陽の章 第十四項 ~対峙~


「リリィ……レナード……」


音の消えた戦場を歩く、一人の女の姿があった。

痩躯から哀しみだけを滲ませ、

美しい白銀の瞳から熱い雫を止めどなく溢れさせ、

呆然と立ち尽くす兵士達の隙間を歩いていく。


彼女が呟く言葉は、二人の名前。

幼少からの無二の親友と、

その兄であり、いつの間にか自分が惹かれ、そして愛した男。

彼女にとって自分の命よりも守るべき者達であり、

彼女が何も出来ず失った者達だった。


「もうすぐ……

 もうすぐ終わるから……」


まるで周囲に何も無い荒野を歩くかのように、

とぼとぼと虚ろな足取りで進む。

彼女の目に映るものは、ここにある風景ではない。

遥か向こう、グレイス砂漠の中央に位置する、赤の王城。

辿り着きさえすれば、全てが終わる。


いや、終わるのは自分の命と復讐だけだ。

きっとその先も、白と赤の闘争は止まず、悲劇は続く。

それでも、自分の心だけは、納得して終わることができる。


ただ、その為には、辿り着かなければならない。

それは、彼女に残された力を考えれば、不可能に近かった。


しかしそれでも、彼女はそれを可能にする術を知っている。

紡月とは、生命力を変換して放つものなのだから、

意識と集中を保つことさえ出来れば、

命が尽きるその瞬間まで、使い続ける事が出来る。

白の紡月は精神に作用し操ることが出来る。

そして、今度こそ、生への執着は残っていない。


「もうす……ぐ……?」


戦場の半ばを過ぎるほどまで進んだところで、

止まるはずのない脚が止まった。

彼女は、自分の脚が止まってしまった理由が分からないまま、

足をもつれさせ、姿勢を崩し、そのまま戦地に倒れ伏した。


「……なんで」


動かない左脚を見た。矢が貫いていた。


「……どうして」


背が痛い。

左脚と同じように、突き抜けるような痛みだった。

一気に全身の力が抜けていくのを感じる。

この程度の傷ならば、動き続ける事が出来るはずだった。

でも、もう動かなかった。

左脚を貫く矢は、後方から前方へ向いていた。

背に刺さる矢は、もちろん背後から放たれたものだ。

理解が出来なかった。

したくもなかった。

自分を貫く矢が白の陣から放たれたなどと、

そんなことを、理解出来るはずがなかった。


「結局、何も……何か……

 無能だ、って……言われ続けて……

 それでも……一緒ならできる、って……

 誰かの、ために……何か……

 大すきな、ひと、と……いっしょ……に……」


力が抜けていく。

毒だろうか。鈍い痛みが増していく。

細かく震える彼女の唇から零れる言葉は、

繋がりを失い、

それでも今際の想いの全てだった。


「わたし……なんの……ために……」


鮮血が、涙が、伝い落ちる。戦場に染みていく。

命が、想いが、溢れ落ちる。彼女の在った場所に。


「レナー……ド……」


最期の一粒を落とし、戦姫は戦場で眠りについた。




陽の章 第十四項 ~対峙~




「やはり納得が行きませんか」


白の国との国境にほど近いシティン峡谷。

三千名にも及ぶ赤の軍が、国境を目指して進軍を続けている。

これから戦地に向かう、という行軍でありながら、

それを率いるティニアの表情は、覇気もなく曇っている。

大将であるティニアがこの様子では、

配下の兵達の士気にも影響が出てしまうと、

見兼ねた副将が、馬上のティニアに声を掛けたが、


「当たり前だ。

 赤の戦士としてこれほどの屈辱はない」


眉間に皺を寄せ、歯噛みしながら答えるティニアは、

己の不服を隠そうともしない。

無理からぬことであるが、

いかに王女といえど、戦場に於いてはあくまで一人の将であり、

彼女はそれを抑えて兵達を鼓舞すべき立場にある。


「ですがティニア様。

 アルムの名を騙る剣士が不在と知れた以上、

 すぐにでも白の国に侵攻するという判断は、

 決して間違いではありますまい。

 まぁ、事の進め方は儂も気に入らんのですが」


憤懣の声を聞いた老兵の一人が、

宥めるように、軽妙な語調で言葉を挟む。

此度の侵攻を立案したのは、

ティニアを中心とした派閥ではない。


先般のアルムへの敗北以後、

惨敗を喫したティニアへの風当たりが強まると同時に、

アルムの存在を脅威と憂慮する声も大きくなった。


ティニアですら勝てなかったのか。

ティニアだから勝てなかったのか。

病床に伏せる女王が健在ならば。

妹姫のクレミアならば。

兵の数を揃え真っ向から押し潰すのか。

策を弄し戦わずして勝つのか。


アルムへの対抗策は赤の国にとって急務であったが、

誰一人として、明確な答えを見出す者はいなかった。


「アルム一人に拘り過ぎなんだ。

 奴が現れる前から三国は戦いを続けてきた。

 それこそ、八尾のファナンが一線を退くまでは、

 あれこそが最大の脅威と呼び続けてきたんだろうに」 


そんな中で届けられた、アルム不在の報。

ならば、と、

かつて無いほどに拙速に立てられたのが今回の征戦の案であり、

そこにはティニアが異論を唱えるほどの暇も無かった。


「それでも、アルムさえ居なければと考える者は少なくありません。

 アルムと剣を交えよ、と言われて奮い立つ戦士の方が稀です」


「実際、兵達の士気は低くない。

 寧ろ奴に拘り過ぎているのはティニア様では?」


不満を漏らすティニアに対し、

両側からまた他の兵が言葉を投げかける。

ティニアの立場からすれば不満しか無い行軍だが、

従軍する者達にとって悪い話ではないのも確かだ。

ティニアの力量を知る者が、件の戦いの顛末を聞けば、

自分がアルムと対峙した場合の無残な結末は容易に想像がつく。

いかに鍛錬を積んだ赤の戦士といえど、

犬死にせよ、と命じられて喜ぶ者はいない。


「当然だ。

 赤の王族が、一度敗北した相手を生かしておくどころか、

 再戦を避けた臆病者などと言われでもしてみろ。

 決して雪げぬ恥辱と共に、歴史に名を刻むことになるんだぞ」


ティニアとて、そこに思い至らないほど独善的ではない。

自らに異を唱える兵達に対し、

大袈裟な抑揚をつけた声で、

わざとらしく身振りを加えてティニアは答えた。


「それは、確かに」


冗談交じりのティニアの口調に、周囲の兵達が苦笑する。

そうなっては困る。

これほど強い御方なのに。

『緋鳳』が皮肉の言葉になってしまうぞ。

我らが事実を証言せねば。

などと、あちこちから兵達の愉快げな声が弾む。


赤の兵達にとって、

ティニアは紛れもなく忠誠と信奉の対象であるが、

同時に、共に鍛錬を重ねた同胞であり、

幾つもの戦で己を率いた将、前線で背を預けた戦友でもある。

兵達が自分の前で軽口を叩けるほどに、

ティニアは一人の将兵としての立場で彼らと共に過ごしている。


「不在といっても、いつまでの話かも分からん。

 歴史を見ても、三国の国境線はまるで動かず、

 攻めて退いての繰り返しだ。

 此度の戦も、せいぜいセリジア砦を落とすのが関の山。

 そこから更に全戦力を投じたとしても、

 イグリオール王城に辿り着けはすまい」


ティニアが改めて言葉にするでもなく、

六色の聖戦を除き、赤も白も緑も、

他国の王都を脅かすに至ったことは無い。

そもそも、聖戦の後の時代に於いては、

大規模な侵攻というもの自体が稀なものだ。


戦端を開くほどの理由が互いにとって少なく、

一度戦いが始まっても、損耗が激しい戦を長くは続けられない。

そして、何よりも大きな理由が、


「今代は緑と白の女王が近しいですし、

 赤と白が膠着したと見れば、確実に間隙を突いてくるでしょうね」


聖戦に於いて青と黒の国が滅び、

リハデアに残るのが赤、白、緑の三国になったことだ。

互いに隣接する三国が睨み合う今のリハデアでは、

二国間の戦争は、そのまま残る一国にとっての利となる。

そして、今代に於いて、赤と白との戦が始まったならば、

緑が取る行動は、間違いなく赤への攻勢だ。


「そうだ。

 だから、セリジアを落としたら、適当に理由を付けて進軍を止める。

 レフィアが奪還の手筈を整えるだろうが、

 まぁ、自ら動きまではするまい」


永き歴史の中で、幾度も赤と白の版図を行き来してきたセリジア砦は、

両国が互いに手中に収める度に改築、改造を繰り返してきた結果、

どちらの国に向けても、強固な防壁を持つ。

先代の時世に白の国に押さえられたまま今に至るが、

此度の戦力、それを率いるのがティニアであれば、充分に攻略し得るだろう。

ただ、そこに多大な犠牲を伴うことは間違いない。

更に、その先に待つのは白の反攻だ。

幾ら白の国が、今代の女王の気性が厭戦であろうと、

侵攻を黙って許すほどではない。


「もし緑が動くようなら、ティニア様は緑との戦線に移動されますか?」


「そうなるだろうが……いや」


一度砦を手中に収めてしまえば、その後は防衛戦だ。

白の攻勢にレフィアが加わらなければ、自分が留まる必要はない。

何なら、クレミアを招聘でもすれば、指揮にも不足は無いだろう。

気の早い副将の問いに、ティニアは同意しかけるが、

僅かな逡巡の後、それを否定した。


「アルム。

 そもそも奴が出てきたら、セリジアを落とすも何もなかった」


ティニアの頭に、改めてあの不心得な漆黒の甲冑が浮かんだ。

改めて思い返しても、

戦士としての誇りを軽んじた振る舞いに腸が煮えくり返るとともに、

熾烈で洗練された太刀筋には冷たい汗が流れる。

そして何より、アルムが発現させた黒の紡月への驚嘆は今も薄れない。


「剣だけならまだしも、緋鳳を防ぐほどの黒の紡月だからな……」


黒の紡月は守りに特化している。

緋鳳を容易く防ぎ、配下の兵に火傷の一つも負わせなかった。

かつて黒の国は、極大の黒の紡月で王都を丸ごと覆い侵入者を拒んだという。

もしも、アルムがそれと同じことを為し得るなら、

砦一つを強固な黒の紡月で囲うことが出来るなら、

そもそも、戦闘というもの自体が始まらないことになってしまう。


「今のところ、

 紡月が途切れるまで持久戦をするくらいしか思い付きませんね」


「黒の紡月に関しては、情報があまりに少な過ぎる。

 聖戦の時代にも、黒は自国に引き籠もって殆ど戦わなかったらしいからな。

 もしも内から外には攻撃が通る、などという代物なら、

 それこそ一方的に矢で射るような戦い方もできるだろう」


自分で言いながら、その光景を想像したティニアは、

乾いた笑いを浮かべるのが精一杯だった。

こちらの攻撃も紡月も一切通らず、砦から一方的に降り注ぐ矢の雨。

同じ惨劇を想像した周囲の兵らも、

冗談半分に、悲鳴や嘆嗟の声をあげたりしている。


「もし奴が現れれば、俺は兵を退かせ、また一騎打ちを挑む。

 正直、勝算は無きに等しいが、腕の一本くらい……」


「死に急ぐのは感心しないねぇ」


手綱を握る手に力を込め、必死の覚悟を滲ませるティニアだったが、

その言葉を遮るように、峡谷に誰とも知れぬ声が響き渡った。


「何っ!?」


叫ぶような大声ではなく、まるで呟くような口調で放たれた声。

にも拘らず、それはティニアだけでなく、

帯同する兵達にも一様に聞こえたらしく、

周囲の兵士が一斉に辺りを警戒し視界を巡らせる。

届かぬはずの声を、遠く広くに運ぶ。

それを為すものは、白の紡月に他ならない。


「あそこだ!」


やがて、兵のうち数名が、

遥か頭上、峡谷の絶壁の一箇所を指差した。


「貴様、何者だっ!?」


そこにひっそりと佇んでいたのは、

全身を黒の外套で覆った出で立ちの、白い髪の男。

岩壁の中腹あたりで突き出した岩に腰掛け、

悠々と赤の軍勢を見下ろしている。

表情までは伺い知れない距離ではあるが、

自分の耳に届いた声色も相俟って、

ティニアはその男が不快な笑みを浮かべていると、

ただ姿を視界に捉えただけでそう感じた。


男は、ゆったりとした所作で身体を前に倒すと、

そのまま壁を蹴り、空中へとその身を投げ出した。


「来るぞ!」


真上に見上げるほどの高さ。

飛び降りて無傷でいられるものではないが、

卓越した白の紡月の使い手であれば、着地は難しいものではない。

自ら落下するという選択をした以上、

それは過たず着地できる算段があってのこと。

実際に、男の身が地上に向かう速度は異常に遅い。

まるで泡が風に吹かれず地に落ちるかのような様だ。


それならばと、赤の兵達は一斉に得物を構える。

行軍中であったため弓兵は弦を張っておらず、

空に浮かぶ恰好の的に対し、矢を放つことは出来ない。


「チルト・ホワイト」


黒の外套をゆったりと靡かせ、悠然と降下し続ける男の口から、

唐突に言葉が放たれる。

呟くような声量で放たれたその声は、

またしても、ティニアの耳元に、そして幾千の兵の耳元に、

纏わり付くように絡み付いた。


「何を……」


『うあああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!』


不快に極まる感触にティニアが眉を顰めたとほぼ同時、

周囲の兵達が、一斉に、狂ったような叫び声を上げ始める。


「なっ……!?」


ある者はその場に倒れ蹲り、

ある者は立ったままのたうち回り、

ある者は胃液を逆流させて撒き散らす。


ティニアは周囲をぐるりと見渡すが、

自分を除く全ての赤の兵が、一人として残さず、

気でも狂ったかのような様相を呈していた。


「いやぁ、申し訳ない。

 あんまり派手にやるのもどうかなと思って、

 手っ取り早い手段を取らせてもらいました」


ティニアの視界から外れていたのは、

ほんの僅かな間だったはずだが、

反射的に声の方へ振り返ったティニアの眼前、

表情の仔細が分かるほどの距離に、男が立っていた。


「貴様、何をした!?」


躊躇いなく双剣を抜き放ちながら、ティニアは男に問う。

兵達の異常は、間違いなくこの男が齎したものだ。

恐らくは肉体か精神に異常をきたす類の白の紡月だろう。

ただ、その範囲と強度が常識の範疇ではない。

幾ら戦闘行動中ではないとはいえ、数千の兵士を狂わせるなど、

白の女王レフィアとて成し得ないはずのもの。


「他の皆さんは、平衡感覚を狂わせてもらいました」


ティニアの問いに対し、事も無げに男は答える。

その口調には、口元に浮かぶ薄ら笑いには、

まるで敵意や殺意といったものは感じない。

感じられるのは、ただただ不快な、他者を見下すような含意ばかりだ。


「平衡感覚……?」


「そう。

 真っすぐ立ってるはずなのに、

 高速で前後上下左右に身体が回ってるみたいな感覚ですね。

 暫くは動けないだろうし、

 流石に可哀想なんで、もう止めますけど」


男が言い終えるのも待たず、

周囲から絶えず上がっていた阿鼻叫喚の声がぴたりと止んだ。

それでも、狂った感覚の余韻に苦しむ呻き声は、

そこかしこから断続的に上がっている。


「貴様は何者だ。目的は何だ」


これだけ広範囲、大人数を瞬間的に無力化しておきながら、

自分だけは何の異常も無い。

それは、術者であるこの男に、自分と対話する意思があるからだろう。

ティニアはそう結論付け、男への問いを続ける。

周囲の兵達は気掛かりではあるが、

目の前にいる敵に背を向けて良い状況ではない。


「俺はフェナス。

 ティニア様がご執心の、アルムちゃんのお友達ですよ」


「アルムの……」


全身を黒で覆い隠した出で立ちを見れば、否が応でも察しがつく。

ただ、この男はアルムと違って首から上を隠しておらず、

純白の髪と白銀の瞳は、間違いなく白のものだ。

白の国に、女王レフィアを上回る紡月の使い手がいるとは、

少なくともティニアは聞いたことが無い。


「知っての通り、アルムちゃんは今お出かけ中でしてね。

 残念ですが、これ以上先に進ませるわけにはいかないんですよ。

 いやぁでもまさか、まさかねぇ?

 赤の王女ともあろう御方が、

 幾ら相手が強くて手も足も出なかったからって、

 不在を狙って攻め入ろうなどと、

 そんな卑怯な考えをお持ちだったとは……」


「……」


卑怯。

フェナスと名乗った男は、心底不快極まる間延びした口調で、

赤の国の者に対する最も強い侮蔑の言葉を吐きかけた。

ただ、改めて言葉にされてしまえば、否定できる材料はない。

何より自身が納得していない行軍だ。

ティニアは素性の知れぬ男の言葉に対し、

ただ黙って双剣の柄を握る手に力を込めた。


「おっと失礼、目的も問われてましたか。

 とっとと退いて下さい、ってのが俺の要求です。

 俺がいる限り、ここから先には進めないって分かったでしょう。

 周りの皆さんも、暫くは戦意を取り戻せないでしょうし」


「……退かないと言ったら?」


フェナスの言葉の通り、自軍は既に壊滅状態だ。

回復した後に、そのまま前進したとしても、

また同じ攻撃を食らうかも知れないと考えてしまえば、

憂いと恐れで歩みは止まってしまうだろう。


だが、国境に向けて軍を進ませているとはいえ、

ここはまだ赤の国の領内。

そもそも、問答無用で攻撃を仕掛けてきたフェナスが、

「退け」と要求すること自体が誤っている。


変わらず嘲笑うような口調のままフェナスが語る言葉に、

ティニアは臨戦態勢を維持したまま返すが、


「別に俺は誰かに命令されたわけでもないんで、

 どうしてもって言うなら通しても良いんですがね。

 その場合は……

 そうだな、俺はクレミア様とでも遊んでこようかな」


「っ!」


フェナスが次に放った言葉には、

ティニアは驚愕と焦燥を隠せなかった。

反射的に、両の手の得物をフェナスに向けて振るおうとしたが、

それを押し留めたのは、理性的な判断ではなく、本能的な躊躇だ。


「おっと、そう怖い顔をなさらずに。

 俺は別に、ティニア様にもクレミア様にも、

 危害は加えるつもりはありませんよ。

 血腥い戦いってのは好きじゃなくてね。

 やるなら、アルムちゃんと正面からやり合って下さいな」


嘲笑うように、揶揄うように、フェナスは続ける。

危害を加えないというのは、

きっと、ティニアとクレミアの二人だけに限った話だろう。

現に、周りにいる者達に対しては害が及んでいる。

今と同じ事がクレミアの隊で起きたならば、

クレミアが抱く心痛と自責はティニアの比ではあるまい。

そこまで思い至ったところで、

ティニアは剣の柄を握る手の力を静かに緩めた。


「改めて問う。

 貴様とアルムは、一体何者だ。

 何が目的でイグリオールに与している」


フェナスは白い髪を持ち、白の紡月を発現した。

だが、アルムを友と呼んだこの男が、

ただ白の国と王に傅く者であるとは思えない。

今の口ぶりからしても、

ティニアがアルムと戦う事については、

この男は全く止めるつもりが無いらしい。


「流石にそれは、俺の口からは答えられないなぁ。

 何のためにっていう話なら、

 俺に関しては、ただ俺の楽しみにために。

 これからようやく楽しくなってくるところなんでね。

 無駄な戦いで、俺の楽しみを減らされちゃ困る。

 だから、本当に意地でも退かないって言うんなら、

 俺は俺で、それなりに美味しい思いをさせてもらって、

 埋め合わせをさせてもらいますよ、って話です」


その美味しい思いとやらの対象がクレミアになる、

という警告なのだろう。

わざとらしく下卑た笑みを浮かべるフェナスを見れば、

クレミアの身に降りかかる災難が、

今の惨状を上回るものになることは察しがつく。


「で、どうします?」


鼻で笑いながら、フェナスが問う。

答えなど決まっているだろうと、

自分の求めている回答以外を許さないと、

そう言わんとするように、

軽薄でありながら、重い圧を感じさせる声だ。


「……退かざるを得ないだろう」


敗北感というよりは、酷い虚脱感だった。

アルムへの敗北は、己が剣と術の全てを、

粉々に打ち砕かれた末のもの。

謂わば、ティニア個人としての敗北だ。

此度の敗北は、それとは真逆。

ティニア自身は一太刀も振るうことなく、

周りの者達だけが悉く継戦不能に追いやられ、

何の力も発揮できないまま、撤退を余儀なくされる。


「懸命なご判断で。

 周りの皆さんは一刻もすれば、

 しっかり立って歩けるようになりますよ」


一個人を以てしても、軍を以てしても、

まるで児戯のごとくあしらわれ、敗北した。

その事実は、ティニアに、赤の国に、

どのような決断を強いることになるのか。

少なくとも、今のティニアには想像が及ばない。


「んじゃ、俺はこれで。

 暫くはこの辺を物見遊山でもしてるんで。

 変な気は起こさないようにお願いしますよ」


言うが早いか、フェナスは黒い外套を翻し、

ティニアと赤の軍に背を向けて歩き去っていく。

白の紡月で身体を滞空させているのか、

足の動きと移動距離がまるで噛み合っておらず、

どこか現実味が乏しくすら感じられる歩みだった。


「さぁて、と。

 アルムちゃんは一度戻ったってことだろうし、俺も一度戻ろうかな。

 折角だから、何かサプライズでも用意してあげようか」


最後にそんな独り言を残し、

フェナスは颯爽とティニアの視界から消えていった。




戦場にもなり得なかった峡谷に残るのは、

ようやく正気に立ち返り始めた兵達の呻き声と、

ティニアが歯を軋ませる音だけだった。

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