陽の章 第十二項 ~暴威~
「……ここは」
指先にすら、力が入らない。
辛うじて、体を覆う布地の柔らかさだけが分かる。
ここが現実世界なのか、それとも死後の世界なのか。
揺蕩うフィアーナの記憶は、
戦場で、自分の胴が大剣に薙がれた瞬間で途切れていた。
「目が覚めたか」
今の自分が現実に在る事を教える声。
それが、開かぬ視界のすぐ傍から耳に届いた。
「もう目覚めないかと思った」
聞き慣れた声。いつも通り平静そのもの。
でも、少しだけ、安堵の色を感じたような気がするのは、
きっと、自分の心が、そうであって欲しいと願ったからだろう。
「どうして、助けたの?」
まるで溶接されたように離れない瞼を、無理矢理にこじ開ける。
酷く霞みながらも、視界は取り戻すことができた。
確りと見える事が無くとも、どこか分かる。
イグリオール王城、女王の私室。つまり彼女の自室だ。
これで触覚、聴覚、視覚に問題が無いことになる。
ならば、自分はまだ、
「俺はまだ、お前を失いたくないからな」
死地に戻れる、と思ったのに。
「どこまで勝手なの……」
忌々しげに呟く。
果たして、その感情は誰に向けたものだったろうか。
それすらも自分で理解できないままに、
それでも、ありったけの憎しみを込めて呟いた。
「左腕、もう今までと同じには動かないそうだ。
もう戦場に赴くのは止めろ」
なるほど、と合点がいった。
胴が真っ二つになったと思った一撃を、
辛うじて左腕を犠牲に食い止めたらしい。
「腕の一本が何だと言うの。
千切れたわけでもあるまいし。
それに、私には王族の血に宿る紡月がある」
自分は、生き汚く、また生き延びたのだ。
その事実にこそ涙が溢れそうになる。
あぁ今度こそ、と確かにそう思ったはずなのに。
「憎しみに満ちた心で白の紡月を使い、
ましてやその力を人を傷つける為に使う。
今のお前の、どこに白の女王たる資格があると言うんだ」
流石に少し怒っているだろうか。
そう思うが、相変わらずの平坦な声では分からない。
もっと感情を表に出したら良いのに、と、
最愛の妹に、ずっとそう言われていたというのに。
それなのに、ずっと変わらない。
「どうして貴方はそこまで冷静でいられるの?
貴方は何も悔しくないの?
リリィは……」
「お前が今のような在り方を続けても、妹は喜ばない。
それくらいは分かっているだろう」
「私は貴方みたいに理性的じゃない。なりたいとも思わない」
「だろうな。
それでも俺は、もうお前を戦場には行かせない」
何度、こんなやり取りをしただろうか。
戦に限った話ではない。
何を語るにしても、彼との会話は平行線になってしまう。
お互いに馬鹿みたいに頑なで、曲がらない。
それを宥め賺して交わらせてくれたのが、
自分の友人で、彼の妹だったのだ。
「……」
「……」
だから、今はもう平行線は交わらない。
どれだけ傍に寄り添おうとも。
「なら、レナード……」
「何だ」
「私を……殺して……」
陽の章 第十二項 ~暴威~
「いやぁ、しかし厳重な警備ですねぇ。
皆さん仕事熱心で素晴らしいことだ」
イグリオール王城の中庭に、
軟風よりもなお軽々しい男の呟きが零れる。
フェナスの処遇についての判断が下るまでの間、
フィアシスとニニルが対峙すると決断したからには、
あの場でずっと立ち尽くすわけにもいかず、
二十名以上の護衛に取り囲まれながら、
中庭の中央からやや外れた茶会用のテーブルへ、
フィアシスたちは場所を移していた。
フィアシスとニニルが並んで腰掛け、
対面に、外套で顔まで覆ったままのフェナスが座る。
あまりに似つかわしくない黒い塊は、
事情を知らぬ者が遠目に見たならば、
きっと人と認識することすらも無いだろう。
「白の王城と王族の守護を仰せつかった身。
不法侵入者を前にして、
持ち場を離れるわけには参りません」
フェナスのすぐ背後で、
身動ぎ一つすらも見咎めようという厳しい視線を向ける女性兵士。
胸元に留められた徽章が示すのは、
彼女がフィアシス=イグリオール親衛隊の一員であるということ。
今の立場に就いて日も長く、
フィアシスからすれば、日常的に言葉を交わす相手の一人である。
「それにしたって、人数多すぎでは?
不審者……って自分で言うのはなんだけど、
不審者一人を、二十人以上で取り囲むってのは、ねぇ?」
三人が座するテーブルをぐるりと取り囲むように、
それも、簡単に手が届くほどの距離で、
銘々の武器を携えた護衛の者が二十数名。
確かに、傍から見れば異様な光景ではある。
ともすれば、フィアシスとニニルへの拝謁を望む者達が、
大挙して押し寄せたかのようにすら見えるだろう。
「フィアシス様のみならず、
他国の王族であるニニル様までもがここに居られます。
この人数でも多過ぎるという事はありません」
「いやぁ、まぁ分かるけどさぁ……
流石にこれは息が詰まっちゃうよね。
ねぇ、フィアシス様?」
大袈裟に肩を竦め、呆れたような声を漏らすフェナスに対し、
フィアシスは言葉を返さず、視線を護衛の者達に巡らせる。
各々が殺気立った気配を纏い、フェナスを睨んでいる。
殺伐と、剣呑としたこの空気は、
やはり否が応でもフィアシスにあの日を思い出させてしまう。
「……」
掌にじっとりと浮かぶ汗が不快で、
フィアシスはテーブルの上に重ねた手を、意味もなく組み直す。
フェナスが纏う空気は変わらず軽く薄い。
にもかかわらず、何か、纏わり付くような、絡め取るような、
そんな気味の悪さを感じずにはいられない。
時間が経つにつれ、それは寧ろより重く濃くなっている。
それこそ、言葉を発しようと口を開いたら、
喉に貼り付いて塞いでしまいそうな、そんな悪寒だった。
「ニニル様は、どう思われます?
もっと開けた場所で、
のんびり寝転がってお話できた方が良くないですか?」
明らかな警戒を示すフィアシスを諦めたのか、
フェナスはニニルの方へ首を向け、
薄ら笑いの表情をそのまま音にしたような声で問う。
「……」
ニニルもまた、フェナスの問いに沈黙を返す。
表に出している警戒の色で言うならば、
ニニルはフィアシスよりも更に深刻だ。
用意された椅子に腰掛けてはいるが、
直ぐにでも跳び上がれそうなほど腰が浅い。
耳や尻尾の体毛は逆立ち、瞳孔も開いている。
「そんなに可愛く警戒されちゃうと、
寧ろ、悪戯したくなっちゃうんだよなぁ」
今までにも増して軽く、
けらけらと笑うような声で、フェナスが呟く。
その刹那、
「おっと」
護衛の中の数名が、得物を抜き放ち、
フェナスとニニルとの間を遮るように差し出した。
読み替えれば「危害を加える」とも取れる言葉だ。
彼女らが動かない理由はない。
自分に直接向けられたものではないにもかかわらず、
フェナスは露骨に、大袈裟に身を引き、
椅子の背もたれに身を預ける姿勢を取る。
「いやぁ、殺気立ち過ぎだって……
もしかして、あれかな?
クレミア様に怪我させちゃったのを、
めちゃくちゃ叱られたとか?」
「っ!」
心の底から馬鹿にするように。
少なくともフィアシスには、その言葉がそう聞こえた。
その場にいた誰もが、誰よりフィアシスが、
今までのどのフェナスの言葉よりも、
強い嘲りの意思を、その声から聞き取った。
「貴様……!」
それはフィアシスの傷だ。癒えることのない後悔だ。
この場にいる者達が、全員知っている。
そして、主の傷を抉るような発言を黙って見過ごせるような者は、
この場にいない。
「それで、ニニル様の警護は十二分に強化したわけね。
なるほどなるほど」
尚も続けるフェナスに、更に数名の護衛が得物に手を掛け、
「でも、まぁ」
風が、
「全然足りてないんだよなぁ」
「っ!?」
フィアシスの知覚を置き去りに吹き飛んだ。
「ニニル様!」
フィアシスに分かったのは、
瞬きもせず睨んでいたはずのフェナスが、
突然に、本当に何の前触れもなく、目の前から消え去ったこと。
恐らくは、その場にいたほぼ全員が同じように感じただろう。
次の瞬間を目の当たりにしたのは、ニニルの背後にいた護衛の数名。
今の今まで対面の椅子に腰掛けていたフェナスが、
ニニルの真横に立ち、ニニルの髪か、或いは頬に触れようと、
手を伸ばしている姿だった。
その次の瞬間、ニニルが予備動作なしで全力で跳躍し、
空中に飛び上がったことを知覚できた者は、
当のニニル本人以外にはいなかっただろう。
ニニルの危機を察知し、名を叫んだ者もいたが、
それはニニルが既に跳躍した後のことだった。
「へぇ、凄い凄い。流石は緑の王女様。
護衛が自分を守ってくれなくても、自分の身は自分で守れるわけだ」
ニニルが着地した音に驚きフィアシスが振り返った横で、
フェナスが愉快そうに声を上げる。
目にも留まらぬ早さ、少なくともフィアシスには、
動いたということすらも分からないほどの速度で、
テーブルの向かい側にまで移動したフェナスの声には、
まるでその所作の名残が感じられない。
飄々と、まるで初めからそこにいたかのような振る舞いで、
外套にも全くの乱れが無い。
フェナスの動きに反応できなかったのは、
フィアシスに限った話ではない。
周囲の護衛たちも、
先のフェナスの言葉に憤り、剣の柄に手を掛けていた者達ですら、
刃を抜き放つ前にニニルが跳躍していた有様だ。
「貴様、この狼藉は看過できんぞ!」
「ニニル様! ご無事ですか!」
フェナスとフィアシスの間に割って入る者、
飛び退いたニニルに駆け寄る者、
其々が己の役割を果たすべく動き始める中、
顔を怒りの色に染めた数名が、いよいよフェナスに刃を向ける。
だが、戦いに疎いフィアシスにも分かる。
明らかに、分が悪過ぎる。相手が悪過ぎる。
視界から消えるような速さで動く敵に、
戦って勝つ、ましてや捕らえる、などという結末は、
想像がまるでつかない。
そもそも、初めにフェナスが何処からどのように現れたのかすら、
理解できていないというのに。
「皆して怖い顔しちゃってぇ。
少しのお触りくらい、多めに見てくれても……」
またしても、友を危険に晒した。
自分は動けなかった。
フィアシスの脳裏にあの赤が過る。
あの時と違うのはアルムがいないこと。
そして、まだ終わっていないこと。
あの日アルムは、クレミアを仇と叫ぶ女性の胸に、
容赦なく貫手を叩き込んだ。
だからフィアシスは、
「ガスト・ブロウッ!」
躊躇わず、
己の心の内にある有丈の暴威を風に乗せ、
フェナスに向けて解き放った。
「うぉっ!?」
「フィアシス様!?」
攻撃の紡月ではない。
ただ相手を押し退け遠ざける、それだけのもの。
だが、白の王族の、その中でも紡月力に秀でたフィアシスが、
遠慮も容赦も躊躇もなく放つ風は、
大木をも薙ぎ倒さんばかりの暴風だ。
まともに受ければ、人一人など容易く吹き飛ぶ。
まさかフィアシスが打って出るとは思っていなかっただろう。
護衛たちは皆一様に、今までで一番の驚愕の表情を浮かべ、
フィアシスを振り返る。
然しものフェナスも、全く動じないというわけには行かず、
頭を覆う外套を押さえ、前傾で風に向かう姿勢を取った。
「いやぁ、なるほど。これは確かに凄い」
「っ!」
だが、それだけ。
少し前傾姿勢を取っただけで、
フェナスはそれ以上体幹を崩すこともなく、
フィアシスが放つ風を受け流し続ける。
いや、そもそも、黒い外套こそ強くはためいているものの、
フェナス自身はまるで、
それこそ全く風を受けていないかのようにすら見える。
ともすれば、その前傾姿勢のまま、
今にもこちらに向けて歩き出しそうなほどの、悠々たる有様だ。
「フィアシス様、我らも……」
その信じ難き光景に、
遅れを取っていた護衛達が改めて戦闘態勢を取ろうとしたその時、
「ニニル様!?」
斜め後方から、ニニルに走り寄った護衛の悲鳴が響いた。
「っ!?」
放つ紡月はそのままに、
フィアシスは首を視線をニニルの方へと向ける。
辛うじて視界の隅に捉えたのは、
己が身を掻き抱くように背を丸めているニニルの姿だった。
「ウ……ガッ……ァァ……」
痛みに耐えているように、悶えるように身を捩り、
ニニルが言葉にならぬ呻き声をあげる。
フィアシスの耳にその声は届かないが、
一目で、ニニルの身に何か異常が起きていることが察せられた。
ただならぬニニルの様子に、
駆け寄った護衛達も狼狽を隠せずにいる。
「おおっと。色々と珍しいものが見られる日だ」
「なっ!?」
ニニルに視線を向けた、ということは、
フェナスからは視線を外した、ということだ。
確かに、フィアシスの視界からフェナスは消えていた。
だが、突風の紡月は緩めず放ち続けていたはずだ。
だと言うのに、フェナスの声が発せられたのは、
フィアシスのほんのすぐ傍からだった。
「緑の王族の成長期とは。
白の王族の紡月よりも希少価値の高い光景ですよ」
無論、声だけではない。
いつの間にフィアシスの紡月から逃れたのか、
フェナスは、フィアシスの前の立つ護衛と並ぶように、
フィアシスの眼前に佇んでいた。
「……成長期、あれが?」
逃れられたのなら、紡月を放ち続ける意味はない。
半ば諦めに近い気持ちで暴風を治めるフィアシスだったが、
次の手を打とうという気は起きなかった。
諦めという理由も無かったわけではないが、
それよりも、フェナスの声から感じる印象が大きく変わった、
という理由の方が大きい。
先程までよりも明らかに真剣味を帯びた声は、
あれほど不快だった嘲りや挑発の色を持たない。
「一説によると、
強い紡月力に晒されるのが起因になることもあるとか。
戦場で成長期を迎える狂人も少なくないって話ですよ。
あぁ、護衛の皆さんは少し離れておいた方が良い。
成長期は理性を失くして暴れるんでね。
それが緑の王族ともなれば、人死にが出かねない」
わざとらしく間延びした喋り方は鳴りを潜め、
今までよりも少し低い声色で、フェナスは流麗に語る。
そこに偽詐が含まれていないことは、知識として知らずとも分かる。
それくらいに、誠実さすら感じるほどに、
フェナスの声は、身に纏う気配は、様変わりしている。
「どうすれば……」
「このフェナスめにお任せを。
決してニニル様に危害は加えず、鎮めて差し上げますよ」
言うが早いか、フェナスはゆったりとした歩みで、
ニニルに近付いていく。
「止まりなさい、対処法さえ言えば我々が……」
護衛達は決してフェナスへの警戒を解いたわけでは無い。
目の前の状況への対処法があるというなら、
それはニニルの身を護る自分達が行えば良い。
相手は、つい今しがた、
不躾にもニニルの身に触れようとしたばかりの男だ。
そもそも、ニニルの今の状態は、
先程のフェナスの行動によって引き起こされた可能性もある。
本人は鎮めるなどと言っているが、更なる悪化を招く魂胆かも知れない。
「取り敢えず、深く眠らせるのが手っ取り早い。
丸一日も寝かせてやれば、起きた頃には成長期も終わってる」
自身に向く疑いは、承知の上ということだろう。
フェナスは勿体振るでもなくさらりと答え、足を止めた。
「ならば、睡眠を促す紡月を……」
フェナスの語る内容は、確かに合点のいくものだ。
護衛の中でも紡月力に長けた者が動き始めようとするが、
「待った。
成長期は強烈に覚醒した状態だから、
強引に意識を刈り取るくらいじゃないと意味が無いぞ」
フェナスが静止して付け加えた助言で、その手が止まる。
精神に作用し眠りに誘う紡月は、難度が高い。
両者の間に合意があり、相手が受け容れる前提であるならば、
ほぼ確実に、速やかに相手を眠りに導くことが出来る。
だが、例えばそれを、
戦場で対峙する敵に向けた場合、まず成功は望めない。
相手自身の意志と、外から働きかける紡月とでは、
前者の方が圧倒的に強固だからだ。
件の宴席で、ファナンは催眠効果のある花を咲かせ、
事もなげにニニルの意識を刈り取ったが、
あれは緑の王族、八尾の狂人であるファナンだからこそ。
「ならば、我々が総出で……」
あれと同じ芸当を成そうとするならば、一人二人の手では到底足りない。
フィアシスなら、という考えはあっただろうが、
その危険に過ぎる行いを、主に押し付けられるわけもない。
護衛達が頷き合い、ニニルに向き直ろうとした矢先、
「ゥゥウゥウゥゥウウゥウアァアアアアアアアッ!」
「っ!?」
ニニルが、一際大きな唸り声を上げた。
自身を抱えるようにしていた姿勢が解かれ、身体が大きく前に倒れる。
両の手が地に向き、その五指が、掴むように地に強くめり込み、
「ガアアッ!」
弾ける。
「おっと!」
同時、フェナスがまたしてもフィアシスの視界から消えた。
「ッ!」
ニニルは、両手両足で爆発的に跳躍し、
自分に一番近い位置にいた護衛に向けて、右の拳を繰り出した。
その速度は、幾らニニルが矮躯であっても、
容易く肉を貫き骨を砕くほどのものだ。
無論、顔面に直撃しようものなら、
結末は見るに堪えない無惨なものになっただろう。
だが、その拳は狙った相手に届く僅か手前で、
大きく軌道を反らし、空を切った。
ニニルと同時に動いたフェナスが、
間に立ち塞がっていた者達を跳び越え、
空中で逆立ちするような姿勢でニニルの手首を掴み、
真上に引き上げたのだ。
「ガアッ!」
だが、跳躍の勢いが消えたわけではない。
引き上げられた右の手首を支点にして、ニニルの身体が旋回する。
右肩と肘が外れんばかりに伸びるなか、
背と腰を丸めて身体を縮め、横に回転させると、
手首を拘束し続けるフェナスの頭に向けて、左足での蹴りを繰り出す。
「うぉっ!」
フェナスは首を倒し、それを紙一重で回避するが、
顔を覆う外套に蹴りが掠り、引き剥がされた。
「お転婆が過ぎる!」
掴んだままだったニニルの右腕を強引に引き寄せ、
フェナスがニニルの胴に左手を伸ばす。
その左手には、いつから展開していたのか、
目に見えて分かるほどの密度で紡月力が練り込まれており、
「ダイ・ホワイト!」
左手がニニルの腹に触れると同時、その紡月が展開された。
目も眩むほどに眩い、白い光。
眠りに誘うなどという生易しいものではない。
先に言葉にしていた通り、相手の意識を刈り取り気絶させる紡月だ。
「ガッ……ゥ……」
ほぼ間を開けず、小さな呻き声を漏らし、ニニルが脱力していく。
放たれた光から察せられるのは、
そこに尋常ならざる量の紡月が注ぎ込まれていたこと。
どれだけ強固な意志を持った戦士であっても、
今の紡月ならば容易く昏睡せしめるだろう。
「ふぅ……」
右手でニニルの右手を掴んだまま、
左腕でニニルの腰を脇に抱えた姿勢で、
まるで風の紡月で受け止められているかのように、
フェナスがふわりと着地した。
「白い……髪……」
護衛の一名が、小さく呟きを漏らす。
そう。
先程まで顔を覆っていた外套はニニルの蹴りで開け、
今は、その素顔が露わになっている。
その髪の色は、黒ではなく、紛れもない純白。
紡月の光も色もまた、白。
黒の外套で覆い隠されていたフェナスの素性は、
疑いようもないほどの白だった。
「とりあえず、丸一日は目覚めない程度に眠らせておきました。
あとは勝手に起きるまでベッドに寝かせておけば大丈夫ですよ」
隠していた容姿が暴かれたことを、気付いていないわけではあるまい。
ただフェナスはそれを気にする様子を微塵にも見せず、
手近な護衛の一名に、完全に眠りに落ちたニニルを預ける。
「……」
ニニルの身柄を預かった女性兵は、
口を半開きにして呆然としたままフェナスを見詰める。
周囲の者達もまた、同じ様相を呈する者が多い。
アルムと同じく全身を覆い隠す漆黒の衣装を纏い、
自らをアルムの友人と語るフェナス。
そのアルムは、黒の紡月を発現してみせた。
ならばフェナスもまた、黒の者なのであろうと、
この場にいた誰もが自明として考えていた。
それ故に、フェナスが白の者だという事実は、
確かに皆に衝撃を与えるものだったのだが、
ただ、皆が呆けている理由はそれだけではない。
暴かれたフェナスの容貌。
それは、一言で言うならば、美しかった。
真っ先に目に入る純白の髪は、
まるでそれ自体が光を蓄えているかのように、艶めかしい輝きを放つ。
瞳の色は、白の民ならば誰もが憧れるであろう白銀。
面立ちは凛々しい。ともすれば不気味にすら感じるほど整っている。
少なくとも、フィアシスが今までに知り合った異性の中で、
最も美しい造形だと断言できるほどに。
「いやぁ、面白い体験でしたねぇ。
自我を失った状態とはいえ、
緑の王女、ニニル様の身体能力を目の当たりにできたのは、
思わぬ収穫でしたよ」
事もなげに、フェナスは再び軽薄な笑いを浮かべて語る。
ただそれだけで、
あぁ、目の前にいる男は間違いなくフェナスなのだ、と、
フィアシスは容易く納得することが出来た。
細められた目元が、吊り上がった口元が、
フェナスの顔を構成する一つ一つが全て、
素顔を見るまでに頭に浮かべていた不快な笑みを体現している。
たとえニニルを傷付けることなく鎮めた立役者だとしても、
どれだけ端麗な容姿をしていようとも、
このフェナスという男に対してだけは、決して自分が心を許すことはない、
そう改めて確信し得るほどに、
少なくともフィアシスにとって、その笑みは底気味悪いものだった。
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