第9話 東十条銀座商店街

 結衣は『喫茶ゲーテ』を出ると、行先も言わずに、京介を連れて歩き出した。


 一方、京介は先ほどの結衣のデートという言葉に酔いしれていた。


 山瀬さんとデートかぁ・・・ああ、いいなあ・・・。


 結衣はゲーテの小径を北に向かって歩いていく。ゲーテの小径を北に進むと、東京メトロ南北線の西ケ原駅に行きついた。結衣は京介を連れて、西ケ原駅から電車に乗って、二駅先の王子神谷駅で降りた。電車の中でも結衣はずっと押し黙ったままだ。


 王子神谷駅で、結衣に続いて電車を降りながら、京介は首をかしげた。


 王子神谷駅? 初めて来た駅だが・・・ここに何があるんだろう?


 結衣は京介を引き連れて王子神谷駅の改札を出ると、今度は駅の前にある王子警察署王子五丁目交番の裏の道をまっすぐ歩いていった。相変わらず、結衣は何も言わない。仕方がないので、京介も黙って結衣について行く。


 少し歩くと、道は古い住宅街に入った。古い民家が道の両側に連なっている。住宅街をさらに進んで、向かいに接骨院がある四つ角を左折すると、既存の商店とスーパーが共存共栄している昔ながらの古い商店街が現われた。東十条銀座商店街だ。南北線の王子神谷駅からは徒歩約5分の距離にある。商店街の中には、古い商店が軒を連ねるまっすぐな道がJR東十条駅の北口まで続いている。アーケードはない。


 東十条銀座商店街は夕食の買い物をする買い物客でにぎわっていた。


 結衣は京介を連れて、人ごみをよけながら東十条銀座商店街を歩いていく。


 京介は、結衣と自分の二人連れが、周囲からどう見られているだろうかと思いを巡らせた。


 きっと、新婚の若い夫婦が一緒に夕食の買い物に出かけていると思われているだろうなあ・・・


 そう思うと、京介の身体がカッと熱くなった。思わず、結衣の手を握りしめたくなる衝動を京介は必死にこらえた。


 しかし、結衣はそんな京介の熱い想いには気付かない。黙って、人ごみの中を歩いて行く。


 どこまで行くんだろうか?・・・ 


 京介の胸に疑問がわいたが、結衣はまっすぐに前を見つめていて、まるで京介の質問を拒絶するかのように毅然きぜんとして歩いていくのだ。


 道はいつの間にかタイル舗装に変わっていた。周囲の店も急に古びてきたようだ。『おでん やきとり 全品95円』の看板が見える。昔ながらの『珈琲店』があった。大きな餃子を売りにする餃子専門店がある。それらに挟まれるように、かわいらしい美容室や接骨院、不動産屋などが次々に二人の前に現われた。


 やがて、結衣が一軒の店の前で足を止めた。


 古い店だ。『写真館 十条屋』という風雨にさらされた看板が見えた。まるで昭和の時代に取り残されたようなたたずまいが、そこだけタイムスリップしたように、硬質で乾いた雰囲気を醸し出していた。

 

 「ごめんください」


 結衣が入口の壊れかけたガラス戸をギシギシと音を立てて引き開けながら、中に向かって声を掛けた。六畳ほどのコンクリートの打ちっぱなしの土間に白いレースのかかった応接セットが一対だけ置かれていた。ところどころ剥げかかった、うすいクリーム色の壁には額に入った写真がところ狭しと並べられている。こころなしか白黒写真が多い。商売道具の年代物のカメラが奥の黒いリクライニング椅子の上に、この店のあるじであるかのように重々しく鎮座していた。


 「はあい」


 店の奥のドアが開いて、中年の婦人が顔を出した。


 「あの・・・昨日お電話しました山瀬と申します」


 「あ、はい、はい。ハロウィンのことでお電話をいただいたお客様ですね。用意してありますよ」


 京介は首をかしげた。


 ハロウィン? どうして? 


 婦人は横の事務机の引き出しを開けて、1枚のポスターを取り出した。オレンジ色と黒を基調としたバックに、黒衣を着たガイコツが巻物を広げていて、その上に『ハッピーハロウィン東十条 ハロウィンスタンプラリー』と『仮装大賞』の文字が浮き上がっていた。


 「これが去年の『ハッピーハロウィン東十条』のポスターですのよ。いまは、やっていませんが、以前は『ハッピーハロウィン東十条』の仮装衣装はうちが全面的に提供させてもらっていたんですよ」


 結衣はポスターを手に取ってしばらくながめていたが、やがて婦人の方に顔を向けるとゆっくりと口を開いた。


 「それで・・・お電話でお伺いしましたように、こちらのお店で毎年8月になると、吸血鬼の衣装を購入される方はいらっしゃいませんか?」


 「ええ、いらっしゃいますよ。三年前から、うちで吸血鬼の衣装を毎年8月に購入なさっています。今年も購入されましたよ」


 「すみませんが、その方のお名前とか、ご住所とかをお伺いすることはできないでしょうか?」


 婦人が少し考える仕草をした。


 「さあ、それは如何でしょうか? いまは、個人情報保護っていうんですか、そういうお話ができなくなったでしょう。昔はそんなことはなかったんですがねえ・・・」


 「では、その方にどうしたらお会いできるかだけでも教えていただけませんか? 私たち、新聞である事件を知って調べているんです。どうしても、その方に会う必要があるんです。あっ・・私たちは毎朝新聞の記者なんです」


 結衣があわてて毎朝新聞の名刺を婦人に渡す。京介もあわてて名刺を取り出して、婦人に差し出した。


 「毎朝新聞さんですね。うちはもう20年も毎朝さんを愛読していますのよ」


 結衣が如才なく頭を下げた。


 「それはありがとうございます」


 しかし、婦人はそれ以上、口を開かなかった。じっと押し黙って、結衣と京介の名刺を見つめている。話をしようか、どうしようか、迷っているのが分かった。


 結衣は辛抱強く婦人の答えを待っていた。やがて、婦人が根負けしたかのように、ゆっくりと口を開いた。


 「その方でしたら西ケ原で喫茶店をなさってますよ。ゲーテの小径に面した喫茶店だとおっしゃっていました」


**********


 その日の夕方。


 結衣と京介は西ケ原三丁目交差点にある『喫茶ゲーテ』の中に座っていた。いつもの入口に近い四人掛けのテーブル席だ。二人の前には水と氷の入ったコップが置かれていて、その向こうにはマスターが座っていた。二人の他には客はいない。


 「マスターが吸血鬼だったんですね」


 結衣が口を開いた。マスターはしばらく黙っていたが、やがて、ゆっくりと話しだした。


 「いつかは、あなたたちに分かると思っていました」


 「マスター。よろしかったら、お話を聞かせていただけませんか?」


 「ええ。私もそのつもりです。でも、その前に飲み物をお出しましょう。今日はミティですか? それともレーコー?」


 マスターが笑いながら二人に聞く。マスターの乾いた笑いが狭い店内に広がった。


 「僕はレーコー」


 「私はミティ」


 「では、私もミティをご相伴いたしましょう」


 そう言うとマスターは入口のドアに『本日休業』の札を掛けて、カウンターに入り、ミティとレーコーを作ってくれた。


 「ああ、おいしい」


 結衣がミティを一口飲んで、マスターが話し出すのを待った。マスターもミティを口に含んで、噛みしめるように口の中で味わっていたが、やがて、それを飲み込むと顔を二人に向けて話しだした。


 「私はもともと北区で、インターネットを使ってコスプレ衣装を販売する仕事をしていたんです。お二人が行かれた東十条の『写真館 十条屋』が私の勤める店でした。当時、写真館ではどこでも貸衣装をやっていて、貸し出した衣装を着たお客さんを写真に撮るということが流行りだしたところでした。『十条屋』では貸衣装業に合わせて、インターネットでコスプレ衣装を販売することを始めたんです。そして、それが、おりからのハロウィンブームもあって、大ヒットしたんです。『十条屋』のコスプレ衣装はハロウィンの仮装が主力で、なかでも吸血鬼の衣装はマニアの間で評判になるくらい好評でした。その吸血鬼の衣装については、店から私がすべてを任されていました。企画から製作、販売まで、私は本当に吸血鬼の衣装に心血を注ぎました。その結果、たくさんのお客様から好評の声をいただいて、本当にうれしい思いでした。


 でも、大型通販店や100円ショップなどがハロウィンの仮装ビジネスに次々に参入してきて、だんだんとシェアをとられていきました。そして、『十条屋』は結局4年前にインターネットショップ事業を閉鎖せざるを得なくなったんです。本業の写真館の経営も火の車になって・・・結局、私は4年前に『十条屋』を辞めざるを得なくなりました。その後、苦労して、3年前にこの場所にこの喫茶店をオープンすることができたんです・・・。


 ただ、私には野望がありました。まあ、野望といっても、大したことではないんですが、もう一度、インターネットショップを再開したいという希望です。とりわけ、あれだけ好評をいただいた吸血鬼の衣装をもう一度、世の中に出したいと思っていました。吸血鬼の衣装は私が自分のすべてをかけて心血を注いだ商品です。ですから、私にはもう一度、それで勝負したいという思いが強かったんです・・・。


 でも、それには、何かもう一押しが必要でした。何かブームになる、さきがけというか、そういうきっかけが必要だったんです。それで、私は自分でなんとか、そのブームを作り出してやろうと思いました。私は吸血鬼のコスプレ衣装を手掛けた関係から、ゲーテの『コリントの花嫁』が吸血鬼の話だと知っていました。それで、このゲーテの小径で、吸血鬼騒動が起これば、吸血鬼のコスプレブームが起こせるのではないかと思ったんです・・・。


 そうして、私は、新聞に載るような吸血鬼騒動を作り出して、それを吸血鬼のコスプレ衣装を販売するための宣伝として利用することを思いついたんです。


 私は、3年前から、ゲーテの誕生日の8月28日に、このゲーテの小径で、吸血鬼の格好で通行人を驚かすことを始めました。驚かした通行人には『コリントの花嫁』と書いた紙をそっとポケットやカバンに忍ばせておきました。本当は毎日毎日、通行人を驚かしたかったのですが、現実にはそんなわけにはいきませんので、年に1回、8月28日だけを犯行日にしていました。・・・


 吸血鬼の衣装は毎年8月になると『十条屋』から購入していました。『十条屋』にはまだ吸血鬼の衣装の在庫がいくらか残っていたんです。一度犯行に使った衣装は汚れてしまって・・・クリーニングに出すわけにもいきませんので、毎回捨てていました。それで、毎年8月になると、新しい吸血鬼の衣装を『十条屋』から購入していたんです・・・。


 実は、『コリントの花嫁』と書いた紙は、私が『十条屋』にいたときに、吸血鬼のコスプレ衣装の『コリントの花嫁シリーズ』というのを企画して作ったものなんです。でも、紙や衣装は準備したんですが、結局その企画は陽の目を見ることなく終わってしまいました。その時に大量に作った『コリントの花嫁』と書いた紙が『十条屋』にそっくりそのまま残っていましたので、通行人のポケットやカバンにはその紙を忍ばせたんです・・・。


 これが、お二人が追っていた事件の真相なんです」


 しばらく、誰も口を開かなかった。沈黙が重苦しく『喫茶ゲーテ』の中を覆っていた。息が詰まりそうだった。


 沈黙に耐え切れなくなって、京介が口を開いた。


 「それで、マスター。一昨年、昨年と吸血鬼事件は新聞に載りましたが、吸血鬼のブームは起こったんですか?」


 「反響はあったと思います。東京ゲーテ記念館の部長をなさっている川越さんが、うちの喫茶店をよく利用してくださるんです。川越さんのお話では、ここ3年で東京ゲーテ記念館も入場者が増えたらしいのですが・・・。でも、昔のコスプレ衣装ブームのようなところまでは、まだいっていなかったようですね」


 「マスターは、吸血鬼の衣装で通行人を驚かすことを、来年以降も続けるおつもりですか?」


 今度は結衣が聞いた。マスターが覚悟を決めた顔をした。


 「いえ、それはもうやめます。実は、先日、お二人がこの店に来られたときから、もうやめる潮時がきたと思っていました。・・・私は、覚悟はできています。どうぞ、警察に突き出してください」


 結衣と京介は沈黙した。しんと静まり返った店内に、壁の時計の秒針の音がチッ、チッ、チッと響いている。やがて、結衣が口を開いた。自分にも言い聞かせるような、ゆっくりした口調だった。


 「マスター。私たちにはその気はありませんよ。だって、この事件では、誰も傷ついていないじゃないですか? マスターがもういたずらはしないとおっしゃるんですから、もうそれで充分だと思います。事件なんていうものは、初めから何も存在していなかったんですよ」


 「あ、ありがとうございます」


 マスターがテーブルに顔を伏せた。声を出さずに泣いている様子だ。横の窓から差し込む午後の明るい陽射しがその背中を暖かく照らしていた。


 もう、秋だなあ・・・


 京介は思った。

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