陽の章 第九項 ~感興~

私は彼の名を知らなかった。

私は彼の年齢を知らなかった。


私は彼の過去を知らなかった。

私は彼の罪を知らなかった。


私は彼の憎しみを知らなかった。

私は彼の哀しみを知らなかった。


私は彼の全てを知らなかった。


全てを知った今、私は迷わない。

事実を曲げてでも、

真実を否定してでも、私は彼を想い続ける。


全てを断ち切る力を持つ彼であっても、

その手の温かさは、

その目の優しさは、

決して偽りではなかったから。



陽の章 第九項 ~感興~



五日が過ぎてなお、

城内は未だ興奮冷めやらぬといった様相だった。


主に騒ぎ立てるのは、過日の決闘の目撃者となった兵達だ。

尋常の決闘にて緋鳳ティニアを下したアルム。

かの剣士の剣技はまさに神域であった。

それを息も荒く語る者達だが、

言葉の多くを占めるのは剣闘の内容ではない。

ティニアとアルムの攻防を正確に語れるほどの目を持った者が、

そこまで多くなかった、という格好の付かない事情もあるが、

彼らに語られる言葉の殆どが、アルムが発現した、

黒き壁に対して費やされているのが最大の理由だろう。


禁忌の名、卓越した剣技、失われし黒の国の遺才。

不明な素性に対する憶測も相俟って、

語られる様はさながら英雄譚、生きた伝説の如し。


「むぅ……」


有り体に言って、フィアシスは不愉快だった。


そもそも、アルムは自分の親衛隊長だ。

赤の第一王女との戦闘など、本来の責務ではない。

大体、アルムの名を恐れていないのは自分だけだったのに。

そんな幼い独占欲が、フィアシスの心を悩ませていた。


「……」


フィアシスは、廊下の窓の一つを開き、中庭を眺めていた。

勿論、見慣れた中庭の風景を見ているわけではない。

視線の先にあるのは、中庭の一角に独り佇む、件の黒い人影だ。


フィアシスと同様に、窓からアルムを眺める視線は多い。

好奇、歓心、警戒、羨望、憧憬、嫉妬、

城内で自分に向けられる好悪織り交ざった視線も、

どうやら、あの剣士の関心には及ばないらしい。

相も変わらず、一枚岩から削り出した彫像のような佇まいで、

腰に携えた漆黒の剣の柄に手を添え、

抜刀の直前と思しき姿勢を保ち続けている。


時間にして、もう四半刻。

初めは何をしているのかと思い足を止めたものの、

根比べ染みてきた観察に、

フィアシスがいよいよ諦めを意識し始めた頃、


「……ぁ」


静かに、風が凍てついた。

フィアシスにとってその寒気は、記憶に遠いものではない。

あの宴の夜、ファナンを前にして感じた恐怖と、

押し潰されるような息苦しさ。

更に鋭く、刺すように冷たい害意が、

眼下の剣士を囲む風を弾き返している。


大きく、深く、アルムが息を吐いた。

聞き取れずとも、見て取れずとも、

フィアシスはそれを明確に感じ取った。

そして、


「っ!」


風が爆ぜる。

鞘に納められた状態からの一閃を、

フィアシスは部分的にしか捉える事が出来なかった。


篭手に包まれた右手で剣の柄を握ると同時に、振り出された右脚。

足が地に着いた瞬間から、アルムの剣が振り抜かれるまで、

瞬きせず見詰めていたフィアシスには、

時間が飛んだようにしか認識できなかった。

あの体勢で、あの長さの剣が鞘から抜けるものなのか、

などという疑問すら抱くフィアシスから見れば、

その驚きは手品を見た感覚に近かっただろう。


それ以降の連撃に関しては、

フィアシスの知覚は完全に置き去りだった。


身を転じての横薙ぎ。

更に踏み込みながらの刺突。

地を蹴り、身体を前方に回転させながらの一撃。

後ろに退きながらの払いを三度。

三度目は最後まで振り抜かれることは無く、

アルムは途中で大きく身体を倒して横に跳んだ。

膝を曲げて着地。

弾かれるように前方に大きく踏み出しながら、

刃を水平に突き出し、圧し斬るような一撃。


「……」


最後の踏み出しを聢りと静止させると、

剣を突き出した姿勢のままで、アルムは再び身動がぬ彫像に戻った。


剣舞、というものをフィアシスは見たことが無い。

ただきっと、今自分が見たものがそうなのだろう、

とフィアシスは一人感心し、納得していた。

目にも留まらぬほど俊敏でありながら、

はっきりとした輪郭が感じ取れる所作。

それは、フィアシスが知識だけに知る「戦闘」とは、

随分と掛け離れたものだった。

ただ、そこに吹き荒れた強嵐は、

舞と呼ぶにはあまりに粗暴でもある。


やがて、悉く吹き飛ばされた柔風が、硬質極まる黒鎧を撫で始めると、

アルムは緩やかに腕と足を引き戻し、黒刃の長剣を腰の鞘に収めた。


「あっ」


ややもなく、アルムは中庭を去るべく歩み始める。

その足の向かう先は、フィアシスの自室の在る東塔。

そこまで思い至ったところで、

フィアシスは自分が呼吸を忘れていたことに気付く。

同じ速さで歩けば、東塔の階段で合流できるだろう。

頬を上気させ、大きく息を弾ませながら、フィアシスはアルムを追った。




「アルム様っ」


「あぁ、ちょうど警護に戻る途中だった」


目算通り、階段を上がってくるアルムと鉢合わせになった。

息の荒いフィアシスに別段疑問を示すでもなく、

アルムはいつもの静然とした、抑揚のない声で応える。

フィアシスとは違い、あれだけの舞を見せても呼気に熱は無い。


先の戦いを経たとはいえ、

フィアシスの護衛というアルムの最大の職務は変わっていない。

今の時間、陽は南中。

アルムに与えられた休憩が終了する時刻だ。


「あ、あの、剣の稽古ですか?」


未だ荒く上下する胸の前に両手を重ねて問う。

咄嗟に口から出たのは、尋ねるまでもなく明らかな事実だった。

邂逅の瞬間から続く、アルムへの畏怖に近い苦手意識は、

明確に思慕を自覚してからも抜けないままでいる。


「見ていたのか。そうだ」


それも全て、やはりフィアシスにとって慣れの無い、

無遠慮で高圧的な態度が原因だろう。

フィアシスの知る限りに於いて、

この剣士が誰かに対して遜意を示したことは無い。


「えっと……

 どなたかと、闘っていらしたんですか?」


自信なさ気に、怯えすら混じった声でフィアシスは問いを重ねる。


ただ剣を振るっているだけでなく、何かを避けるような、

寧ろそちらを練習しているかのような。

無論、中庭にはアルム以外の人間は誰一人いなかったのだが、

それは知識も経験も無いなりに、

フィアシスが先のアルムの所作に覚えた違和感だった。


「……」


「あ、えっと……」


肯定を期待していたわけではなかったが、

予想に反するアルムの沈黙に、

気を損ねてしまった、と確信したフィアシスは、

ただただ狼狽し、視線を泳がせるが、


「……私の、剣の師だ」


更に暫くの沈黙を重ねた後、

アルムはいかにも渋々といった語調で答えた。

フィアシスが拒絶だと感じた沈黙は、

或いはそれを言葉にすることへの

逡巡によるものだったのかも知れない。


「剣の先生ですか?」


「ああ」


アルムから返答があったこと、

自分の考えが正鵠を射たことに気を良くし、

フィアシスは好奇心のまま問いを続けた。

対するアルムは、殊更億劫そうな声を漏らすが、

出会いからの時間で初めて知る機会を得た、

この剣士の素性に関わる情報の片鱗に、

最早フィアシスが好奇心を抑えられる道理は無かった。


「剣の先生ということは、

 その方は、アルム様よりお強いのですか?」


「そうだな。私が知る中では、最強の人間だ」


フィアシスの問いに対し、

アルムは今までに見せなかった、些かの感情の篭った声で答える。

その口調に多少の驚きを得たフィアシスだが、

すぐにその言葉への疑問が心に浮上する。


「アルム様よりも……」


「ああ」


フィアシスが耳に聞いた話の限りでは、

今このリハデアに、アルムよりも優れた剣士はいない筈だ。

白の将兵にも、赤の王女でさえも。


しかし、アルムは事も無げにあっさりと頷いた。

その口調にはやはり、

フィアシスに疑いを抱かせるような揺らぎは欠片にも無い。


ただ、アルムの言葉の調子が全くいつもの通りでもない、

まるで、自分の大切なものを誇示するような、

そんな感情の篭った声だと、フィアシスは感じていた。


「……」


「上には上がいるという事だ。何事に於いてもな」


アルムの態度の変化に驚き、言葉を失っていたフィアシスだが、

その沈黙を疑いの意味に捉えたか、

アルムは言い諭すような、或いは説法でもするかのような、

そんな口調で告げた。


「そんな事よりも、お前は何をしていたんだ?」


フィアシスの次なる言葉を待たず、

アルムはいつもの冷淡な口調に戻すと、話を切り替えた。

剣の師という言葉への僅かな躊躇いを見るに、

恐らくは長く語りたい話では無かったのだろう。


「あっ、いえ、私はこれを……」


それを察したフィアシスは、これ以上は深掘りするまいと諦め、

慌てて手に抱えていたものをアルムの前に差し出した。

知らぬ者が見たならば、その動きや態度はまるで、

身分の劣る者が貢物を差し出すような、

それほど余裕の無いもののように見えるだろう。


「書庫か。飽きないな」


「はい、本は大好きなので」


呆れたようなアルムの声に対し、フィアシスは満面の笑みで答えた。

いつも通りのやり取りだ、とフィアシスの心が安堵で満たされる。


畏れや戸惑いはあれど、

アルムとの会話の中にフィアシスが得ているものは、

確かな安らぎと喜び、そして高鳴りだった。


それらを、即ち恋愛感情と決めるのは、

実在の人物に思慕を抱いた事の無いフィアシスに於いては、

未だ早計なのかも知れない。

それでも、フィアシスは自身の抱く感情の特別さを意識しているし、

彼女を傍から見る者達もまた、

フィアシスがアルムに特別な感情を抱いていることを、

それこそ恋の何たるかを知らぬ幼児でも感じ取るだろう。


「そうか。だが、その本はあまりお勧めできない」


「……えっ!? 読んだ事があるんですか!?」


変わらぬ口調で告げるアルムに、

フィアシスは暫時、その言葉の意味するところを理解出来なかった。

それが理解に至った途端、フィアシスの心に湧き上がった驚きは、

今までの人生の中でも数えるほどの強烈なものだった。


アルムとの初対面時に読もうとしていたあの本は、

かなり古い時代の書で、文体も話の展開も摯実もなものだったし、

アルムが読んでいたとして不思議ではない。


だが、今フィアシスがアルムに向かって差し出した本は、

言ってしまえば、完全に「フィアシス好み」の本である。

何がどう間違っても、

この黒鉄の塊のような冷徹な人物とは結びつくものではない。


「ある事にはある……

 が、主題もなければ、話も都合良く進むだけで珍奇でもない。

 読むのなら、もう少し得るもののある書にした方が有益だ」


「……」


続けて語られる言葉も、既読であることを疑わせない。

最早フィアシスからは、本そのものへの興味など消し飛んでいた。


アルムが、こんな本を読んでいる。

いや「こんな」などと評すのは失敬ではあるが。

ならば、自分が今までに読んだ中でも、

特にお気に入りのあの本も実は読んでいるのか。

或いは雑食で乱読なだけで、偶然この一冊だったのか。

アルムに対して問いたい言葉が、書の題名が、

フィアシスの頭の中で湯水の如く溢れ出して止まらない。

それらを全て問わんと、

フィアシスが爛々と眼を輝かせて口を開いたまさにその時、


「ここの書庫には、史書が多く残っている。

 読むのならば、そういった物の方が余程役に立つだろう」


フィアシスが心が急速に冷えた。


「……史書、ですか」


フィアシスは辛うじてアルムの勧めを復唱しつつも、

その顔には、声には、

到底取り繕えないほどの厭気が噴き出していた。


フィアシスにとって歴史書というものは、

『読書』ではなく『勉強』のためのものだ。

傍には必ず教育係が立っており、

厳しい顔で、或いは得意げな顔で、

こちらにとって一欠片にも興味のない話を、

一方的に語り聞かせてくる。

という光景が、フィアシスの頭の中では、

史書という存在と等しく結びついている。


一言で言えば、面白くない。

或いは、面倒臭い。

感情で言うならば、嫌い。


「確かに堅い内容のものが多いが、

 そこに実在の人間が関わっているが故に、

 物語のための舞台装置ではない人間関係や経緯が、その背景にある。

 同じ時代に書かれた書を読むと、同じ出来事が、

 著者の立場によって、全く別の視点で書かれていたりもいる」


露骨に嫌がるフィアシスに対して、

いつになく口数多くアルムが語る。

その語気は、好きなもの故の饒舌というよりは、

どちらかといえば、宥めるような、言い聞かせるような、

例えばレフィアが『勉強をしなさい』という語調に似ていた。


違うのは、それを語るのがアルムであるということ。

ただそれだけで、フィアシスにとっては、

なるほど、確かにそれは面白いかもしれない、と、

僅かに興味を持つに足る言葉に変じていた。


「ここの書庫にも『フィアーナ戦記』という史書がある筈だ。

 あれは文体も物語風で読みやすい。

 試しに、史書と思わず読んでみるのも良いだろう。

 戦姫フィアーナの名は知っているな?」


「戦姫フィアーナ……

 えっと、確か十代ほど前の女王の名前が確かフィアーナだったと……」


幾ら興味が無いとはいえ、

流石に自国の歴代の女王の名前くらいは、

あまりに古い時代になると怪しいが、概ね覚えている。

中でもフィアーナは、

その逸話も、末期も白の歴史には珍しいものであり、

フィアシスも確りと記憶していた。


「その通りだ。

 戦の前線に身を置き続けたフィアーナ王。

 フィアーナ戦記は、彼女の幼少から最期までを、

 特に人間関係に焦点を絞って、物語風に書き記したものだ。

 王宮内の確執や、グレイスとの戦についても書かれているが、

 最も文量が割かれているのが、

 夫のレナードとの出会いから結婚、夫婦生活についてだな」


「へぇ……」


それならば、読んでみたくなくもない。

そう思わされる程度には、

アルムの語る言葉には心を惹かれるものがあった。

フィアシスとしても、普段から物語しか読まないわけではなく、

市井の恋愛事情について書かれた随筆などを手に取ることもある。

実在の白の女王、その恋について書かれているというなら、

自分が目を通しておくのも悪くはない。


「先ずは、あまり古くない軽い文体のものから入り、

 少しずつ手を広げていけば良い。

 読む時代を遡っていけば、古い時代に起きた物事が、

 先の時代の考え方の根底にある事が分かったりもする。

 史書を読む楽しみや醍醐味の一つとも言えるだろう」


「楽しみ、ですか……」


そこは自分にはあんまり関係のない話だ、と思いつつ、

フィアシスは曖昧な復唱だけを返す。

先に語られたものに比べると、

それはやはり『勉強』に近しい内容であり、

フィアシスが強い関心を寄せる部分ではない。


「……まあ、確かに口で言っても仕方の無い事だ。

 騙されたと思って、一度読んでみると良い」


そんなフィアシスの興味の薄れを察したか、

アルムは僅かに落胆の色を乗せた口調で結んだ。

気弱でありながらも頑固なフィアシスに、

それ以上の言葉を尽くしても無駄、という線引きを、

既にアルムは心得ているようだ。


「……分かりました。一度探して読んでみます」


アルムの勧めであるなら、取り敢えずその一冊だけ。

きっとその後は続かないだろうが、と己の中で結論付けつつ、

フィアシスは件の書を手に取ることを決めた。


それは、単にアルムの語った中身への興味でもあったが、

更に言うなら、アルムとの共通の話題が欲しい、

少しでも深く何らかの価値観を共有したい、

そんな考えもまた、フィアシスの中にはあった。


ふと思えば、

今までに、自身が我慢や努力をしてでも、

誰かとの仲を更に深めたいと思ったのは、

クレミア以外では初めてのことではないか。

改めて、自分の中でのアルムという存在の大きさを感じ、

フィアシスは軽い足取りで歩き出す。


つい先ほど書庫で見つけ、今も自分の手の中にある本。

今はもう、この本よりも、

アルムが勧めた『フィアーナ戦記』を読む時間をこそ、

フォアシスは心待ちにしているのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る