑木君と二人で正式に三島の龍の謎を調べてみようと思ったっていうわけなのよ。もう、会社の許可は取ってあるわ。だから、これからの費用は、公費で落とせるの」


 そう言うと、結衣は明るく笑った。再び結衣の笑顔がまぶしい。京介は結衣の視線を避けるように窓の外を見た。木々の新緑がさわやかな風に揺れている。


 窓の外の木々を見ながら、京介は無意識のうちに、思わずつぶやいていた。


 「龍・・・」

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