陽の章 第十五項 ~氷華~


フィアーナの死を目の当たりにした白の兵達は、

その悉くが己の命を厭わず赤の軍に突撃し、玉砕した。


フィアーナ=イグリオールの死から二日。

彼女の死は、赤の軍との戦闘によるものとして処理された。


玉砕を命じたのも、決を採ったのも、

彼女との確執が絶えなかった者達であり、

彼女を背後から射たのも、きっと彼等の手の者だったのだろう。

これより先、彼女の死は、赤との戦いに於ける殉死と歴史に刻まれる。

それを、彼女の最期を目の当たりにした僅かな者以外は、

当たり前のように受け入れ、後世に伝えていくのだろう。


彼女は、紡月力に秀でているわけではなかった。

それは戦を求める者達には才無きと蔑まれるものだった。

彼女は、戦いを望む気質を持ち合わせてはいなかった。

それは戦を求める者達には無責任と罵られるものだった。

彼女は、民の平穏と豊かさにこそ苦心したかった。

それは戦を求める者達には益体無しと疎まれるものだった。


戦いを求める者達は、

ただ戦に向かうことを王族の義務として強いた。

争いを強く厭いながら、

年端も行かぬ頃から戦場に駆り出され、

それでも頑なに平穏を望み続けた。


学窓で出会った少女の聡明さを見抜くや、

忽ち王城に招き入れてしまうほど、直感的な王だった。

少女が自分よりも秀でていると推す兄を、

渋々と己の補佐の一人に据えるほど、情に弱い王だった。


その出会いが、二人と過ごした時間が、

彼女の人生にとって最大の幸福であったことは間違いない。


彼女の人生を語るにはまだまだ多くの言葉が必要だが、

その長さは、二十五の年を数える事も無いほどのものだった。


『戦姫』フィアーナ=イグリオール。

彼女の死の真実を語るこの書が世に出る事は、私の命の続く間には無い。

我が蔵書のただの一冊として並べられるこの書を、

私の亡き後、偶然にも手に取る者がいたならば、どうか知って欲しい。

かつて戦姫と呼ばれた女王は、自ら望んで戦いに出た訳ではない。

白の民の誇りを持たぬ者達が、彼女に戦いを強いただけなのだと。

そして、彼女が真に願っていたものをこの世界に齎す事が出来るのは、

後世に残された君達であるという事を。

                        レイル=ガーニス




陽の章 第十五項 ~氷華~




その報せがフィアシスとレフィアの耳に入ったのは、

ニニルがファナンに連れられて帰郷し、

そしてフェナスが行方を眩ましたあの日から、

四日後のことだった。


「それで、獣は今はどこに?」


自ら早馬に跨り手綱を取りながら、

レフィアは並走する駐留騎士の一人に問う。


白と緑の国境にほど近いジオ高原。

そこに突如として巨大な獣が現れ、人も獣も見境なく襲い始めた。

あまりの巨大さと凶暴さゆえ、

周辺の村落の自警団程度では到底対処できず、

国境の砦から騎士の一団が派兵されたが、

獣には深手を負わせたものの討伐には至らず、

取り逃がしてしまったのだという。


「近くの山林に逃げ込みました。

 現在、獣の捜索と、

 近隣の村への避難指示を並行しております」


その後、王都に向けて応援が要請され、

直ちに討伐隊が編成された。

騎士団側に多数の死傷者も出ている現状から、

レフィアは自ら事に当たることを選び、

直属の近衛兵を引き連れて王都を発った。


「それにしても、どうして急にそんな大きな獣が……」


レフィアの左隣から、

同じく自ら馬を駆るフィアシスが疑問の声を漏らす。


レフィアの出征に際し、

その場に居合わせたフィアシスが自ら随行を申し出たことには、

皆が驚きを隠せなかった。


初めはフィアシスに留守を命じようとしたレフィアだったが、

クレミアの件、そしてニニルとフェナスの件を経て、

何もせず傍観する立場でいることが耐えられない、

というフィアシスの意を汲み、最終的には帯同を許可し、

フィアシス=イグリオール親衛隊を討伐隊に加えたのだった。


「分かりかねます。

 そもそも白の国で出現例のある種ではありません。

 緑の国の、それも奥地に住むようなもののはず……」


立ち上がった際の身の丈は、大人の男の五人分にも及んだ。

獣と直接対峙した騎士達は一様にそう証言する。

フィアシスにとっては、それこそ創作物の中でしか知らない巨大さだ。

直接目にしたことがあるもので言えば、

緑の民が移動手段として用いる飛翔獣が翼を開くと、

二、三人が並んで両手を広げたくらいの大きさだっただろうか。


「矢が弾かれるほどの硬い毛皮に、鋭い牙と爪。

 動きも俊敏で、勘も鋭い……

 梃子摺りそうな相手です。

 ファナン様の助力を待つことになるかも知れません」


そう語るレフィアの表情は、

フィアシスから見る限り、落ち着き払っているようにしか見えない。

自ら同行を申し出ておきながら、

既に喉を引き攣らせている自分とは大違いだと、

改めてフィアシスは苦悩する。


出征にあわせて、レフィアはファナンへの書を認めた。

自国に帰還したばかりの緑の王を、

息吐く間もなく白の国に呼び戻す形になってしまうが、

それでも必要と判断したからこそ、

レフィアは躊躇わず筆を執ったのだろう。


「間もなく林道の入り口に到着します!」


先頭を行く騎士が、後ろを振り返りながら呼び掛ける。

いよいよ、とフィアシスは手綱を握る手に力を込めるが、


ドンッ


と、不意に短く響いた爆発音に、思わず肩が竦んだ。


「……発見の報です、近い!」


空を見上げ、先頭の騎士が叫ぶ。

その視線をフィアシスが辿ると、地から空に向けて、

赤色の光弾が上がっていくのが確認できた。

どうやら、打ち上げ型の狼煙を放った音だったようだ。


「馬はここで降りましょう。

 フィアシス、戦えますね?」


「は、はい!」


言うが早いか、レフィアと騎士達が颯爽と馬から降りる。

フィアシスもそれに続き、馬を確りと停止させてから、

足元に微かに風の紡月を展開し、ふわりと着地した。


「貴方達は馬を。

 ここから視える範囲で待機して下さい」


「畏まりました」


レフィアの指示を受け、兵の数名が馬を引いて離れる。

先導に忠実に従う馬達は、

先程の狼煙の音にも、矢庭に殺気立った空気にもまるで動じなかった。

日頃から良く訓練されているのだろうと、フィアシスは一人感心する。


「……ゥゥゥウウウアアアアアッ!」


「っ!」


山林から、巨大な咆哮が木霊する。

低く重く厚い音は、まるで衝撃波のようにフィアシスの身を震わせた。

めきめきと木々が薙ぎ倒される音と、地響きが続けざまに轟く。

身体の内から湧き出してくる恐怖を必死に抑え込み、

フィアシスは胸の前で拳を強く握った。


「こちらに近付いています!」


「森から追い出そうとしている! お二人は後ろに!」


各々声を上げながら、

騎士達がレフィアとフィアシスを守る陣形を組む。

戦闘が、もう目前に迫っている。

フィアシスにとっては目眩すら覚えるほどに緊迫した空気。

立て続けに響く轟音は、今から対峙する相手の巨大さを、

これでもかと感じさせる。

訓練を受けた騎士の一団が、死者を出しながら、取り逃した。

初めに報告を受けたはずのその事実が、

今になってフィアシスの心に重く伸し掛かる。

ここは自分がいて良い場所なのか。

ここで自分が何の役に立つのか。

フィアーナ戦記を読んだだけで、

自分も出来ると思い込んでいただけではないのか。

フェナスに向けて一度紡月を放っただけで、

自分も戦えると思い上がっていただけではないのか。

緊張と恐怖と後悔が綯い交ぜになって込み上げる中、


「フィアシス」


震える肩に、レフィアの手が沿えられた。


「顔を上げて、目を逸らさず見なさい。

 傷付いた者がいれば、貴女がすぐに癒やしなさい。

 致命傷さえ避ければ、必ず生き永らえる。

 白の王族とは、王族の紡月とは、

 前線に立つ者達にとって、絶大なる支えなのです」


まるで教卓に立って話すように、

一つ一つの言葉を丁寧に、言い聞かせるように、レフィアが紡ぐ。

ほんの数秒後には、目の前に死線が展開される。

それでも、レフィアの言葉の優しさは、レフィアの手の温かさは、

フィアシスの恐れを取り払ってしまうほどに穏やかだった。


フィアシスは大きく息を吸い、視線を上げ、前を強く見据えた。

それを見たレフィアが浮かべた表情まで知る余裕は、まだフィアシスには無い。


「来ます!」


一際大きな轟音を響かせ、森の一角が弾け飛ぶ。

続けて、巨大な土色の塊が、宙を舞って森から躍り出る。


「グウウウアアアアアッ!」


それが四本脚の獣の形をしているということを、

フィアシスは暫く把握できなかった。

先程響いたものと同じ雄叫びが放たれるまで、

建物が丸ごと一棟吹き飛んできたのかと錯覚するほど、

生き物であると認識し難いほど、それほどの巨躯だった。


フィアシスの知る中で例えるならば、

熊を少し細くしたような全身の造形だった。

見るからに硬そうな太く鋭い毛で覆われた、土色の体躯。

四肢は石柱のような太さで、先端の爪ですら大剣の如き大きさだ。

これまでの戦いで負った傷であろう、

全身の至る所から血が滴り落ちている。

口の端や牙を伝う鮮血は、自らの吐血か、

あるいは噛み付いた相手のものなのか。


たった今飛び出してきた方向、

交戦中だった騎士団のみを睨んでいた獣だったが、

こちらの隊の存在に気付くと、

低い唸り声をあげながら、双方を警戒するように姿勢を変えた。


「レフィア様!?」


「女王自ら来ていただけるとは! これで千人力だ!」


獣に続いて、森から騎士が続々と駆け出してくる。

レフィアの姿を認めると、

騎士達は一様に歓喜と安堵の声を上げた。

たった今しがた獣を発見したばかりだというのに、

既に負傷者が出ているようで、

他の者の肩を借りて歩く騎士の姿も見受けられる。


「私は前に出ます!

 負傷者はフィアシスと共に後ろへ!」


獣と騎士達の姿を見るや、

レフィアは風の紡月で、その場にいる全員へ声を運ぶ。

戦闘の指揮を執るレフィアの声を聴くのは、

フィアシスにとっては初めてのことだ。

大きく強く硬い、いつものレフィアとはまるで真逆の声。


「なんと、フィアシス様まで!?」


各々驚嘆の声を上げつつもレフィアの指示に従い、

数名の負傷者と介添の者が隊を離れ、こちらへ駆けてくる。

レフィアはゆっくりとした歩みで前進し、

騎士達は陣形を崩すこと無く、獣ににじり寄っていく。


「フィアシス様!」


「おぉ、本当にフィアシス様だ!

 前衛に女王、後衛に王女とは、これほど心強いことはない!」


フィアシスの許に辿り着いた騎士達は、

思い思いに声を上げ、感嘆の表情を浮かべる。

軍属の者にとって、フィアシスはレフィア以上に遠い存在だ。

せいぜい遠目に見る程度の機会しか無かったことだろう。

女王レフィアをも上回る紡月力を持つ、佳麗なる王女。次代の王。

彼等にとって、フィアシスは崇敬の対象であり、希望そのものだ。


「重症の者から治療をお願いします。

 幸い、致命傷の者はおりません」


「はい、あっ、いえ」


騎士の一人がフィアシスに嘆願する。

その言葉は論を俟たないものであり、

フィアシスは一度素直に頷きかけたが、すぐに頭を振った。


集った負傷者を改めて確認する。

皆一様に鎧は土泥に汚れており、流血している者もいるが、

確かに致命傷と思しき者はおらず、腕または脚の骨折が最も重症だろう。

これならば、とフィアシスは息を大きく息を吸い、


「全員同時に治療します」


自分に出せる限りの頼もしさを込めた声で、断言した。


おぉ、と騎士達から感嘆の声が漏れる。

戦場に於いて、他国の兵が最も恐れるものこそ、

白の王族の治癒の紡月だ。

戦場を丸ごと包み込む超広範囲の治癒の紡月は、

白の軍を半ば不死身の軍勢へと変貌させる。

剣で斬ろうが、槌で砕こうが、矢で貫こうが、

致命傷でさえ無ければ、傷を負わせたそばから回復し始める。

白銀の甲冑に身を包んだ白の兵に対し、

一撃で致命や身体の欠損に至る傷を負わせるのは難しい。


フィアシスは、類稀なる紡月力を持つ、才に溢れた王女。

今まさにその外聞を事実として目の当たりに出来ると、

騎士達は歓心と期待を露わにするが、


「ヒール・オール!」


フィアシスが両腕を広げ、速やかに紡月を展開した瞬間、

周囲の騎士達の表情に滲んだのは、驚き、或いは呆気だった。


深く精神を集中し、意識を己の内に向け、

肉体に宿る紡月力を引き出し、その光を外に放ち、描く。

紡月とは、そういった手順で発現するものだと、

彼等はそう知り、理解し、実践している。

だから、幾ら狭い範囲に集っているとはいえ、

複数名の人間を同時に癒すような紡月を、

意識を集中させる素振りすらもなく放つというのは、

そもそも発現に至らないか、

たとえ発現したとしても充分な効果が得られないか、

どちらかだろうと考えるのが、彼等にとっては自然だった。


「なっ……」


だが、その認識は忽ちに改められた。

フィアシスが放った純白の紡月の光は、

ここに集った者を全て包み込むように広がると、

見る間に輝きを増していき、

それが一際大きな瞬きを見せた直後、

光の円の内は、温かな風に包み込まれた。


「おっ、おおっ……!」


「痛みが……いや、骨がもう……?」


風は疾く勢いを増し、

髪や衣服がばさばさとはためくほどの強さで、

それでも決して慈愛を失わず、騎士達を掻き撫でる。

目に消える傷は驚嘆を示す前に跡も残さず消え、

四肢の骨折ですら、驚きの声を上げている間には、

痛みの名残も感じさせずに癒やしてしまった。

白の王族の紡月を目の当たりにしたことの無い者達は、

あまりの快癒の速さに戸惑いを隠せない。


「どうでしょう、まだどこか痛む方は?」


その驚嘆を解していないフィアシスは、

癒やしの紡月を展開したまま、視線を巡らせて問う。

騎士達からすれば、紡月を途切れさせず対話をすることすら、

極めて困難なものだというのに、

フィアシスが放つ紡月には一片の揺らぎも感じられない。


「大丈夫です!」


「自分も、骨まで全快しております!」


問いに、次々と歓喜の声が応える。

彼等から見れば文字通り桁外れの力量と才覚を、

フィアシスはまざまざと披露してみせた。

その身命を賭してフィアシスを守り支えることを躊躇う者は、

ここにはもう一人としていないだろう。


全員の快癒を確認したフィアシスが、

紡月の光を収めたその時、


「ガアァッ!」


ずしん、という重たい音と合わせて、獣の悲鳴が響いた。

反射的にフィアシスは視線をレフィア達の方へと移すと、

先程よりも少し離れた位置で、獣が地にへばり付くように伏していた。


「ガ……ァァッ……!」


何かに上から押さえ付けられているように、獣が呻き藻掻く。

獣の身体の上には紡月の光が展開されており、

そこから獣に目掛けて、強烈な風が吹き下ろしている。

恐らく、フィアシスがフェナスに向けて放ったものと同系の紡月を、

上から下へ、地に押し付ける形で放っているのだろう。

ただ、いかにレフィアの紡月とはいえ、

あれだけの大きさの体躯、隆々たる筋量から生まれる膂力を、

完全に組み伏せるのは難しい。

レフィアの率いる騎士達が得物を手に獣との距離を詰めるが、


「グウウウアアアアアッ!」


「っ!」


獣が、地を滑った。

立ち上がることを諦めた獣は、四肢を巧みに使い、

地に押さえ付けられたまま這って前進し、

全身で土を抉りながら、騎士達に向けて突撃する。

体躯の大きさに比すれば決して速い速度ではない。

それでも、巨大な肉の塊に轢き潰されれば致命は免れない。

獣の眼前に立っていた騎士達は、突進を回避しつつ、

すれ違いざまに浅い一撃を見舞うのが精一杯だった。


「女王っ!」


傍らの近衛のうち二名が、レフィアを抱えて退避する。

獣の直進する方向は、

レフィアの立つ位置からは些かずれていたものの、

間もなく紡月の範囲から逃れ自在に動き始める獣の爪牙が、

万が一にもレフィアに届かぬようにするのは、

彼女達の判断として間違っていない。


「っ!」


猛進を続けた獣が、抑圧の紡月から解放された。

退避したレフィア達を通り過ぎ、

騎士達の包囲から抜け出した先は、

レフィアからもフィアシスからも同程度の距離。

充血し切った獣の視界に真っ先に入るのは、

背後のレフィア達ではなく、フィアシス達だ。


「ガァッ!」


獣が跳躍する。

巨大な体躯でありながら、まるで痩身の猟獣のごとく、

身の丈を上回るほどの高さまで飛び上がった。


「フィアシス様!」


フィアシスの下に集う騎士達が、瞬時に動く。

ある者はレフィアの近衛と同様にフィアシスを抱え、

ある者はフィアシスを護るべく得物を手に獣に向かう。


「っ、ガスト……!」


それでは駄目だ。

あの巨躯の着地は、そのまま圧殺の一撃になり得る。

全員が完全に回避するか、着地点をずらさなくては、

必ず致命傷を負う者が出てしまう。


フィアシスを庇うように動いた騎士は誤っていない。

それが間違いだと責めるつもりは、フィアシスにはない。

だが、獣の跳躍の軌道を反らし得る手段である、

フィアシスの紡月の初動を遅らせてしまったことは、

結果的に、惨劇を招くことになる。

せめて僅かでも延命の可能性を、と、

フィアシスが有らん限りの専心で紡月を繰り、

獣へ向けて手を伸ばした刹那、


「ゲゥッ!?」


バァンッ、と強く叩きつけるような音と、短い呻き声を上げ、

着地の寸前、騎士達の僅か手前の空中で、獣が静止した。


「なっ……」


「あれは……!?」


皆が一様に動きを止め、見入る。

戸惑いの声が、驚嘆の声が、まばらに漏れる。


落下する獣を空に留めたもの。

それは一枚の壁だった。

獣の巨体を丸ごと載せられるだけの大きさ。

極めて直線的で正確な黒の矩形。

壁と呼ぶには酷く薄く、半ば向こう側が透けて見えている。

例えるならば薄紙一枚程度の厚さしかないそれが、

獣の突撃を完全に阻み、今もその躰を地から浮かせていた。


「黒の……紡月」


フィアシスの口から、自然と言葉が漏れた。

自身で目にするのは初めてだが、見ればすぐに理解できる。

そして、それが意味することを、結びつく相手を、想起する。

ただそれだけで、

今この瞬間まで緊張と恐怖で埋め尽くされていた心が、

あっという間に安堵で満たされていく。

僅か数日離れただけで寂寥に沈んでいた心が、

瞬く間に歓喜に舞い上がっていく。

求める相手の姿を探さんと、フィアシスが首を回らせたその時、


「月絃」


短い呟きが、フィアシスの耳に触れた。

冷たい。

知らないその声に、フィアシスは真っ先にそう感じた。


続けざまに、一つの人影が、フィアシスの視界を通り過ぎた。

尋常ならざる速さで、風鳴りを伴ってそれが通り抜けた瞬間、

フィアシスが感じたものは、

身を凍えさせるような、息を吸えば肺が凍りそうな冷気。

そして、蒼海の如く澄み切った青。

影の行方を目で追ったフィアシスが視界に捉えたのは、

生涯で一度も見た事が無い、美しく澄んだ青だった。


青い人影が獣に向かい、跳ねる。


獣が貼り付いていた黒い壁が消失するのと、

青い人影が、左手に握る刃を獣の身体に向けて突き出したのは、

正しく同時だった。


「ギャアアアアアアアアアアッ!」


刃が獣の胸に突き刺さり、深々と沈み込む。

人と獣の体躯の比は、量るまでもなく圧倒的な筈だ。

だが、青い人影が繰り出した突きを受けた獣は、

腹を下にして覆い被さるような格好だったにも拘らず、

大きく姿勢を崩し、そのまま後方に倒れると、

大量の砂塵を撒き散らしながら、背を地に滑らせた。


「……」


大地を削り取らんばかりの滑走が終わると、

獣の躰の上に立つ青い人影が、獣の胸から剣を抜き去る。

砂煙が晴れて、フィアシスはようやく、その姿をはっきりと視認できた。


「青い、髪……」


近くの誰かから、声が漏れる。


先程視界を過ぎった美しい青は、髪だった。

ともすれば向こうの景色が透けて見えてしまいそうな、

それほどに澄んだ青色をした、腰まで伸びた髪。

それは、完全に疑いようも無く、青の国ツキカゲの象徴だった。

次に目を引いたのは、身に纏う衣服。

足元までを隠す衣を腰帯で留めた出で立ち。

これもやはり、書に残るツキカゲの民が纏う衣装である。

性別は、体型からして女性であろう。

顔の仔細まで分かる距離ではないにも拘らず、

それでも、美しいとフィアシスが確信するほどの美貌だ。


誰もがその姿容に呆然とする中、

女性は獣の胸から飛び降りると、左手に持った、

ツキカゲのものならば刀と呼称すべきだろう、

刀を一度強く振り、付着した獣の血を振り飛ばす。

いかなる技術か、或いは紡月なのか、

たったそれだけで血糊は一筋も残さず吹き飛び、

女性の握る得物の姿が露わになった。

刀身は、彼女の髪よりもなお深く透き通った青。

薄氷の如き鋭利な刃は、宝玉の如き煌めきを放っている。

青錫でないことは一目に明らかだが、

それがどのような素材であるか、フィアシスには見当もつかない。

思えば、アルムが振るう黒い長剣もまた、

黒鉄ではない何かで作られているようだった、

などと思い返していたところで、


「ガ……グゥ……」


あれほど苛烈な一撃を急所に受けてなお、絶命には至らなかったらしい。

仰向けに倒れていた獣が呻き、身動いだ。

だが、それに気付いていないのか、青髪の女性は獣に背を向けたまま、

有ろう事か、左手の刀を静かに鞘に収めようとしている。


「あ、危な……!」


「心配ない」


女性に危険を伝えようとフィアシスが声を上げるが、

今度は聞き慣れた声が、背後からそれを遮った。


「アルム様!」


半ば条件反射的に、フィアシスは声の方へと振り返る。

そこに居たのは、やはり見慣れた漆黒の鎧を纏う剣士。


「でも……!」


求めていた相手の姿を認めたことで、心は容易く舞い上がるが、

それでも今は、目の前の危険に対処しなければならないと、

フィアシスは己を強く律し、食い下がる。

心配ないという言葉が、

アルムがもう一度黒の紡月で食い止めるという意味なら良い。

だが、アルムの様子はまるで傍観者のそれであり、

紡月を放とうとする気配はまるでない。


「もう終わっている」


「えっ……?」


短く告げると、

アルムはフィアシスに向けていた視線を、女性と獣の方へ移す。

促されるようにフィアシスは振り返るが、

獣は今にも起き上がりそうな様子で、

もう一呼吸の後には、体勢を立て直し、

自分に背を向ける女性に襲いかかるかも知れない。

やはり、黙って見ているわけにはいかない。

フィアシスが再び声を上げようとしたところで、


「凍菊」


水の流れるような淀みない所作で刀を鞘に納めながら、

女性が小さく何かを呟いた。

それを合図に、


「っ!?」


短く鈍い音を響かせ、獣の身体が爆ぜた。


何が起きたのか、

フィアシスが理解するには、いくらかの時間が必要だった。

まず分かったのは、夥しい数の何か尖ったものが、

獣の肉体を内側から食い破るように、一斉に突き出したこと。

肉を引き裂き、血飛沫を撒き散らし現れたのが、

氷の柱だと理解したのは、身を震わす寒さを感じてからだった。

人の腕ほどの太さの氷柱が、獣の胸を中心に、

まるで細い花弁を咲かす華のように開き、

辺りに、強烈な血の匂いと、背筋が凍らんばかりの冷気を放っている。


一つの命を奪って生み出されたそれは、

卒倒しそうなほどに猟奇的な光景である筈だ。

だが、あまりに現実離れした血と氷の彫刻を、

フィアシスはただ美しいと感じ、言葉を失い見惚れていた。


「ぁ……」


氷の華が開いてから暫く、

甲高い音を立てて氷柱に罅が入ったかと思った次の瞬間には、

全ての花弁が粉々に砕け散った。

細氷は風に乗って舞い、陽光を反射して風を輝かせる。

目の前に広がる幻想的な情景にフィアシスは息を呑んだが、

何度か瞬きをする頃には、氷の粒は白の国の温かな風に溶けて消え、

最後に残ったのは、ただ惨たらしく引き裂かれた獣の遺骸だけだった。


「怪我は、無いようだな」


自らの生み出した夢幻には一度として目もくれず、

澱みなく静かに歩むだけだった青髪の女性は、

フィアシスの眼前で立ち止まると、薄い唇を開いた。

冷凛とした面立ちに違わぬ、透き通った声だった。

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