陽の章 第十三項 ~帰郷~


「何なのよ……」


薄暗く照明が落とされた王城の一室。

フィアーナは噛み締めた下唇の隙間から、細く言葉を漏らす。


「復讐してもリリィは喜ばないんじゃなかったの……」


フィアーナの前に横たわるのは、純白の装束を纏う、

レナード=イグリオール。

彼は力無く瞼を閉じたまま、ただ静かにそこに在った。


「私を……失いたくないんじゃ、なかったの……」


血色の失せた肌。

吐息を吐くことの無い唇。

二度と鼓動を刻むことの無い胸。

それが、目の前に在る夫の姿だった。


「どうして……どうして一人で行くの……

 どうして私に何も言わないの……」


あの日、唐突に消息を経ったレナードは、

数日の不在の時間を経て、再びこの王城へ戻ってきた。


フィアーナの戦線への復帰が未だ叶わず、

後退しながらの防戦を強いられる白の軍。

その中に於いて、たった一人、

レナード=イグリオールが、戦場を駆けた。

目撃者の談によれば、

数千の赤の軍が向かいくる中、

たった一振りの長剣を携えたレナードが、

赤の兵の間を縫うように苛烈な勢いで進み、

彼が駆け抜けた軌跡には、

過たず一撃で絶命させられた赤の兵の亡骸が並んだという。

そして、そのまま赤の第ニ王女の下にまで辿り着き、

一騎打ちを仕掛け、相討ったのだという。


信じ難い話であった。

騎士という職にはあるが、彼が腕を振るうのは机上だった。

戦地で刃を振るったことなど、

フィアーナとの婚姻の前にすら、一度として無かったはずなのだ。


確かに、在りし日のリリィは兄の剣術の腕について、

「振るった数だけの命を奪う」と称した。

ただ、それは兄を強く崇敬する彼女が大袈裟に語ったものだと、

誰もがそう一笑に付していた。


彼と最も近しい友であり忠臣でもあった男は、

妹の死の真相を知ったレナードが怒りで気が触れかけていたことを、

そして、妻の死を恐れて気が狂いかけていたことを、

フィアーナに明かした。


今ならば、それを疑う者は誰一人としているまい。


「私だって貴方を必要としているのに……

 私だって貴方を失いたくないのに……

 私だって……貴方を、愛しているのにっ……!」


かつてそこに在った、心の拠り所を、温もりを失った。

レナードの胸に顔を埋め咽ぶフィアーナの慟哭は、

もう誰の耳にも届かない。


「どうして私を置いていくの……

 一人にしないでよ……傍に居てよ……レナード……」


止め処なく涙を流すフィアーナは、覚悟を宿す。

もう、失いたくないものは全て失った。

次こそが、戦姫の最後の戦場になるだろう、と。




陽の章 第十三項 ~帰郷~




ニニルがフェナスの紡月によって眠りにつき、

丸一日が過ぎようとしていた。


フェナスの存在について報告を受けたレフィアは、

ニニルが寝室に運ばれて間もなく駆けつけ、フェナスと対面した。

レフィアは多分に訝しげな表情を見せたものの、

改めて事の次第をフィアシスと護衛達から聴くと、

フェナスの王城への滞在を許可した。

ただ、そもそもの事の発端がフェナスの挑発的な言動であると断じ、

滞在の条件として、

フィアシスおよびニニルに対する、会話を含む直接的な接触、

および王城内での紡月の行使をフェナスに禁じた。

フェナスがそれを許諾し今に至る。


「いやぁ、ニニル様は良くお眠りで。

 もう成長期も終わって、俺の紡月の効果も切れてるのに、

 まだぐっすり眠ってますねぇ」


会話でなければ問題ない、とでも言いたいのだろうか。

ニニルが寝かされている客室に居座るフェナスは、

ベッドから一番離れた、部屋の入口側の椅子に悠然と腰掛けて呟く。

相変わらず漆黒の外套で全身を覆ってはいるものの、

一度晒された素顔を隠す理由はないのか、首から上は隠していない。


確かに、ベッドに横たわるニニルの表情は完全に緩み切っており、

苦しみも狂気も一切感じられない。

ニニルの成長期は、明け方頃に終わりを迎え、

布団の端から覗くニニルの二本の尻尾は、

夢でも見ているのだろうか、時折小さく跳ねるように動いている。

フェナスの言によれば、紡月の効果は既に切れており、

もういつ目が覚めてもおかしくはないらしい。


「……」


フェナスの声は無視し、

フィアシスは疲れた表情で、ニニルの寝顔を眺める。

自らの責任でないとはいえ、

自分の放った紡月が、ニニルの成長期を引き起こした可能性もある、

と考えるフィアシスは、

自分は何もせずに自室で眠ると判断するほどの図太さは持っておらず、

昨晩は一睡もせず、ニニルの手を握って、

安眠を促す紡月を掛け続けていた。

そもそも紡月の発現には深い集中が必要であり、

いくらフィアシスの紡月力が優れているとはいえ限りがある。

有り体に言って、フィアシスの疲労と眠気は限界だった。


「そろそろフィアシス様にもお休みいただいては?

 ほら、何かあっても、ここには俺がいますし?」


そして、限界が間近で意識が朦朧とし始めた頃に、

この男が忽然と現れた。

疲労と眠気に嫌悪まで加わったフィアシスは、

眉間に皺が寄るのを抑えられずにいた。


「ニニル様は我々が看ていますので心配ありません。

 どうぞご退室を」


フェナスに語り掛けられた護衛の一名が、

視線を合わせることもなく退室を促す。

彼女もまた徹夜でフィアシスとニニルを見守り続けた一人であるが、

その表情に疲労の色を見せていないどころか、

フェナスが入室してからは、直立不動の姿勢で睨みを利かせてすらいる。


「手厳しいねぇ」


そんな会話を背に聴きつつ、

いよいよ眠気に負けてフィアシスがうつらうつらとし始めた時、


コン、コンッ


不意に訪れた扉を叩く音が、再び意識を引き戻した。

護衛の数名が目配せをして警戒体制を取り、

フィアシスもまた、瞼を懸命に開いて扉の方に首を向ける。


「失礼いたします。ニニル様はまだ……?」


扉を開けて入ってきたのは、レフィアの側仕えの侍女だった。

フィアシスにとっても良く見慣れた顔ではあるが、

普段以上に堅苦しい、酷く緊張した面持ちは、

今の状況が状況ゆえだろうか。


「はい。

 まだ眠っていらっしゃいますが、何か?」


「そうですか、実は……」


「失礼いたします」


扉の側の護衛の問いに、侍女が答えようとしたその時、

その背後に控えていたのであろう、もう一つの声が、後ろから凛と響く。


「ファナン様!?」


機敏な動きで道を譲った侍女の向こうから、

静静と姿を表したのは、

八つの尾と尖った耳を嫋やかに靡かせる、緑の女王だった。

その威容を認めるや否や、この部屋にいる全ての者が、

驚愕の表情も露わに居住まいを正した。

今の今まで朦朧としていたフィアシスも、

反射的に立ち上がり、喉を引き攣らせる。

あの宴の夜、アルムに向けた静辣な害意は、

今もフィアシスの記憶に新しい。


「ニニルは……」


変わらず、緩やかながらも荘厳な歩様で、

後ろに数名の緑の侍従を引き連れて部屋へ歩み入るファナン。

その視線が正面に捉えているのは、フィアシスだ。


「こ、こちらに。まだ眠っておられますが……」


ファナンの側に、レフィアの姿はない。

予定外の訪問であることは想像に難くなく、

恐らくはレフィアの身が空かなかったのだろうと、

フィアシスは己を納得させる。


「……」


フィアシスの回答を得ると、ファナンは言葉も無いままに歩を進める。

緊張に身を固めるフィアシスだが、

ファナンが近付くにつれ、

その表情に浮かぶ、明らかな疲弊の色に気付いた。

特に目の下の隈が酷く、

ファナンが充分な睡眠を取っていないことは容易に見て取れる。

無理からぬことだと、フィアシスは心の中で深く頷いた。

自らの跡継ぎである愛娘が数日に渡って行方不明となり、

他国で発見されたと報を受けた女王の心労など、察するに余りある。


「ニニル……」


フィアシスの隣、ニニルが眠るベッドの側まで近付いたファナンは、

穏やかな表情で呑気に眠りこける娘の姿を認めると、安堵の溜息を漏らした。

それに続いて、ファナンの表情が怪訝に、驚嘆に、最後に心痛に変わっていく。


「……重ね重ね、娘が多大なご迷惑をお掛けしたようですね」


「え?」


「尾が二本に」


「はぅ……」


この部屋に通されるまでには説明が為されていなかったのか、

ファナンは嬉しさが半分、申し訳なさが半分といった語調で、

ニニルの尾を指先でなぞるように撫でる。

それがくすぐったかったのだろう、

ニニルは母が迎えに来ているとは露知らず、

逃げるように身を捩って声を漏らし、ファナンに背を向ける。


「申し訳ありません。酷く暴れ回ったことでしょう」


フィアシスに向けて続けつつ、ニニルの頭を撫でるファナン。

謝罪の言葉を口にしながらも、

表情は穏やかで、その眼差しは愛しさで満ちている。

その姿を見るだけで、

フィアシスは自分の中にあったファナンに対する恐怖心や苦手意識が、

ほんの少し和らいだように感じていた。


「それが……」


それはそれとして。

ニニルの成長期の発露についてはどう説明したものか、と、

フィアシスは言葉に困る。

自分の放った紡月が成長期を引き起こした可能性があり、

更にその前提としてフェナスの不躾な行動があり、


「暴れる前に紡月で眠らせたので、被害はありませんよ」


その不躾極まる振る舞いをした男が、今この部屋にいるのだ。

またしても、いつ動いたのかも分からぬような動きで、

いつの間にかフィアシスの背後に立っていたフェナスは、

フィアシスの肩越しに、いかにも得意げな声でファナンへ告げる。


「……この者は?」


そもそもの話として、正式な取り次ぎも無いままに、

王族に話しかけるという行為自体、不行儀が過ぎるものなのだ。

ファナンは目に見えて不快感を露わにしながら、フィアシスに問う。

背後にいるフェナスが、如何なる表情を浮かべているのか、

もちろんフィアシスから見えてはいないが、それでも容易に想像がつく。

寧ろ、ファナンの入室から今まで黙っていたことが意外にも感じられたが、

きっと、自分が登場する絶好の機会を伺っていたのだろうと、

フィアシスは一人で納得した。


「えっと、この方は……」


「はじめまして、ファナン様。

 フェナス、と申します。以後お見知り置きを」


フィアシスが答えるよりも早く、

フェナスは滑り込むようにファナンの足元に跪き、頭を垂れた。

王族同士の対話に割り込み、

ファナンに手が触れる距離まで近付いたことで、

一気に室内が殺気立つのをフィアシスは感じ取ったが、

当の本人は、やはりまるで気に留める気配もなく、

流麗な所作で、ファナンの左手に向けて自身の右手を伸ばす。


「……あら」


ファナンの手の甲に口付けをしようとしたのか、

少し首を前に倒していたフェナスだったが、

手が触れる僅か前にファナンが手を引いたことで、それは叶わなかった。

頓狂な声を出しながらフェナスは首を傾げ、ファナンに向け視線を上げる。


「香水の香りは、もう少し抑えた方が良いでしょう。

 作法は学んでいるようですが、

 相手を不快にさせないという前提を忘れぬようになさい」


露骨なまでの嫌悪感を示し、フェナスを睨むファナン。

まるで憎しみすらも感じさせるような眼差しは、

或いは、アルムと対峙した際よりも厳しいかも知れない。

自分に向けられているわけでないにも拘らず、

フィアシスは背筋が冷える想いだが、


「いやぁ、これは失礼。

 ……ん、確かに。

 緑の国の方には、少し鼻につく匂いかも知れませんね」


当の本人は、全く悪びれる様子もなく、

ファナンに向けて伸ばしていた手を自分の鼻に近付けると、

鼻をわざとらしくニ度鳴らし、軽薄に笑う。


「……」


見定めるように、

ファナンは口を開くこと無くフェナスを睨み続ける。

アルムを想起させる、黒い外套で全身を覆うフェナスの姿に、

一体どのような感情が向かうのか、フィアシスには想像も及ばない。


「フィアシス様。

 ニニルはこのまま連れ帰って構いませんね?」


やがて長い沈黙を破り、ファナンが口を開く。

どうやら、フェナスとの対話を続ける意思は無く、

その存在について、フィアシスに詰問するつもりも無いようだ。


「は、はいっ、勿論です」


険しい表情のままファナンが放った言葉に、

フィアシスは背筋をぴんと伸ばし答える。

その承諾を得ると、ファナンはニニルの被る布団を剥ぎ、

ニニルの肩と膝の裏を抱えるようにして、軽々と抱き上げた。


「娘共々、突然押しかけて多大なご迷惑をおかけしたうえ、

 何の詫びも無いまま去ることを、どうかご容赦ください。

 レフィア様を交えた場で正式に謝罪をさせていただきたく、

 また追ってご連絡いたします。

 どうかレフィア様にも、宜しくお伝えください」


ニニルを抱えたままフィアシスに向き直り、

ファナンは深々と頭を下げる。

今この場にレフィアがいないように、

ファナンもまた、多大な政務を抱える身だ。

それを、ニニルを迎えに来るためだけに、

突如として数日もの間、国を空けることになってしまった。

一刻も早く自国に戻らねば、多方に迷惑がかかることだろう。

それでも自らがニニルを迎えに行くのだと、

そう決断したファナンは、

やはり、レフィア以上に娘を溺愛して止まない母親なのだろう。


「いえ、ニニル様にも、

 またいつでもお待ちしております、とお伝え下さい」


「お心遣いに感謝を。

 それでは、私達はこれで失礼いたします」


改めて深く頭を下げると、

ファナンは自らの侍従を引き連れて去っていく。

その凛とした歩調には、

やはりニニルを抱えている重さは感じられない。


緑の王の去った部屋は静寂に包まれ、

その場に残った者の緊張した面持ちだけが、

緑の王の来訪の名残を残していた。




「ふぅ……」


誰からともなく、肩の力を抜いた大きな溜息が漏れ始める。

一難、などと言えば失礼にあたるが、

これでようやく、一つの大きな懸案が去ったと言えるだろう。

フィアシスが皆に対して労いの言葉をかけようと口を開いた時、


「いやぁ、聞きしに勝る美貌。

 母性的で穏やかなレフィア様も素晴らしいが、

 ファナン様の威厳に満ちた美しさも格別だ」


フィアシスを始めとする皆の気苦労など、

まるでどこ吹く風といった様子で、フェナスが陶酔気味に呟く。

心労の最大の原因となっている男が、

まだこの場に残っていたのだ、ということを思い出さされ、


「はぁ……」


フィアシスは、今度は落胆の溜息を大きく吐くのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る