陽の章 第一項 ~邂逅~
めくるめく時の流れ……
時は人を乗せて流れ、人はその流れに抗おうとする。
それでも人は、時に流され続ける事に疑いを持たない。
しかし、あの人は私にこう告げた。
『時を止めよう。私達の為の時は……永遠はすぐそこにあるのだから』
私はその言葉に嘘を感じる事も無く。疑う事も無く。
だけど、それでも私は……
陽の章 第一項 ~邂逅~
「ふぅ」
書庫の隅、天井近くの換気用の窓からは、僅かに赤さを残した陽が差している。
朝の匂い。僅かに露の湿気を含んだ空気に気付いたフィアシスは、
先ほど手に取ったばかりの、己の手に余る大きさのそれを、
片手で音を立てて閉じた。
「また夜更かししてしまいました。私はいけない子ですね。
ですが……また面白そうな本を見つけました」
フィアシスは年季の入った本を枕にし、同じく年季の入った机に身体を預け、
これ以上ないほどの至福の表情で独り言を言う。
四日に一度は、埃の住処となっている書庫に篭り、読書に耽るフィアシスが、
本に熱中するあまりに時間を忘れ、
陽の上る時間にようやく手を止めるという事も、そう珍しくはない。
そして、目の前に誰かがいるかのようなはっきりとした独り言もまた、
フィアシスには珍しい事ではない。
「時を止めよう。
私達の為の時は、永遠は、すぐそこにあるのだから」
「えっ」
不意に、埃の浮いた空気を揺らせた声。
聞き覚えが無く、それでもどこか憶えのあるようなその声に、
フィアシスは眼を開き、本の表紙から頬を離し、
その声のした方向へ、警戒の意を見せながら顔を向ける。
「永遠……私は確かにそれを求めてきました。
しかし、私はそれでも、貴方と共に散りたいと思うのです」
フィアシスが視線を向けた先。
書庫の入り口から少し踏み入った場所に、一つの影があった。
正しく言うならば、影と呼称するに相応しい風体をした人物だ。
漆黒の鎧、漆黒の兜、漆黒の鞘に収められた漆黒の柄を持つ剣。
あまりに見慣れぬその恰好に、フィアシスの表情には、
既に警戒よりも戸惑いの色が強く滲んでいた。
「『時を求む者の夜』か。読み古された恋愛小説だな。
決して趣味が悪いわけではないが、あまりに言葉が陳腐過ぎないか?」
黒尽くめの来客は、フィアシスが身体を投げ出していたテーブルを挟んで、
丁度フィアシスの正面まで歩を進めると、
フィアシスの眼下にある本の題と、恐らく読んだ事があるのだろう、
その内容について、少し否定的な感想を口にした。
「え、あの……」
敵意は感じないにせよ、警戒に値する人物の不可解な台詞に、
本来取るべき毅然とした態度を、一切忘れるフィアシス。
そんなフィアシスの姿に、漆黒の塊は小さな溜息を漏らすと、
「自己紹介はまだだったか。私は今日からお前の親衛隊長になった者だ」
僅かに事務的な気配を感じさせる口調で、己の身分を語った。
その言葉でようやく、昨夜教えられた異動の件を、
フィアシスは寝不足の頭に思い出す。
「あっ!
アルム様、でしたね。申し訳ありません。
私は昨日の剣術大会を見ていなかったので……」
イグリオール王国の国立闘技場で年に二度行われる剣術大会。
その大会が二日前に行われた。
そこでアルムは、前回の優勝者や、軍の中でも剣で名を馳せた者達ですら、
まるで剣を初めて持つ子供を相手にしているかのような闘いを見せ、勝利した。
その圧倒的な剣術の腕を見込み、フィアシスの母である女王レフィアが、
昨日、このアルムという異邦の剣士を、フィアシスの親衛隊の隊長に任命したのだ。
という話を、何故か人づてに聞いていた、という事をフィアシスは思い出していた。
ちなみに、フィアシスが剣術大会を昨日と言ったのは、
睡眠時間が無い為に、まだ日付が変わったという感覚が無いからだろう。
「女王にお前を連れてくるよう命を受けた。
書庫に篭って徹夜で本を読んでいるから、と」
フィアシスの日常の行動は、母親であるレフィアには、
極めて細かく把握し尽くされている。
他者には一見「気紛れ」という印象を持たれがちだが、
彼女の行動は割と単調で、更に、ある程度規則的でもある。
「……」
フィアシスと同じ時間を一月も共にすれば、恐らく誰でも、
彼女が今どこにいるのか、大まかに予想できるだろう。
また、今この城内に住まう、又は仕える人間は、
皆、フィアシスの居場所についての情報を共有しており、
更に、それはレフィアの侍従が終着点であったりもする。
未だに自分の行動が城内の者達に把握されていることを知らないフィアシスは、
黒鉄の兜に隠された瞳へと視線を固定し、
呆気に取られたような、どこか惚けたような表情で黙り込んでいる。
「どうした?」
「あ、いえっ」
アルムが再び声を掛けた事によって、フィアシスは首を横に数度振り、
その艶やかな純白の髪を靡かせた。
長い不動の時間の間に積もった少量の埃が、
フィアシスの挙動によって舞い散り、小さな窓から差す朝日に光る。
「ただ、私に話し言葉で話す方は、今までいらっしゃらなかったので……」
少し俯き加減に、フィアシスは正直な感想を口にした。
実際、名実ともにこの国で二番目の権力を握るフィアシスに、
話し言葉で話すなどという畏れ多い輩は、この国には存在しない。
女王レフィア以外の誰もが傅くフィアシスにとって、
このアルムという剣士は、実に興味深く、新鮮な存在だった。
「私はお前よりも年上だが」
そんなフィアシスの感情の機微を知ってか知らずか、アルムは事も無げに、
さも当然の理であるかのように、フィアシスに向けて言い放つ。
「あ、違うんです、その、私は謙って頂くのが好きではないので。
その、嬉しいと言えば良いのでしょうか、その……」
フィアシスとアルムの会話には、絶対的な価値観の齟齬が発生しているが、
何にせよ、フィアシスのアルムに対する第一印象は、極めて強烈なものであった。
加えて、フィアシスがここまで恐縮や萎縮を顕にした相手は、
間違い無く、この剣士が初めてだろう。
「女王は急ぎの用らしい。
一段落ついたのなら、そろそろ移動したいのだが」
「あ、はい、今行きますっ」
既に、アルムが少し機嫌の悪い声を出しただけで、
まるで親に叱られた子供のように跳ね起きるフィアシスがそこにあった。
本能的に、フィアシスはアルムの気を損ねる事に不利益を感じたのだろう。
「お前は……」
本を抱えて立ち上がったフィアシスに対し、
思わず口に出たのだろう、アルムは少しばかりの興味を感じさせる声で、
短く言葉を発した後、すぐに言葉を留めた。
それはフィアシスに更なる興味を持たせるに足るもので、
「はい?」
暫時アルムの言葉を待った後、語尾の上がった返事を以って、
フィアシスはアルムに言葉の続きを促した。
「お前は、私の名に恐れを抱かないのだな」
『異邦人アルム』。『最初の男アルム』。
『背神者』とも『陵辱者』とも、多くの異名で呼ばれる伝説上の男だが、
『聖戦』を起こした彼の名を騙る事は、直接に死を意味する。
例えそれが三国の王族の者であっても、である。
そんな禁忌の名を名乗る、フィアシスの目の前の剣士。
しかし、その名が知れ渡り、丸一日以上の時が過ぎた今でも、
アルムを捕らえようとする、或いは命を狙う者は現れない。
それは一昨日の、剣術大会に於けるアルムの強さを皆が目の当たりにしたからであり、
女王がアルムを登用したという事実が既知のものとなったからである。
「アルム様。素敵な名前だと思いますよ?
金色の髪と瞳を持った、伝説の異邦人アルム。
金の髪と瞳はシルヴィエ様と同じものですし、
金色の神星アステリアを象徴する色でもあります。
守星神に戦いを挑みさえしなければ、
今もきっと、信仰の対象になっていた事でしょう……」
そんなアルムに、フィアシスは至極当然のように笑みを向け、
その名を忌むどころか、本当に自分の信仰の対象であるかのように語る。
非常に嬉しげなその口調は恐らく、普段は決して他人に語れない価値観を、
何の惜しげも無く語れるという喜びなのだろう。
しかし、フィアシスの高揚とは裏腹に、アルムはその言葉を聞くと、
フィアシスに視線を固定したまま、何かを思案する素振りを見せる。
「お前は神を……シルヴィエを信仰しているのか」
小さく息を吐いた後、アルムはフィアシスに真剣な声で問う。
ちなみに、アルムは守星神の名を呼び捨てにしたが、
これもまた、正統な神教では避けるべきとされるものだ。
「おかしな事を聞くんですね?
この大地リハデアに住まう者は、皆シルヴィエ様のご加護の下に生まれます。
金色の神星より私達を常に見守って下さっている、
シルヴィエ様を信仰しない人なんて、この大地にはいませんよ?」
フィアシスも当然それに気付いているものの、指摘するつもりは無い。
アルムの名を騙る剣士に、今更その程度の些事を非難したところで、
何が変わることもないだろう。
フィアシスは、自分に神教を教える宣教師の口調を真似て、
誇らしげな微笑とともに、アルムに言い聞かせるように言うが、
「シルヴィエ、様……か」
それに対してアルムは、その当たり前の説法を嘲るように息を噴き出し、
冷笑的な口調で、守星神の名をまるで信仰の欠片も見せずに呼んだ。
「どうか、したのですか?」
アルムの見せる嘲笑の理由など想像がつかぬフィアシスは、
首を軽く傾げながら、アルムに問う。
フィアシスの中にあったアルムへの警戒心は消し飛び、
自らの思想を隠す事無く語る事の出来る相手に、
フィアシスは既に信頼すら寄せていた。
「いや、滑稽だと思ってな」
「滑稽? 何故ですか?」
左手を腰に当て、軽く俯き、苦笑を噛み潰すアルム。
己の信ずる神に敬称を付けて呼ぶという、人として当然の事を、
「滑稽」とまで言われれば、流石のフィアシスも気を悪くする。
フィアシスは怪訝な表情を浮かべると、
少しばかりの批難を混ぜた問いを、アルムに投げ掛けた。
「いずれ知る事になる。お前は……」
フィアシスの放つ怒気を察したか、
アルムは僅かに落としていた視線をフィアシスに戻し、小さく呟くが、
その言葉はまたしても、最後まで言い切られることが無かった。
「私は、何ですか?」
「……アルムという名を認めた発言を誰かに聞かれていたなら、
それなりの重刑を与えられただろうな」
続きを促すフィアシスに対し、
アルムは含み笑いを感じさせる口調で、フィアシスの言を指摘した。
何かを誤魔化した言葉であることは明白であったし、
無論、自らその名を騙り、
極刑に処されるべきアルムには、それを言う資格は無い。
「ぁ、そうですね。この事は秘密にして下さい」
それがアルムなりの冗談であり、
話題の転換であると理解したフィアシスは、
アルムに微笑みを返しながら、右手で口元を抑える。
「約束はし兼ねるが」
「そ、そんなぁ……」
幾らかの柔らかさを感じさせる声でフィアシスの頼みを承諾したアルムは、
本来の目的の為に、そのまま踵を返し、書庫の扉へと向かって歩き出す。
困ったような声を漏らしながらも、
初対面でここまで心を許せる相手が出来たという喜びに、
フィアシスは軽い足取りでアルムの後に続いて書庫を出た。
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