第4話 池中鯉魚図
京介がふすまを見ると、絵から水が畳に噴き出していた。水が畳に跳ね返って巨大な水しぶきをたてていた。
京介の顔から血の気が引いた。かすれた声が出た。
「水だ」
京介と結衣は『次の間』に閉じ込められている。廊下側の障子戸は開かないのだ。このまま、水が増えると・・・溺れてしまう。京介は恐怖で飛びあがった。結衣の顔も恐怖で引きつっている。
水はすごい勢いで増え続けている。またたく間に、水は二人の腰までを満たしていた。
すると、絵から何かが飛び出した。ボチャッという鈍い水音がした。鯉だ。さっきの鳥と同様に、ふすまの絵から鯉が飛び出してきたのだ。
鯉が次々と飛び出してきては、水の中を猛スピードで泳ぎ始めた。京介と結衣の周りにも黒い影がぐるぐると回っている。二人を中心に水が回転し、渦を巻いた。
水はさらに増加して・・・もう二人の胸まできていた。すると、京介と結衣の周りを回転している鯉の一匹が京介に向かってきた。京介の正面からこちらに泳いでくる。鯉の口の上半分が水面に出た。口が開いた。鋭い歯が何本も見えた。天井の蛍光灯の光に歯が光った。鯉が口を開けたまま、京介に噛みついてきた。
京介は鯉から身体をかわそうとした。しかし、水の中で動きがままならなかった。やむなく京介は両手で突進してきた鯉を受け止めた。前進する鯉の圧力で、京介の体勢が崩れた。京介は後ろ向きに尻から水の中に沈んだ。鯉がさらに噛みついてくる。水の中で、眼の前に鯉の鋭い歯が迫っているのが見えた。
いけない。噛まれる・・・
咄嗟に、京介は水の中で、バク転をするように、後ろに倒れて両足を上げた。そのまま、逆さになった身体を上下に一回転させて、鯉を上方に放り投げた。京介の口から気泡が洩れた。上昇する気泡の隙間から、京介の身体のすぐ上を鯉が泳ぎ去っていくのが見えた。
息が苦しかった。あわてて、京介は水面に浮き上がった。もう、足は畳につかなかった。水面に顔だけ出して、大きく息を吸った。立ち泳ぎで身体を支えた。結衣を探した。水面には結衣の姿がなかった。
山瀬さんはどこ?・・・
すると、京介のすぐ横に結衣の頭が浮き上がった。結衣の口からピューと水が宙に飛んだ。結衣が激しく咳き込んで空気を吸った。結衣も立ち泳ぎをしている。
次の瞬間、別の鯉が京介の胸にぶつかってきた。鯉に押されて、そのまま京介は水中に引きずり込まれた。頭が水中に沈んだ。すると、水中で京介の胸に次々と鯉がぶつかってきた。鯉の圧力で、水中の京介の身体がぐるぐると上下に回転した。京介は気泡を吐いた。息ができない・・・
さらに、上から鯉がぶつかってきた。鯉が京介の身体を下に押した。京介の身体が水中深く沈んで、背中が畳に押し付けられた。京介は鯉を跳ね除けようとして手足を振りまわした。しかし、水の抵抗が大きかった。手足は水の中で緩慢に動いただけだった。
数匹の鯉が一気に胸にぶつかってきた。京介の足が、そのうちの一匹の鯉の背中に乗った。京介が思い切り足を下に蹴った。鯉が畳に強く押し付けられた。その勢いで京介の身体は水面に向かった。息が苦しい。
京介の身体はゆっくりと水面に向かっていった。京介は水の中で上を見た。蛍光灯に光る水面が見えた。口から出た気泡が、京介の身体より早く水面に浮上していった。鯉が一匹、京介と水面との間をゆっくりと泳ぎ去った。息が続かない。水面が近づいてきた。もう少しだ。意識が遠くなる・・・
意識が途切れる前に、ようやく京介の頭が水面に出た。京介は水面で大きく息を吸い込んだ。口からヒュー、ヒューという音が洩れた。頭がガンガンと痛い。
次の瞬間、また鯉が京介の胸にぶつかった。京介は再び水に沈んだ。大きく開けていた口から水が大量に入って来た。水の中で京介は水を飲んで、水を吐き出した。
すると、一匹の鯉がまたも京介の顔をめがけて泳いできた。口を大きく開けている。何本もの鋭い歯が水中に差し込む蛍光灯の光を反射した。呼吸が苦しい。息が続かない。意識が遠くなっていく。鯉の尖った歯が京介に迫った。
ダメだ。噛まれる・・・息が苦しい・・・息が苦しい・・・息が苦しい・・・
誰かの手が鯉の尾をつかんだ。結衣の手だ。鯉が驚いて、京介の頭をかすめて後ろへ泳いでいった。京介の眼に結衣の姿が映った。結衣が水の中をこちらに泳いできたのだ。結衣の頬が膨らんで、口の端から気泡が後ろに一直線になって流れている。結衣の手が京介の頭の後ろにまわった。結衣の顔が京介の顔に覆いかぶさった。唇が重なった。京介の肺に空気がゆっくりと送り込まれた。
そのまま、結衣が京介を抱き抱えて、水中をゆっくりと浮上していく。唇は重なったままだ。京介は結衣の口から少しずつ送られる空気を激しく吸った。薄らぐ意識の中で、京介の眼に結衣の長い髪が水の中で揺れているのが見えた。
水面が近づいてきた。もうすぐだ・・・
次の瞬間、結衣に抱かれたまま、京介の顔が水面に飛び出した。京介は空気を思い切り吸い込んだ。喉から再びヒューという音が洩れた。ようやく、意識が戻って来た。
京介が水面を見ると、頭のすぐ上に天井があった。
横を見ると、結衣も天井を見上げていた。
結衣が水面から天井に手を伸ばした。結衣の手が天井板に突き当たった。すると、その
このままでは、二人とも溺れ死んでしまう。なんとか、山瀬さんだけでも助けないと・・・
京介は大きく息を吸い込むと水に潜った。水の中で結衣の両足が立ち泳ぎをしているのが見えた。京介は水中で結衣の後ろから腰にしがみついた。そして、思い切り自分の背中を後ろに反らした。その反動を使って、水の中で、結衣の身体を思い切り水面に向かって放り上げた。
結衣の身体が水面から大きく浮き上がるのが見えた。結衣の立ち泳ぎの足の動きが激しくなった。足が少しずつ水面に上がっていく。
水中から水面を通して、京介の眼には天井に開いた黒い穴が見えていた。結衣の身体が水面から持ち上がって、その穴の中に潜り込んでいく。結衣の頭が・・・上半身が・・・腰が・・・そして、最後に足が・・・その穴の中に消えていった。京介は水中でぼんやりとそれを見つめていた。
結衣を持ち上げた反動で、京介は水中で逆さになったまま、深く、深く、ゆっくりと水の中を沈んでいった。どこまでも頭を下にして沈んでいく・・・
頭が畳についた。
鯉が集まってきて、京介の胸と腹にぶつかった。胸にぶつかった鯉の一匹が京介の身体を畳に押しつけた。京介の口から、ゴボッと大きな気泡が洩れた。顔の前を大きな鯉が泳ぎ去った。息が続かなかった。頭が割れるように痛かった。
また、鯉が身体にぶつかった。京介の身体が左右に回転した。意識が遠くなっていく。
京介の口から最後の気泡が洩れた。もう肺に空気は残っていなかった。
そのとき、細いツタの茎が水中を下りてきた。京介はその茎をつかんだ。薄れていく意識の中で、そのツタを身体に巻き付けた。巻き付け終わると、ツタを引いた。
すると、ツタが上がっていった。ツタと一緒に、京介の身体がゆっくりと水面に向かって上昇していく。消えかかる意識の中で京介は身体が浮上するのを感じていた。水面が迫ってきた。水面が光っていた。希望の光だ。
助かる・・・
ツタに引かれて、京介の身体が水面に浮上した。
京介は立ち泳ぎをしながら、両手を伸ばして天井の穴の縁をつかんだ。水中の身体は鉛のようで持ち上げることができない。それを見た結衣がさらにツタを引っ張った。京介の身体に巻きついたツタがさらに強く引かれた。
京介の身体が少しずつ水面から浮き上がった。ツタを引っ張る結衣の顔が真っ赤になっている。京介も最後の力を振り絞って、穴の縁に掛けた手に力を込めた。
京介の身体が少しずつ水から引き上げられた。京介の上半身が水面に出て・・・やがて、京介の腰から上が水面に出た。水の抵抗が一気に少なくなった。京介は最後の力を振り絞った。天井の縁を持って、思い切り自分の身体を引き上げた。
穴の中で、結衣が京介の上半身を抱いて、さらに京介の身体を引っ張り上げてくれた。京介の腰が、足が・・・少しずつ穴の中に入っていった。
ようやく、京介の全身が穴の中に入った。
京介は穴の中に倒れ込んだ。そのままで、穴の中を見まわした。そこは天井裏だった。身体の下が
助かった・・・そう思うと、意識が遠くなった。眼の前が暗くなっていく。
京介は横に倒れたままで、水を何度も吐いた。ほとんど息ができなかった。頭の奥がしびれていた。頭の奥でキーンという音が聞こえた。
再び、結衣の唇が京介の唇に重なった。
少しずつ肺に空気が入ってきた・・・
京介の意識が少しずつ戻って来た。
・・・京介の眼に少しずつ光が見えてきた。暗闇の中で、結衣が背中をさすってくれているのが分かった。結衣の声が聞こえた。
「鏑木くん。もう大丈夫よ。しっかりして」
意識がしっかりしてきた。眼の前に結衣の顔が見えた。
「山瀬さん。ここは?」
「天井裏よ。
「そ、そうだ。水は?」
「天井の下は水よ。でも、天井裏まで水は上がってこないみたい」
京介は上半身を起こした。天井裏の向こうに明り取りの小窓があって、陽の光が差し込んでいた。
その薄明かりの中で、京介は自分の身体を見た。いつもの黒いスーツが、たっぷりと水を吸っていた。びしょぬれだ。結衣を見ると、結衣の淡いピンクの花柄のブラウスとベージュのロングスカートもびしょぬれだった。結衣の前髪が顔に張り付いている。
京介の頭の中に、先ほど水の中で鯉に襲われたことが浮かんできた。京介はその恐怖にブルッと身体を震わせた。震えると、京介の黒いスーツの上着の裾が広がって、服に染みこんだ水が周囲に飛び散った。
すると、今度は、京介の脳裏に結衣が何度も助けてくれたことがよみがえった。
「山瀬さん。何度も僕を助けてくれたんですね。水の中で僕が溺れかけたときに空気を吸わせてくれたし・・・最後はツタで僕を水から引き上げてくれたし・・・」
結衣が笑って首を振った。
「鏑木くんも私を助けてくれたじゃない。鏑木くんが自分を犠牲にして私を天井の穴に引き上げてくれなかったら、私も溺れていたわ。それに、私、学生のときに海水浴場で人命救助のアルバイトをしていたの。溺れている人に空気を送り込むのは、一番得意だったのよ」
そうだ。山瀬さんが僕にしてくれたのは・・・キスだった。こんなときなのに、そんな想いが京介の頭をよぎった。では、あのツタはどうしたんだろうか? 京介は結衣に聞いた。
「僕を助けてくれたツタはどうしたんですか?」
「私が天井裏に上がったときに、穴から下を見たら、
京介が穴から下を覗くと、横の絵からツタが出て、水の中に垂れていた。その水の中では、何十匹もの鯉が水面に口を出して、鋭い歯を光らせながら泳いでいる。
鯉の歯を見ると、京介は再び震えた。その恐怖を打ち消すように、結衣を見ながら京介は言った。
「しかし、『楽寿の間』の『主室』では絵から飛び出した鳥に襲われ、『次の間』でも、絵から出てきた鯉に襲われるなんて・・・この『楽寿館』は普通じゃないですね。でも、どうして、こんな超常現象みたいなことが起こるのでしょうか?」
結衣が真剣な顔で答えた。
「私ね、これは龍に関係しているんじゃないかって思うのよ」
「えっ、これが龍に関係しているんですか?」
京介は絶句した。三島市で目撃されている龍・・・そして、この『楽寿館』の不思議な鳥と鯉・・・
そのとき、二人が乗っていた天井の床が割れた。
京介も結衣も眼下の『次の間』を満たす水の中に落下していった。
「うわー」、「きゃー」・・・
落下するときに、京介の眼には、何匹もの鯉が水面に鋭い三角形の歯を出して、二人の落下地点に集まってくるのが見えた。
また、水に落ちる。京介は眼をつむった。
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