陽の章 第十九項 ~素顔~
眼前に展開された紡月の光が、一際大きく輝く。
真円の金色が中央に収束していき、目も眩むほどの煌めきを放つ。
この世で最も尊き者、守星神シルヴィエの象徴たる光。
目の当たりにした者は、口を揃えて言う。
美しい、と。
恐ろしい、と。
「おおおおぉぉぉぉっ!」
中央の一点に集った光円が、エナフィアの咆哮に応じ、爆ぜる。
放たれたのは、矢よりも細い光の筋。
白の陣から、赤の陣へ。
光の向かう先は、赤の軍の総大将である第二王女、シオ。
エナフィアと同じく、姉より秀でた戦闘能力を持ち、
それでも王の座に就くことを認められなかった者。
此度の戦乱の首謀者。
戦いを徒に長引かせる愚将。
エナフィアにとっては、姉の仇。
戦端が開いて以来、赤の王城に篭もり続けてきた彼女も、
内圧に負け、遂に戦場に引き摺り出された。
今を逃せば次は無いかも知れない。
エナフィアは万感の想いを込め、有り丈の殺意を込め、
制御し得る最大の力を込めて、光を放った。
血と泥に塗れた戦場からそれを見上げた兵達には、
空に真っ直ぐな罅が入ったかのようにも見えただろう。
遮るもののない空に奔る光。
この戦場に集った者達は、既に知っている。
それが即ち死を意味するものだと。
「っ!?」
光の筋が、一つから二つに増えた。
赤の陣から、白の陣へ。
光の向かう先は、白の軍の総大将である第二王女、エナフィア。
「ぐっ……ぁ……!」
目を焼く閃光に続き、右肩から強烈な痛み。
エナフィアは訳も分からず、その場に崩れ落ちる。
「鏡っ!?」
傍に仕える騎士の一人が驚愕の声を上げる。
鏡。
あぁ、なるほど。確かにそれはそうだ。
光線ならば確かに鏡で跳ね返すことも出来よう。
いや、寧ろ何で今まで誰も思い至らなかったんだ、と、
激痛に錯乱する頭でエナフィアは嗤ってしまった。
「くっ……そ……!」
反射された光を受け、右肩から先が完全に消失した。
見なくても分かるし、見たくもないし、そもそも見えない。
視界はいよいよ光に染まり、傍らにいる者の形すら分からない。
見えたとすれば卒倒するほど酷いことになっているだろう。
肉体の欠損した痛みと、焼き切られた肉の焦げる匂いだけで、
反吐が出そうなほどだ。
悪態を吐き、歯を食いしばり、エナフィアは体を起こす。
「エナフィア様!」
騎士が身体を支え、侍従が治療を始める。
「……悪いわね、貴方達」
彼らには、彼女らには、とても申し訳なく思うが、
それでもエナフィアに残された命は短く、
エナフィアに残された手段は限られている。
「見よ。神の尊きを。
知れ。人の卑しきを」
エナフィアの全身から光が溢れる。
まるで命が空に吸われるように、光が迸り広がっていく。
「之は神の審判。
其は人の罪科。
跪け。平伏せ。頭を垂れよ。
恥じよ。悔いよ。裡を明かせ。
神は罪を等しく裁く。
光は命に等しく注ぐ」
光は見る間に戦場の空を覆う。
神が大地に降臨するのかと思わせるほどの威容に、
戦場の兵達は一様に手を止め、足を止め、空を見上げていた。
「咎人よ、死に給え」
エナフィアが最後の一節を口にした。
空に広がった紡月の光が、瞼を貫くほどに激しく輝く。
失われた視界が、それでも眩しさで痛む。
この光が焼き尽くす罪とは何なのか。エナフィアは知らない。
少なくとも、自分は敵の命を沢山奪ってきた。
赤の第二王女は沢山の兵を死地に追いやった。
それが罪でないということは無いだろう。
それで良い。
自分の命と引換えに、姉の仇を討てるなら、それで十分だった。
戦場にいる何千という兵達も巻き添えにするが、
刃を手に戦地に赴いた時点で、どうせ死と隣り合わせだ。
初めから覚悟も出来ていよう。
白にも赤にも、戦いを続けられる余力を残さなければ、
きっと痛み分けで手打ちとなるだろう。
後は、妹に任せれば良い。
光が、戦場に降り注ぐ。
数多の兵の断末魔が、エナフィアが最期に聞いた音だった。
神の威光は、純粋にして絶大な破壊の力。
慈悲もなく、容赦もなく、命を消滅させる力。
光の紡月など、初めから使えなければ良かった。
癒やしの風だけを操ることが出来たならば。
陽の章 第十九項 ~素顔~
「街に出る?」
フィアシスが告げた言葉に対し、アルムは怪訝を露わに問い返した。
「はい。
このところ特に王城に篭もりきりですし、
城下の様子をまるで知らないのも問題だ、
という話になりまして……」
フィアシスの言葉は嘘ではない。
実際に、それこそアルムが現れる前から、
レフィアとの会話の中でそういった言葉は出てきていた。
王城を離れる機会といえば、
総じて公務での外遊が殆どで、
他には公然の秘密としてクレミアとの密会もあったが、
いずれも、厳重な護衛を伴って、
外部からの接触を阻む形での移動であった。
フィアシスにとって白の王都は、王城から眺めるものであり、
王都を発つ際に通り過ぎる道でしかない。
「……今の情勢で、良く女王が認めたものだな」
クレミアの件、ニニルの件と問題が立て続けに起こり、
直近の外出といえば、よりにもよって、
自ら名乗り出て害獣の脅威に身を晒したというもの。
フィアシス王女の身の安全を第一に、
という方方からの声が大きいのが現状だ。
ただそれと同時に、
フィアシス王女が自ら王族としての務めを果たさんとするなら、
それを縛り付けて止めるのは如何なものか、
という意見もまた大きい。
そして、レフィアの意志はどちらかといえば後者に近い。
結論として、護衛を連れることを前提に、
まずは白の王都を散策する程度であれば、という話が為されたことを、
フィアシスがレフィアの口から聞いたのが昨日のことだ。
「良いのではないか。
お主が側に付いていれば、万が一ということも無かろう」
部屋の隅の机で読書に耽っていた、この部屋の今の主であるミヅキが、
フィアシスとアルムを振り返る。
その声色には、少しばかりの喜色が滲んでいる。
「まぁ、行くというのならば従うし、安全には十分気を払うが……」
一方のアルムは、
乗り気でない、気が進まない、という言葉をそのまま音にしたような声。
その声を聞いただけで、フィアシスの心は折れかけるが、
それでも何とか心を奮い立たせる。
「ぜひ、よろしくお願いします」
先日、ミヅキの口から出た「アルムはフィアシスのもの」という言葉。
あの言葉を聞いて以来、フィアシスの心は浮足立ち、
アルムとの、今まで通りではない何かが欲しい、という気持ちが、
日に日に強まっている。
そこに突然降って湧いた、アルムとの仲を更に深める機会。
護衛にアルムを連れるならば二人でも構わないと、
レフィアの言質も取ってある。
思い留まる理由は無きに等しかった。
「準備は……初めから出来ているようだな」
「はいっ」
アルムがフィアシスの出で立ちを改めて確認し、小さく溜息を漏らした。
普段の装いと違い、装飾の少ない厚手の上着を纏い、下履きも股が分かれたもの。
害獣退治でジオ高原に向かった際の戦装束とはまた違う、外歩き用の服装だ。
「分かった、随行しよう」
「いや、待て」
いかにも渋々、といった様子でアルムが頷き立ち上がったところで、
ミヅキが声を上げた。
特に異論の無さそうだったミヅキの静止に、
フィアシスは当惑の面持ちで振り向くが、
「どうせなら、その兜と鎧を脱いでゆけ」
ミヅキが続けた言葉は、あまりにも唐突で思いがけないものだった。
「……何を言っている?」
瞬間、フィアシスが感じたのは恐怖だった。
ミヅキの言葉を問い質すアルムの声色は、
今までに一度として聞いたことの無いほどの冷徹。
声の温度だけで肺が凍りそうなほどの冷たさ。
二人の関係性をフィアシスは深く知らないが、
それでもはっきりと分かる。
ミヅキは明らかに、言ってはならない言葉を口にした。
アルムの態度が如実にそれを表している。
「折角街に出たとて、
いちいち恭しく出迎えられ、傅かれては、見るものも見れまい?
民がフィアシス殿に馴染みが無いのならば、
いっそ素性を隠して歩いた方が、ありのままの日常を知れるだろう?」
だというのに、ミヅキはまるで気にする風でもなく続ける。
その言葉には確かに一定の正しさはある。
フィアシスの顔を知らぬ者が、今の出で立ちだけを見れば、
流石にただの平民には見えないだろうが、
良家のお嬢様という程度にしか捉えまい。
だが、英雄と謳われている漆黒の甲冑が傍に並び立てば、
誰もがそれをフィアシス王女と認識し、道を譲り、平伏するだろう。
では、傍に立つ者が白の装束を纏い、髪が隠れていたら。
それならば、少なくとも一目には分かるものではない。
ただ問題は、それが一理あるかどうかという次元のものではない。
「私に、兜を脱いで顔を晒せというのか?」
次のアルムの声は、更に決定的だった。
悪感情を隠そうともしない、
不機嫌などという言葉では到底及ばない、
あからさまな、拒絶と糾弾。
アルムにとって、ミヅキの今の提案が、
絶対に受け入れられないものであることは明らかだった。
「そもそも、拙者は初めから、
そんな兜など要らぬと言ってきた立場だ」
ミヅキの口調も変わる。
溜息混じりで、呆れるように、嘲るように。
口元に笑みこそ浮かべているものの、
そこには好まざる感情が含まれている。
「とっくに結論の出た話だろう。
お前も承服したはずだ」
「お主らの間だけでの決め事だ。
受け入れはしたが、納得はしておらんよ」
居心地の悪さで、胃が捩じ切れそうだった。
フィアシスが望んだのは、あくまでアルムが帯同しての外出であり、
アルムに甲冑を脱いで欲しいなどとは、考えてもいなかった。
いや、勿論、素顔を見せて貰えるというならば、
それは是が非でも見たいのは間違いないのだが、
アルムの気を損ねてまで見たいというわけではない。
「そも、顔を隠すこと自体が不誠実であろうに」
「決まった事で、始まっている事だ。何を今更」
「我々の目的を考えれば、
こちらの者達に対しては、もっと誠実に接すべきであろう」
「迂闊が過ぎるぞ。どこまで喋る気だ」
「ここに居るのはフィアシス殿だけだ。
他の者が居るならともかく」
「その言葉が迂闊だと言っているんだ」
ミヅキとアルムの口論が加熱していく。
街に出ると言い出したことが発端になっているだけに、
自分の居ない所でやって欲しい、とも言えない。
フィアシスが「兜を脱がなくて良い」と一言口を挟めば、
それで決着しそうな話ではある。
ただ、とても自分が口を挟めるような様子ではない、
という恐怖心に加えて、
ミヅキが突然こんな事を言い出したのが、
もしかしたら自分を慮ってのことかも知れない、という仮定が、
フィアシスに口を開くことを躊躇わせる。
先日、フィアシスは自身のアルムへの想いを、
はっきりとミヅキに吐露してしまった。
あの場でミヅキはそれを笑ったが、
フィアシスがアルムと仲を深められるよう、
仲立ちをしようとしているのではないか、と。
「フィアシス殿も、自分の護衛の顔くらい知っておきたかろう?」
ミヅキが、唐突に視線をフィアシスに向けた。
こんな状況で自分に話を振らないで欲しい、と嘆くと同時に、
少しばかり得意気な表情を浮かべるミヅキを見て、
やはりそうか、とフィアシスは納得する。
どうやらこれは本当にミヅキなりの恋路の応援らしい。
ただ、幾ら何でも強引に過ぎる。
完全に今までの関係を破綻させかねない、
当たって砕けろとでも言わんばかりの手法だ。
「あの……私は……」
「見よ、フィアシス殿をこんなにも遠慮させておる。
こんな風に他人行儀に気遣われるのが、お主の望む姿なのか?」
話を振っておいて、意思表示すらさせて貰えなかった。
「……」
呆れか、怒りか、はたまたミヅキの言葉が図星なのか。
アルムは沈黙したまま、ミヅキを睨み続ける。
黒鉄の兜に隠された視線が、
自分の方に向いたのかどうかは、フィアシスには分からない。
「それと、拙者はお主に対して、
命を下すことの出来る立場だということを忘れるな。
有って無いような約束事だし、好かぬやり口ではあるが」
「そんな事は分かっている。
命令であるというなら私は従う。
ただ、私が兜を脱ぎ顔を晒すということを、
お前の独断で、私の諫言を無視して断行する意義は見出だせない」
「意義は十分にある。
心配するな、あ奴には拙者から説明する」
「だから迂闊だと……もう良い」
心の底から不服そうな大きな溜息を伴って、口論は終結を迎えた。
フィアシスにとっては、ただただ居た堪れない時間だったが、
最終的には、願ってもない結論が導き出されたようだ。
アルムが兜を脱ぎ、素顔を晒す。
二人で外出をするだけでも大きな一歩だと思っていたというのに、
一体何がどうしてこんなことになったのか。
アルムが来訪から今日まで頑なに見せなかったものを、
そもそも、本当に見ても良いものなのか。
フィアシスの心を占めるのは、期待よりも寧ろ不安と心配の方だ。
「鎧を脱ぐにしても、着替えが無い。
私が持ち込んだものは鎧下ばかりで、色も黒だ。
街では目立つ」
受け入れた、というよりは諦めたといった風に、
アルムが自分の甲冑に包まれた身体を見下ろして言う。
断る理由探しという風な様子でも無く、
純粋に事実を口にしているといった口振りだ。
「おぉ、それもそうか。
ならば拙者がそこらから借りてこよう」
言い終えるより早く立ち上がり、ミヅキが足早に出口に向かう。
その語調には明らかな喜色があり、
ミヅキにとって望ましい結論だったことが伺える。
「すぐに戻る。鎧を脱いで待っておれ」
扉の前で振り返ったミヅキが浮かべたのは、
いかにも愉快そうな笑みだった。
「随分と……乗り気と言うか、能動的だな。
そこまでして……」
部屋を去るミヅキを見届けた後、
見るからに肩を落とし、疲れも露わにアルムが呟く。
ミヅキの言葉と、今のアルムの態度を見て理解できるのは、
両者の間には、恐らくは剣の師弟として立場の優劣があり、
アルムはミヅキの命に従わざるを得ないということ。
ミヅキはそれを好かないと言ったが、
にも拘わらず命令という形で押し切ったのは、
フィアシスへの配慮というだけでは無いのだろう。
アルムが兜で顔を隠すこと自体に、ミヅキは異議を唱えていた。
それもきっと、アルムがこの地を訪れる前から。
「あ、あの、アルム様……」
「気にするな。ミヅキは言い出したら聞かない。
言葉は悪いが、出しに使われただけだと思っておけば良い」
流石にそこまでは思わないが、
フィアシスの外出は、きっとミヅキにとって、
都合の良い話が舞い込んだということなのだろう。
ともあれ、それは扠置き、だ。
「あの、本当に良いのでしょうか……?」
アルムの素顔を、見ることができる。
降って湧いた話ではあるが、
そうと決まれば、期待をせずにはいられない。
「決して良くはない。
だが、まぁ、仕方ない」
言いながら、アルムが部屋の奥の棚に向かう。
その背を、兜を脱ぐ瞬間を、
見ておきたいという欲求を必死に抑え、
フィアシスはアルムに背を向ける形に座り直した。
「……」
アルムが親衛隊長となったあの日から、
一体どれだけの時間、頭に思い浮かべただろうか。
数え消えれないほどの都合の良い妄想を、頭に巡らせた。
何度も何度も、理想の貌が思い浮かび、すぐに消えた。
どれを取っても、何かが違っていた。
どれだけの理想像も、きっと本物には及ばない、と。
自分が想像できるどんな造形よりも、きっと美しい筈だ、と。
そんな妄想ばかりを繰り返してきた。
背後で、何かがぱちりと外れる音がした。
ただそれだけで、心臓が破裂しそうなほどに高鳴った。
別に何も、疚しい事をするわけではないのに。
まるで初めて物語の中で夜伽の意味を知った夜のようだった。
ごとり、と。
固く重たいものが、静かに置かれる音が鳴った。
恐らくは脱いだ兜を棚の上に置いた音だろう、
自然と顔が熱を帯び、頬が紅潮するのを感じる。
別に裸を見るわけではない。ただ顔を見るだけだ。
そう言い聞かせても、まるで熱は引きそうになかった。
何かが外れる音、何かを置く音が続いていく。
フィアシスは甲冑の構造を知らないが、
部品の一つ一つが外れていく様を想像する。
呼吸がどんどん浅くなる。
目眩までしそうなほどの息苦しさだ。
いつの間にか背が丸まり、
両の手を組んで祈るような姿勢を取っていた。
どれだけの時間、
そうして背に伝わる音を聞いていただろうか。
やがて、背後からの音が完全に止んだ。
「……」
音が止んだということは、つまり、
アルムが鎧を全て脱ぎ終えたということだ。
素顔を晒したアルムが、背後にいるということだ。
「……」
アルムは何も言わない。フィアシスは何も言えない。
振り向くことの許しを得るべきか。
それとも、ミヅキが戻るまでこのまま待つべきか。
黙っているべきなのか。何かを話すべきなのか。
フィアシスにはどうすれば良いのか分からない。
「私が」
「は、はいっ!」
不意にアルムが言葉を発した瞬間、
フィアシスは反射的に、跳ね上がるように背を伸ばし、
裏返った素っ頓狂な声を上げてしまう。
「……」
「……ど、どうぞ」
恥ずかしさと気まずさで泣きそうだった。
「私が顔を晒し、この部屋から出てしまえば、
その情報はすぐに城内に知れ渡ることになる」
背に伝わる、兜を脱いだ状態で初めて聞くアルムの声。
兜の中で響き、くぐもっていた時と比べると、少し印象が違う。
凛然とした力強さはそのままだが、
やや高く、輪郭がはっきりとしていて、透き通って聞こえる。
ミヅキの声に感じるよりももっと、
ずっと聞いていたいと、そう思える声だった。
「私の素性に関する憶測が飛び交うことになるだろう。
それは、女王と、お前の耳にも触れる」
アルムが紡ぐ言葉に、フィアシスは心の中で頷く。
城下ならばともかく、この王城の中にあって、
フィアシスの容姿を知らない者は少ない。
連れて歩く者も、また同様だ。
そもそも今回の城下町への外出だって、
アルムと二人、とは言ってみたものの、
遠巻きに警護や監視が行われる可能性もある。
いや、無い方が不自然とさえ言える。
「だから、先に言っておく」
一際、語調を強めて、
「私は、黒の国の人間だ」
大きく息を吸って、アルムが言い放った。
「……それは」
きっと、とても大きな意味が込められている。
その言葉の意味は、フィアシスには分からない。
思わずその真意を問い質そうとした所で、
「待たせたな」
部屋の扉が勢い良く開かれ、ミヅキが揚々と帰還した。
不意打ちで訪れた音に、またしてもフィアシスの肩が跳ねる。
「フィアシス殿と並んでも見劣らぬよう、
それなりに質の良いものを見繕ってきた。
寸法は間違っておらぬはずだ」
右腕に衣服を一揃い、左手に靴を一足引っ提げたミヅキが、
フィアシスの横を颯爽と通り過ぎて、アルムに歩み寄る。
その様子はいかにも楽しげで、嬉しげで、誇らしげで、
早くアルムに着せたい、という考えが有り有りと見て取れる。
「ところで、フィアシス殿は何故背を向けておるのだ。
お主、この期に及んで、往生際の悪い……」
「私は何も言っていない。
人の着替えを凝視するような躾を受けていないだけだろう。
お前と違って」
二人が軽口を叩き合う。
そのやり取りを少し聞いただけで、
先程までの、どこか悲壮感にも似た緊張が、
少し解けていくのをフィアシスは感じていた。
自分の背後にあるのは、あくまで今までのやり取りの延長なのだと。
振り返った瞬間に、何かが失われてしまったり、
壊れてしまったりするわけではない、と。
「別に全て脱ぐわけでもあるまい。
フィアシス殿、こっちを見ても良いぞ」
あっけらかんという言葉すら似合いそうな声で、
ミヅキがフィアシスに呼び掛ける。
それも或いは、アルムの素顔を見ることを躊躇うフィアシスへ、
それほど身構える必要はない、という意思表示で、
ミヅキなりの気遣いなのかも知れない。
「あ、えっと……振り返っても、大丈夫でしょうか?」
流石にそれだけでは決心がつかず、
フィアシスは背後のアルムに問い掛ける。
アルム自身の許しを得なければ、振り返ることは出来ない。
「……あぁ、構わない」
暫時の逡巡。
それはアルムにとっても覚悟の要る言葉だったのだろう。
ただそれでも、アルムが承諾の意を示した。
ならば、もう迷う必要はない。
振り返ることを止める理由はない。
「そ、それでは……!」
誰に対してでもない合図で踏ん切りをつけ、
フィアシスがアルムを振り返る。
「……っ!」
息を呑んだ。
振り返った先、視界に飛び込んだのは、
フィアシスにとっては予期せぬ光景。
目を疑うという言葉が、そのままフィアシスの心境だった。
「……」
白。
見上げた視線の先にあったのは、白い髪。
アルムが黒の紡月を扱うところを、フィアシスは自身の目で確と見た。
つい今しがた、アルムは自らを黒と語った。
だが、目を隠すほどの長さで、少し波立った髪は、
黒の気配などまるで無い、見事なまでの純白。
髪に隠れた瞳の色もまた深い白銀だ。
だが、フィアシスの頭を混乱させたのは、ただ髪の色ばかりではなかった。
顔立ちは、フィアシスの持つ語彙では美しいとしか形容できない。
全体的な印象は、ミヅキと同様に強さや凛々しさが際立つが、
細められた目はミヅキと比べてやや垂れ目気味で、
左目の下の泣き黒子が蠱惑的な印象を強めている。
眉は直線的で意思の強さが感じられ、
少し眉間に皺が寄っているのは、フィアシスの妄想の通りだった。
整った鼻筋に、薄いながらも形の良い唇。
輪郭はミヅキと比べれば丸みがあるものの、
肉付きが薄く引き締まっている。
髪は、前髪以外は顎の高さあたりで揃えられていて、
細い首には、鎖のように編まれた装飾品。
縫い合わせたような傷跡が、髪の影から覗く。
ここまでは、髪が白であることを除けば、
今までの自分の妄想をも上回る造形美であり、
自分の妄想の程度の低さを恥じてしまう、というだけで終わる話だ。
その顔立ちだけならば。
中性的な男性と取れなくはない。
そう、自分の心を誤魔化すことも出来ただろう。
だが。
「アルム様……」
「何だ?」
「つかぬ……ことを、お聞きしますが……」
フィアシスの視線が下に移動し、留まる。
黒鉄の鎧の下に纏っていたであろう、黒の装束。
その厚手の布地を以てしても、到底誤魔化しきれないほどに、
胸部が盛り上がっている。
なんならフィアシスのそれよりも遥かに大きく。
「女性……だったんですか?」
「あぁ、そうだ」
絞り出すようなフィアシスの問いに、
瞼を伏せたアルムが事も無げに答えた。
フィアシスの初恋が、砕けて散った瞬間だった。
「……」
「ふむ、フィアシス殿はまだ、
此奴が男だと思っておったのか?」
唖然とするフィアシスを見て、
ミヅキがいかにも不思議そうに口を挟む。
その声には、少なくとも揶揄うような色は感じない。
本心から、アルムが女性であることを当たり前に考えて、
いや、元から素顔を知っている仲であるならば、
勿論それは当たり前のこととして捉えているのだろうが。
「え、いや、だって、
アルムという名前は、男性を象徴する名前ですし……」
言いながら、フィアシスは思い返す。
あの日、書庫でミヅキにアルムとの関係を問うた時、
ミヅキは笑い、そして言った。
フィアシスが『そう』で、しかもアルムに、と。
少し気になる言い回しだとはフィアシスも感じていた。
それはつまり、そういうことだったのだ。
ミヅキはフィアシスを『そう』だと認識したのだ。
「その通りだ。
私は基本的に男性として振る舞い、扱われている」
瞼を伏せたまま、呆れたような声でアルムが頷く。
それは明らかに、ミヅキに対する非難の態度だった。
そんなことも考えずに鎧を脱げと言ったのか、
という言葉が、続けずとも聞こえてくるようだ。
「まさか、本当にそれを貫徹しておったのか……」
一方のミヅキは、また別の意味で呆れた声を漏らす。
今更ながら、フィアシスからしても驚くべきことである。
アルムが白の国に現れて以来、
アルムが男性であることを疑う声は聞こえてこなかった。
それなりの期間、この王城で生活を送りながら、
誰にも素顔も性別も知られないというのは、
どれだけの緻密さ厳密さとで成立していたのか。
「当然だろう。そうすると決めていた筈だ」
少なくとも本人にとっては、成立を前提としたものだったらしい。
アルムは呆れ果てた溜息と共に項垂れる。
「それで、どうする。このまま街に行くのか」
アルムがミヅキを睨む。
兜と鎧を脱いで行くというのは、
ミヅキの独断であり、ミヅキからアルムへの命令であった。
覆すならば、それもまたミヅキの責任だ。
「日を……改めさせて下さい……」
ミヅキの答えを待たず、
消え入りそうな声で懇願するのがフィアシスの精一杯だった。
笑っているのか、泣いているのか、怒っているのか、
自分がどんな感情で、どんな表情を浮かべているのかさえ分からない。
涙を零していないことだけは確かだ。
頭を整理し、心を落ち着ける時間が欲しかった。
与えられた衝撃が、あまりに大き過ぎる。
産まれて初めての失恋。
いや、失恋と呼ぶにも足らない。
相手に拒絶されたわけでも、自分が恋心を伝えたわけでもなく、
男性だと思って恋した相手が、女性だった。
これを、今の自分の状態を、果たして何と呼べば良いのか。
少なくとも、今までフィアシスが読んできた恋物語の中には、
その答えは見つかりそうになかった。
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