第11話 伊勢新九郎宗瑞

 京介は龍の背中に思いきりぶつかった。龍がこちらを向く。龍の口の中に、京介は思い切り頭を突っ込んだ。龍の口の中に『たい肥』の猛烈な臭気が広がった。桜川に落ちて水に洗われたぐらいでは『たい肥』の臭いは全く落ちなかったようだ。京介は龍の口の中でセーラー服を思い切り絞った。大量の『たい肥』が龍の口の中に垂れ落ちた。口の中の臭気で、龍が再びゴホン、ゴホンと激しくむせた。たまらず龍が手で京介の身体を掴むと向こうに投げ捨てた。


 京介の身体が宙を飛んで、ちょうど運よくベンチに倒れている結衣にぶつかった。そのショックで、結衣がようやく気付いたようだ。眼の前の龍を見て固まっている。すると、廓代くるわよが向こうから駆けてきて、結衣の身体を抱いた。京介が叫ぶ。


 「槍間やりまさん。山瀬さんを抱いて逃げて・・・」


 廓代くるわよが結衣を抱いて、向こうに走っていった。龍が二人の背中に口を向けた。京介はもう一度龍の背中に思いきりぶつかった。


 龍が振り向いた。しっぽを大きく一閃させた。公園の中に設置してあった水飲み台が、しっぽに当たって地面からはぎ取られて、虚空に飛んでいった。しっぽが宙を大きく旋回して、京介に向かってきた。京介は地面に這いつくばった。その数センチ上をしっぽが横向きに通過した。ゴーと音が鳴った。風が起こった。京介の身体が地面から数センチ浮き上がった。


 龍が口を大きく開けた。また火を噴く気だ。京介は地面に突っ伏したままだ。いけない。やられる。京介は眼をつむった。


 「鏑木君」


 結衣と廓代くるわよが京介の横に戻ってきた。結衣が虹の郷の『マーマレード』で買った黒い箱を持っていた。黒い箱を龍に突き出した。龍の口から火が飛び出した。火の塊が三人の頭上を覆った。結衣の指があの金色の三角形に触れた。


 閃光が走った。光で一瞬眼がくらんだ。何も見えなくなった・・・


**********


 修禅寺は正式には福地山ふくちざん修禅萬安禅寺しゅぜんばんなんぜんじという。大同2年(807年)に、弘法大師によって開山され、その後は真言宗の寺院として栄えた。室町時代に入ると、北条早雲が隆渓りゅうけい繁紹はんじょう禅師を住職として遠州の石雲院から招いたことから曹洞宗に改宗し現在に至っている。本尊は高さ103㎝、膝張り73㎝の大日如来坐像だ。運慶一派の実慶の作で国の重要文化財に指定されている。


 京介は石畳の上で気づいた。横に結衣と廓代くるわよが倒れている。二人の胸がゆっくりと上下に動いている。良かった。呼吸をしている。安堵すると、京介はゆっくりと起き上った。石畳の上に倒れていたせいか、身体の節々が痛かった。頭上には茜色の空が広がっていた。もう夕方に近いだろう。周囲には人一人いなかった。京介が見上げると、横に鐘がぶら下がっているのが見えた。鐘の上には屋根があった。鐘楼だ。鐘楼の向こうに木立があって、木立のさらに向こうに僧房のような木造の建物が見えていた。その先には山門がある。ここはお寺か?


 石畳に倒れていた結衣が「うーん」とうめいた。京介はすぐに結衣を揺り起こした。


 「山瀬さん。山瀬さん。大丈夫ですか?」


 結衣の眼が開いた。


 「あっ、鏑木君。・・・ここは?」


 「それが分からないんです。僕もいま気がついたところなんです」


 「龍は? 龍はどこ?」


 京介は周りを見た。龍はいなかった。


 「龍は・・・いないみたいです」


 そのとき、廓代くるわよも気がついたようだ。石畳の上に半身を起こして、結衣と京介の方を交互に見た。


 「あっ、山瀬さんと鏑木さん。ご無事だったんですね?」


 「私も鏑木君も怪我はしていないみたいよ。槍間やりまさん。あなたも大丈夫?」


 廓代くるわよが身体を触る。


 「ええ、私も大丈夫みたいです。・・・ここは? ここはどこですか?」


 「それが・・・分からないのよ。私たちも今気がついたところなのよ」


 廓代くるわよが周囲を見回した。


 「あれは鐘楼ですね。なんだか、お寺みたいなところですねぇ・・・」


 結衣が廓代くるわよを抱き起しながら立ち上がった。結衣の手にはあの黒い箱が握られている。


 「龍に襲われて、もうダメかと思ったけど・・・私がこの黒い箱の金色の三角形を触ったら、私たち、またどこかへ移動しちゃったみたいね。龍はそのまま三島の白滝公園に残されて、私たちだけがどこかへ移動したというわけね。・・・そうだわ。鏑木君。時間は? 日時はあれから変わっていないのかしら?」


 京介がスマホを取り出した。操作をしながら首をひねる。


 「あれっ、おかしいな? スマホが作動しません」


 結衣が難しい顔をした。


 「スマホが作動しないって? 私たち、ひょっとしたら、今度は空間だけでなく、時間を飛んだのかも・・・」


 そのとき、急に後ろから声が掛かった。


 「見慣れないお方じゃが、一体どなたじゃな?」


 三人は思わず飛び上がった。振り向くと、黒染めの衣を着て、草鞋わらじをはいた僧侶が立っていた。まだ、30代半ばだろうか。若かった。僧の後ろに若侍が一人立っている。赤色の陣羽織に紫の袴という派手な出で立ちだ。大小の二本の刀を腰に差していた。こちらも若い。聡明そうな整った顔立ちだった。このお寺でテレビの時代劇の撮影でもやっているのだろうか?


 僧侶が聞いた。


 「貴公らは変わった服装をしておられるようじゃが・・・この鐘楼に何か御用かな?」


 あわてて結衣が言った。


 「いえ、そうではありません。ちょっと、道に迷ってしまって。・・・あの、ここはどこでしょうか?」


 「ははは。面白いお方じゃ。ここは、福地山ふくちざん修禅寺しゅぜんじじゃが、寺の中で迷子になったと申されるか?」


 僧は笑ったが、眼は笑っていなかった。厳しい眼で京介たちをにらみつけている。横の若侍が刀に右手をかけた。いつでも刀を抜けるようにしているのだ。僧が手で若侍を制した。


 テレビの時代劇の撮影にしてはいやに緊迫感のある動作だった。


 若侍は見たことがない顔だった。おそらく新人のテレビタレントだろう。緊張した雰囲気を和らげようとして、あわてて結衣が場をとりなした。


 「これは失礼いたしました。旅の者ゆえ、お許しください。して、こちらのお武家様のお名前は?」


 結衣は若侍を演じているテレビタレントの名前を聞こうとしたのだ。


 若侍が口を開いた。しかし、若侍は結衣の思っていることとは全く違うことを口にした。


 「わしは韮山の城主、伊勢いせの新九郎しんくろう宗瑞そうずいじゃ」


 廓代くるわよが息をのんだ。絞り出すような声が廓代くるわよの口から出た。


 「伊勢いせの新九郎しんくろう宗瑞そうずいですって?」


 結衣と京介が不思議そうな顔で廓代くるわよを見つめた。若侍はテレビタレントではないようだ。廓代くるわよが今度は僧侶に向き直った。廓代くるわよが僧侶に聞いた。


 「では、こちらのお坊様のお名前は?」


 「わしは、隆渓りゅうけい繁紹はんじょうと申す。福地山ふくちざん修禅寺の住職じゃ」


 「隆渓りゅうけい繁紹はんじょう?」


 また、廓代くるわよが息をのんだ。顔が青ざめている。


 一瞬、繁紹はんじょう廓代くるわよを鋭い目で見た。だが、繁紹はんじょうは何故か素知らぬ顔をして、別のことを三人に聞いた。


 「そなたらは変わった着物を着ておるのう。短い袴じゃが、それは南蛮の着物なのか?」


 結衣が答える。


 「これはセーラー服というものです。この袴はミニスカートと申します。南蛮の服かと言われれば・・・その通りですが・・・」


 「せいらあふく・・みにすかあと・・とな?」


  繁紹はんじょうが今度は京介の方を向いた。顔をしかめている。


 「貴公のそのじゃが・・・その臭いは何とかならんものか? この福地山ふくちざん修禅寺で、そのような臭いをまき散らされては迷惑というもの・・・」


 繁紹はんじょうは、京介のセーラー服から出る『たい肥』の臭いのことを言っているのだ。京介は服を着替えたいのだが、虹の郷での笑い地蔵との対決、白滝公園での龍との対決で着替える暇がなかったのだ。京介が苦笑いしながら答える。


 「できれば、着替えたいのですが・・・」


 すると、伊勢いせの新九郎しんくろう宗瑞そうずいと名乗った若侍が一歩前に踏み出した。右手は刀にかけたままだ。


 「あいや、待たれい。御坊ごぼう、この臭いならば妖狐ようこを倒せるかもしれませぬぞ」


 繁紹はんじょうが驚いた顔で新九郎しんくろうを見た。


 「新九郎しんくろう。この臭いで妖狐を倒せると言うのか?」


 「さよう。韮山の妖狐はもともとは女子おなごの化身。女子おなごであるからには、妖狐はこのような臭いをもっとも嫌うはずではござらぬか」


 繁紹はんじょうがひざを打った。


 「うむ、まさしく、その通りかもしれぬ。でかしたぞ、新九郎しんくろう。この御仁ごじんの臭いならば妖狐もさぞかし嫌がろうぞ」


 そう言うと、繁紹はんじょうが結衣、京介、廓代くるわよの顔を交互に眺めた。


 「そなたらには、何か特別な仔細があるようじゃな。よければ、話してみてくれぬか。拙僧でよければ、お役に立てよう。じゃが、今は時間がないのじゃ。まもなく、この鐘楼に妖狐が現れる。わしたちは、その妖狐を倒すためにここに来ておるのじゃ」


 結衣が首をかしげた。


 「ようこ?」


 今度は新九郎しんくろうが結衣に答えた。


 「妖狐は韮山に古くからおる狐じゃ。もともとは韮山に住む女子おなごだったのじゃが、駿河の国でのいくさで好きな男が死んでの。好きな男が死んだことが分からずに、長く生きてしまい、狐に変わってしもうたのじゃ。そして、妖狐という妖怪として、里に出てきては悪さをするようになった。妖狐は毎夜、この鐘楼に現れるのじゃ。それで、御坊とわしが退治しようと待ち構えていたところへ、貴公らが突如現れたというわけじゃ」


 繁紹はんじょう新九郎しんくろうの言葉を継いだ。


 「妖狐は強敵じゃ。わしと新九郎しんくろうの二人が掛かっても、倒せるかどうかは分からぬ。しかし、貴公らならば、妖狐を倒せるやもしれぬ。どうも貴公らは、この時代の人間ではないようじゃでな。引き換えと言うてはなんじゃが・・・貴公らが妖狐を倒してくれれば、わしたちが貴公らの手助けをして差し上げようぞ。この時代で生きていくには、この時代の人間の手助けがどうしても必要になろう。また、いずれ貴公らが、貴公らのいた時代に帰るときが来るじゃろうが、そのときにもこの時代の人間が役に立とう。・・・どうじゃ、わしと新九郎しんくろうの代わりに妖狐を倒してくれぬか?」


 そう言うと、繁紹はんじょうがにやりと笑った。すると、新九郎しんくろう繁紹はんじょうを急かせた。


 「御坊、間もなく日が暮れる。こんなに人がおっては、妖狐も出ずらいであろう。この場はこの御仁ごじんたちに任せて、わしたちは一旦退散しようではないか」


 「うむ。新九郎しんくろう、それがよかろう。妖狐が現れなんだら、元も子もないわ」


 そう言うと、新九郎しんくろう繁紹はんじょうは、京介たちを鐘楼に残して、さっさと僧房の方へ歩いて行ってしまった。


 残された結衣が廓代くるわよに早速聞いた。


 「槍間やりまさん。あなた、あの人たちが誰だか分かってるみたいだったけど・・・あの人たちは一体誰なの? テレビのタレントさんではないみたいね」


 すると、廓代くるわよが驚くべきことを口にしたのだ。

 

 「あの若侍は、伊勢いせの新九郎しんくろう宗瑞そうずいと名乗りました。伊勢いせの新九郎しんくろう宗瑞そうずいというのは、後の北条早雲のことです。早雲の子孫が北条と名乗ったので、現代では、伊勢いせの新九郎しんくろう宗瑞そうずいのことを北条早雲と呼んでいますが、新九郎しんくろう自身は北条氏を名乗ったことはないんです。それと、さっきのお坊さんは隆渓りゅうけい繁紹はんじょうという有名な人で、早雲が韮山城主のときに修禅寺のご住職として来てもらった人なんです。つまり、いまは15世紀終盤の室町時代だというわけですね。それに、さっきの様子からすると・・・隆渓りゅうけい繁紹はんじょうは私たちが未来からこの時代に来たことに気付いているみたいでしたね」


 京介は息をのんだ。今は室町時代だって。そして、あの若侍が後の北条早雲だって・・・


 結衣も絶句した。


 「ぞれじゃあ、私たちは、現代の三島の白滝公園から、15世紀終盤の室町時代の修禅寺に飛んだわけね。今度は空間だけでなく、時間も移動したというわけね」


 廓代くるわよもボソリと言った。


 「それに、私たち、妖狐とかいう狐の妖怪を退治することになってしまいましたね。私たちがこの時代で生活して、そして、いずれ現代に戻るには、隆渓りゅうけい繁紹はんじょう和尚と伊勢いせの新九郎しんくろう宗瑞そうずいの手助けが絶対に必要ですから、何としてでも、私たちはその妖狐という妖怪を倒さないといけないわけですね」


 結衣が廓代くるわよに聞いた。


 「槍間やりまさん。妖狐ってどんな妖怪なの?」


 「さあ、私も民俗学を研究していますので、古い狐が人を化かすという話が全国各地にあることは知っていますが・・・でも、妖狐なんて言う妖怪は聞いたことがありません」


 そのときだ。三人の横の鐘楼にボッと人魂が一つ浮かび上がった。

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