第3話 千羽千鳥図

 京介の頭の中では、さっきの中津という女案内員の言葉が反芻していた。


 死ね・・・死ね・・・死ね・・・


 京介は首をひねった。


 どうして、あの女案内員は、そんなことを言ったのだろう?


 しかし、京介が深く考える時間は無かった。


 突然、廊下の対面のふすまに描かれた千羽せんば千鳥図ちどりのずが揺らいだ。


 絵の中からいくつもの黒い影が浮き上がってきた。次の瞬間、黒い影の一つが絵から飛び出して、京介の頭に向かってきた。咄嗟に京介は身体をひねった。黒い影が京介の頭をかすめて飛んだ。ピューという空気を鋭く切り裂く音がした。そして、黒い影は後ろへ飛び去った。


 次の瞬間、絵から別の黒い影が飛んだ。今度の影はものすごい勢いで、京介の胸にぶつかった。京介はたまらず、尻から畳の上に倒れこんだ。影がギャーという声を発して、上空に飛んで行った。


 「鏑木くん」


 結衣が京介に駆け寄った。京介を抱き起す。


 すると、絵から大量の黒い影が飛び出した。影が和室の中を覆った。鳥だった。絵の中の鳥が飛び出したのだ。和室の中を何十羽という鳥が乱舞している。ギャー、ギャーという鳴き声が部屋の中にひびいていた。


 結衣が驚愕の声を上げた。


 「鳥よ。絵から鳥が飛び出してくるのよ!」


 京介も眼を疑った。


 「こ、これはいったい?」


 話をしている余裕はなかった。一羽の鳥が結衣の顔をめがけて斜め上から急降下してきた。


 「山瀬さん。あぶない」


 京介は結衣を畳に押し倒した。


 その京介の鼻先を、その鳥の黒い影が水平に飛んだ。ヒューと風が鳴った。京介の顔を羽根が激しく叩いた。それから影は急上昇していった。


 今度は、京介の眼の端に黒いものが映った。黒いものがどんどん大きくなる。別の鳥が京介に迫ってきているのだ。


 いけない。やられる・・・


 京介はとっさに両手で顔を覆った。両手に黒い影が激しくぶつかった。京介の身体が後ろに揺らいだ。尖ったものが京介の手をかすめた。左手の手首に鋭い痛みが走った。鳥の尖った足の爪が京介の手首を引っ搔いたのだ。次の瞬間、影は上昇していった。手首から血が一筋流れて畳に落ちた。畳に赤いしみが浮かんだ。


 鳥は眼を狙っている。


 恐怖が京介を襲った。


 「鏑木くん、逃げましょう」


 畳に倒れている結衣が叫んだ。京介は結衣を抱くと、頭を下げて膝で廊下側の障子戸に、にじり寄った。障子戸に手を掛ける。しかし、開かなかった。結衣も障子戸に手を掛けたが開かない。


 「障子戸が開かないわ。どうしてなの?」


 結衣の声が恐怖でひきつっている。


 後ろに黒い影が見えた。京介は手で結衣の頭を下げた。片方の手で自分の頭を覆って、自分の身体を畳に投げ出した。京介の頭の上を鳥がかすめた。再び、ピューという空気を鋭く切り裂く音が聞こえた。次の瞬間、鳥が向かいのふすまに激しくぶつかった。ブスッという鈍い音がした。ふすまが激しく揺れた。ふすまの中に鳥の前半分が埋まっていた。


 京介は畳の上に起き上った。すると、今度は三羽の鳥が京介に向かってきた。一羽ずつでは、埒が明かないと見て、複数で攻撃をしてきたのだ。三羽の鳥が一群となって京介の正面に向かってくる。すると、京介の眼の前で、三羽の鳥が大きく散開したのだ。一羽は京介の正面に、もう一羽が京介の右に、そして、最後の一羽が京介の左に飛んだ。そして、三方から京介に迫った。京介の背中に戦慄が走った。


 だめだ。もう逃げられない・・・


 そのとき、京介の足に何かが当たった。京介は足元の畳を見た。結衣が持っていた日傘が転がっていた。楽寿館の玄関に傘立てがなかったので、この『楽寿の間』まで結衣が日傘を手に持ってきていた。さっき、結衣が倒れた際に、結衣の手から日傘が畳の上に飛んだようだ。京介は急いで日傘を拾うと、傘を大きく広げた。そして、傘の中に自分の頭を入れた。


 三方に散開した鳥たちが日傘に向かってきた。


 三羽の鳥が、正面から、右から、左から・・・激しく日傘にぶつかった。ズボッ、ズボッ、ズボッと音がして、日傘に三つの穴が空いた。三つの穴から、三羽の鳥が首だけ出して、くちばしを京介の方に伸ばしてくる。鳥たちのくちばしから、ギャーというものすごい声が出た。京介の額に、正面から来た鳥のくちばしが当たった。額に激痛が走った。血が一本の線になって、あごを伝って、畳に落ちていった。右から来た鳥が、京介の耳を噛んだ。左から来た鳥が、くちばしで京介のあごをつついてくる。


 京介は急いで日傘の中から頭を外した。京介の眼に向こうから新たな鳥の群れが迫ってきているのが見えた。

 

 京介は日傘を閉じた。そして、野球のバットを振るように、日傘を思い切り振り回した。傘に刺さっていた三羽の鳥が、その遠心力で傘から外れて、ものすごい勢いで和室の端っこに飛んで行った。


 そこへ、新たな鳥の群れが京介にぶつかってきた。再び、数羽の鳥が京介の頭にくちばしを伸ばしてくる。京介は日傘を振り回した。ピシュッという高い音がした。日傘に打たれた鳥が、バットをかすめた野球のファウルボールのように斜めに下に落ちた。畳からボスッという音が出て、イグサが舞った。鳥の鋭いくちばしが畳に突き刺さっていた。


 あの突き刺さるような、くちばしで攻撃される・・・京介は思わず眼をつぶった。そして、恐怖に駆られて、眼をつぶったままで、さらに閉じた日傘を無茶苦茶に振り回した。


 何羽もの鳥がその日傘に打たれて、畳の上に落ちた。日傘をかわした鳥たちは、京介の身体を飛び越して、後ろに飛んだ。今度は後ろからだ。


 京介は眼をあけた。あわてて、後ろを振り返る。鳥たちは京介の後ろで反転して、今度は一本の線になって京介に向かってきた。一直線になった鳥たちが京介にぐんぐん迫ってくる。速い・・・


 京介は再び日傘を広げた。一本の線になった鳥たちが次々と日傘に激突した。再び、ズボッ、ズボッ、ズボッ・・と音がした。日傘に無数の穴が空いて、さっきと同じように、その穴から何羽もの鳥が首を出している。また、ギャーというものすごい声が聞こえた。その、首を出している鳥の後ろに、また新たな鳥がぶつかった。すると、新たな鳥に後ろから押し出されるように、最初の鳥が日傘の穴からこちらに飛び出した。飛び出した鳥が、京介の顔に向けて足を広げた。足の爪で、京介の眼を狙っているのだ。


 京介はあわてて、持っていた日傘を空中に放り投げた。それに驚いて、鳥たちがバラバラに空中に散った。一瞬、鳥の攻撃がやんだ。開いたままの日傘が畳の上に転がった。京介は日傘を見た。ボロボロだ。もう使えない。


 これで鳥の攻撃を防ぐ道具がなくなった。


 いけない。早く、この部屋から出ないと・・・


 畳に転がった日傘の向こうには『次の間』があった。京介の眼に『次の間』が映った。『次の間』には鳥の影はなかった。


 『次の間』に逃げるんだ・・・


 「山瀬さん。こちらへ」


 京介は急いで結衣を抱いて、畳の上を膝立ちで『次の間』に向かって進んだ。体勢を立て直した鳥たちが、再び群れをなして京介と結衣に迫った。京介の背中に尖ったものが何度もぶつかってきた。くちばしだ。後ろを見ると、鳥の大群が真っ黒な壁になって、こちらに向かってきていた。京介は今まで経験したことがないような恐怖を覚えた。


 『次の間』が眼の前に迫った。


 京介は結衣の身体を抱えると、結衣を『次の間』に投げ入れた。次いで、自らも『次の間』に転がり込んだ。結衣の頭を片手で押さえ、畳に強くこすりつけた。それから、京介は畳に突っ伏した。もう一方の手で自分の頭を畳に押さえた。鳥のくちばしから逃げるためだった。何十という鳥のくちばしが頭をつついてくる恐怖が京介をとらえていた。鳥に覆われた自分と結衣の身体が眼に浮かんだ。鳥が襲ってくる恐怖で身体が大きく震えた。


・・・・・・


 鳥は襲ってこなかった。京介が頭を上げると、『主室』の中を黒い影が舞っている。『主室』と『次の間』の境が黒い壁になっていた。ギャー、ギャーという鳴き声と、バタバタという鳥の羽ばたきが『主室』から聞こえた。


 結衣も畳から顔を上げた。『主室』を茫然と見上げている。


 どうなったんだ?・・・


 「そうか、鳥は『次の間』には来られないんだ」


 京介はやっと事態を理解した。


 すかさず、結衣の声が飛んだ。


 「鏑木くん。いまよ。『主室』と『次の間』の間のふすまを閉めるのよ」


 京介はふすまに手をやった。障子戸と違って、今度はふすまが動いた。京介と結衣は急いでふすまを閉めた。


 すべてのふすまを閉め終わると、二人は『次の間』の畳の上に座り込んでしまった。ふすまの向こうから、ギャー、ギャーという、ものすごい鳥の鳴き声が聞こえている。それに合わせて、ボン、ボン、ボンとふすまに鳥がぶつかる音も聞こえた。その度にふすまが揺れた。


 息が苦しかった。心臓が早鐘のように打っていた。京介は、ハー、ハーと激しく息を吸った。しばらく、あえいで、やっと周りを見る余裕ができた。


 「山瀬さん。僕たち、助かったみたいですね」


 結衣はまだ激しい息を吐いている。とぎれとぎれの声が出た。


 「ええ・・・あの鳥は・・・一体・・・何なのかしら?」


 「ふすまの絵から飛び出してきましたよ」


 「不思議なことがあるわねえ・・・そうだ。この部屋の廊下側の障子戸は開くの?」


 京介は飛び起きて、廊下側の障子戸に触った。動かなかった。


 「だめです。廊下側の障子戸は動きません。やはり、廊下には出られません」


 「そう。私たち、このお部屋に閉じ込められたわけね」


 京介はあらためて『次の間』を見わたした。ふすまには池を泳ぐ鯉が描かれている。池中ちちゅう鯉魚図りぎょのずだ。天井は『主室』と同様に格子で区切られ、草花の絵が描かれていた。『主室』と同じ格天井ごうてんじょう花卉図かきずだ。


 そのとき、ふすまの池中ちちゅう鯉魚図りぎょのずから音がした。チョロ、チョロというかすかな音だ。すぐに、その音はジャー、ジャーという水道の蛇口をひねったような音に変わった。その音がだんだん大きくなる。やがて、ゴー、ゴーという音を立てた。


 京介がふすまを見ると、絵から水が畳に噴き出していた。水が畳に跳ね返って巨大な水しぶきをたてていた。


 京介の顔から血の気が引いた。かすれた声が出た。


 「水だ」

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