陽の章 第七項 ~交戦~


追い求めて、追い求めて、辿り着いた。

遥か彼方の大地、その荒涼たる岸に吹く風が、

今、私の髪を靡かせている。

幼い頃、海辺の家の窓から想いを馳せていた。

柔らかく湿った風に、

手を広げて。目を閉じて。息を吸う。

遠く、遥か異郷の空気。

ここから先は、誰も知らない未知の世界だ……



陽の章 第七項 ~交戦~


白と赤の国境より赤の国側へ三里と少し。

熱砂と砂嵐の地平線、グレイス砂漠の入り口となるラグナ平原。

赤と白の人塊は互いに向かい合い、睨み合う。


両者が動き出す気配は無い。

どちらも、その場を動かぬよう命ぜられているからだ。

命を下したのは、両軍を挟んだ中央で向かい合う、互いの将。


「こちらの要求通りに事が運び、実に喜ばしい限りだ。

 良く、あの女王が出陣を許可したな」


赤の国を率いるは、第一王女『緋鳳』ティニア。

幾度の戦場を経て敗北を知らぬ彼女の双腕は、

王位継承を待たずして最強と称されるに至った。


「常識的な判断を下したまでだ。

 わざわざ無駄な犠牲を出す必要も無い」


白の国を率いるは、禁忌の名を騙り、黒鉄の鎧を纏う剣士アルム。

剣術大会で振るった、誰の追随も許さない練度を誇る剣技は、

既に赤の国では『重大な脅威』に認定されている。


「なるほど。犠牲は最小限で、ということか」


意を得たりと、ティニアはくつくつ笑う。


彼女の頭の中で、己の敗北は初めから想定されていない。

そんなものは自信の無い臆病者だけが至る愚悩だ。

ティニアが想いを抱くのは、

噂に聞くアルムとの真っ向勝負と、その末の自分の勝利。

戦場に狂い咲く鮮烈な火花にこそ、ティニアは胸を焦がす。


「剣を交える前に、何か言っておくことはあるか。

 言い残しておくこと、でも構わないが」


初陣から今日まで、ティニアの戦場は勝ち戦ばかりだ。

それもその筈。敵は、自分が征く必要も無いような雑兵のみ。

時には、自分が剣を抜く間もなく、決着を迎える戦もある。

その意図も意義も理解しているし、不平を口にした事もない。


だが、だからこそ、これは絶好の機会。

相手は、己の真の実力を知らしめるに足る好敵手。

妹の怪我に託けて、という後ろめたさなど、

もはや歯止めにもならない。


ティニアの挑発の言葉に、殺気立つでもなく、

アルムは僅かに視線を巡らせる。


「そうだな……」


この身分不詳の剣士を打ち倒した後には、

不心得な黒鉄の兜を剥ぎ、素顔を晒し首を撥ね、

後ろに控える白の兵に投げて寄越してやろう。

どうせ、素顔を晒せぬ者の身の上など限られる。

公には死んだことになっている者や、

その地位に据えられる資格の無い者。

性別を偽っている者。

意外に、正視に堪えないほどの醜貌だ、

などという落ちであっても面白い。


ティニアは隠す気も無く口端を吊り上げるが、


「私刑としての決闘とあったが、後ろの者達も、

 私一人で相手にする必要があるだろうか」


次にアルムから放たれた言葉に、

思わずティニアは度肝を抜かれた。


この剣士は今、何を言ったのか。

赤の王女たる自分との決闘を前にして、

勝つつもりでいるどころか、場合によっては、

当事者として随伴した妹のクレミアを含め、

後ろに控える、千に及ぼうかという兵すらも、

自分一人で相手取ると言い放ったのか。


いや、それはまだ『好意的』な解釈だろう。

少なくともティニアが今の言葉から感じ取ったのは、

この剣士が、ティニアを後ろの兵達と同列に、

『物の数』程度にしか扱っていないという意図だ。


「……お前が相手にするのは俺だけだ。

 その生涯で、お前が剣を振る機会はこれで最後になる」


赤の血の滾りを、最早抑えられる道理もない。

ティニアは腰に携えた一対の双剣を抜き放つ。


刃は、滴り落ちそうなまでに鮮烈な赤。

『聖戦の女王・リーシェの髪の如き』とも称される、

深く研ぎ澄まされた赤銅色の輝きは、

一切装飾が施されていない質実な造りでありながら、

この双剣の価値が、如何なる宝にも劣らない証明だ。


赤の国でも最上の鍛冶師が、

持ち手の感覚に合わせて細かな調整を繰り返し、

妥協を許さず打ち上げた、

正真正銘、実戦で戦い抜くための至上の品。

二刀を扱うティニアのそれは、

左右の僅かな筋力の違い、太刀筋の癖に至るまでを、

実際に剣を振るいながら測り尽くし、

一目には分からない尺度で、

重さも長さも変えて誂えられている。


「そうか、こちらとしてもその方が都合が良い」


対するアルムも、静かに漆黒の剣を抜く。

噂に聞いた、ツキカゲの刀と思しき片刃の長剣。

ティニアは今の今までの怒りも何処へやら、

見開いた瞳を期待に輝かせ、身を躍らせた。


「行くぞ!」


悠然と佇むアルムに向かって、

眼前で交差するように双剣を構えて駆ける。

血が沸き、視界が収束し、世界の彩度が上がっていく。


「食らえぇっ!」


自分の間合いまで一気に距離を詰めたティニアは、

振り上げた両の腕を、雄叫びと共に振り下ろし、


「弓月」


その刹那、ティニアの腕は後ろに弾かれた。


「っ!?」


放たれた斬撃は、まさしく超速。

右足を摺るように踏み出したアルムは、

下段に構えていた黒剣の刃を正天に向けて振り上げた。

ティニアの鼻先を掠めたそれは、

初めからティニアの双剣の交点を狙ったもの。


「何という……!」


咄嗟に踵で地を蹴り、ティニアは距離を取る。


力で押し切れる、と踏んでいたティニアだったが、

正確無比に交点を打ち抜かれた剣は、

競り合うことさえも許されず弾き返されてしまった。

その衝撃たるや、彼女の人生に於ける、

最大の喫驚と言えただろう。


ただ、ティニアの頭は直ぐにも別の思考に移っていた。

今の一撃に対する明らかな違和感だ。

アルムに追撃の気配が無い事を見て取ると、

ティニアは腕を下ろし、息を吐く。


軽かった。軽過ぎるとも言って良い。

赤銅とも白銀とも似ても似つかない。黒鉄でもあろう筈がない。

では、アルムの握るあの剣は、如何なる材で出来ているのか。

耳を震わす残響もまた、金属同士のものではなかった。

あくまで憶測の域を出ないが、石器に近い材質。

自分の剣と打ち合って砕けない強度を持つ石類など、

果たして聞いたこともないが、

それがあの速さの正体ならば得心が行く。


「厄介な……」


相手の出方を見てから、隙を突く剣。

今の一撃も、自分の剣が先に動き始めたにも関わらず、

完全に力が乗る前に弾かれた。

尺の短い武器であれば潰すのは難しいことではないが、

あの長剣の間合いは自分のそれと等しい。

ならば、どう打ち崩すのか。


「まぁ、これしか無いか」


取り得る手段の中から迷いなく選んだのは、連撃。

左の剣を正面に、右の剣は肩に乗せ、

ティニアは呼吸を深くする。

口元は引き締まり、もう笑みの余韻も無い。


「安易だな」


「抜かせ。その一刀で受け切れると思うな」


先ほどの突撃とは打って変わり、躙り寄るような摺り足。

本来、ティニアが得意とするのは先の一撃のような突撃戦だが、

兵との組手では、手数や間合いの取り方に重点を置くことが多い。

今までに実戦で役立った試しはなかったが、

何事も経験しておくものだと、ティニアは一人頷く。


「ふっ!」


初手。右脚を踏み出しながら、

右の剣で切り下ろすように胴を払う。

手先で振るった剣を、アルムは水平にした刃で受けた。


続く左の剣は、刺突。

狙いは腕が上がり開いた右腋。

重甲冑を叩き潰すには渾身の一撃が要るが、

黒鉄に覆われない箇所ならば生身を斬るのと変わらない。


アルムは右足を引き、半身になってこれを回避。

想定済みではあったが、甲冑の重量を全く感じさせない、

この剣士の身のこなしに、改めてティニアは震慄した。


続けて、左腕を引き戻しながら、

アルムが視界を得ている兜の溝に左剣の刃を寄せる。

攻撃としての意味は成さないが、

眼前を切っ先が掠めただけで、

大抵の者は恐怖を、少なくとも警戒をせずにいられない。


後の攻撃の布石として狙ったものだったが、


「っ!」


弾かれた。

弾いたのはアルムの剣の柄尻だ。

初撃の右剣を押し返しながら、アルムが滑らせるように腕を引く。

それを知覚した瞬間、ティニアは直感で後ろに跳んだ。


左剣を受けた柄尻を支点にアルムの剣が弧を描き、

ティニアの右剣の鍔を擦り抜けるように切っ先が滑り、

今の今までティニアの首が在った場所へ向けて、

まるで水が伝うようにうねった軌道で到達する。


「ふむ……」


退いたティニアに対し、

またしても、追撃は無い。


「なるほど、攻め一辺倒というわけでもないのか」


アルムは早々に構えを戻し、

ティニアの力量を分析するように呟いた。

その呼気には、今の攻防の名残も感じさせない。


「こ……の……!」


一方のティニアは肩を怒らせ、目を血走らせる。

アルムの口から発せられた一言もさるものながら、

ティニアを最も憤慨させたのは、先のアルムの斬撃だ。


確かに自分の回避は十分に間に合ったが、

今のは回避する必要の無い一撃だった。

アルムの振るった刃は、その速さのまま振り抜かれる事は無く、

自分の首のあった場所の、僅か手前で静止していたのだ。


この剣士は、よりにもよって、

赤の第一王女『緋鳳』ティニアとの真剣勝負に於いて、

初めから寸止めにするつもりで剣を振るった。

思えば、開幕の一撃を潰された時も、

アルムはティニア自身を狙ってはいなかった。


「どこまでも舐めた真似を!」


怒りを露にするティニアに対し、

アルムは悠然とした佇まいのまま、更に言葉を続けた。


「得物については、申し分無いな。

 流石は赤の国といったところか、良く調整されているようだ。

 やはり、本人の力量が足りていないのが問題か」


「なっ……!?」


飛び出した言葉は、完全なる蔑視、愚弄。

確かに、ここまでの二度の攻防で、

自分の攻撃は有効打とならなかった。

それがこの剣士を調子づかせたのだろう。

だが、この程度の打ち合いで力量を測ろうなど、

烏滸がましいにも程がある。

ティニアは改めて肩を怒らせ切歯するが、


「ひとまずの力量は知れた。終わりにしよう」


静かに、緩やかに、アルムの声の温度が下がるのを感じ、

ティニアは意識もしないままに、足に力を溜めていた。

いつでも後ろに跳べるように、


「ちっ!」


跳ぶ必要など無い。

本能的に己が内に生じた逃げの姿勢を、

ティニアは舌打ちとともに吐き捨てる。


ティニアを真っ向に据え、正眼に構えた黒刃の、

その切っ先から向こう側で、確かに何かが変わった。

赤の民であるティニアに感じられたのは、温度の違い。

氷の彫刻を眼前に据えられたような、そんな悪寒だった。


「行くぞ」


「……来いっ!」


攻撃に転じることを宣言したアルムに対して、

ティニアは眼前に切っ先を交差させる形で迎え討つ。

もはや躊躇している暇など無い。

この剣士が自分から攻めるということは、

あの速さ、あの精度で、この身に凶刃が襲い来るということだ。


水面が揺らぐように下段に刀身を振り、アルムが地を蹴る。

重甲冑を鳴らしながらの踏み込みの速度は、ティニアが得手とする突撃と同等。

風鳴りを感じさせるほどの猛勢で、アルムがティニアの懐へと迫る。


「はあぁっ!」


先手を打つ以外に策は無い。

ティニアは敢えて左足を前に踏み込みながら、

左の剣をアルムへ向けて袈裟に振り下ろす。

小細工抜きの、体重を乗せた全力の一撃。

捻じ伏せることは出来ないだろうが、

この一太刀にアルムの黒刀を釘付ければ。


「ぐっ!?」


目算通りアルムの黒刃と打ち合った。

しかし、相手の得物よりも重く、重力にも従った筈の一太刀は、

その場には留まらず、容易く、明後日の方向に打ち払われる。


ティニアの一撃と交わる直前に軌道を大きく曲げ、

真横に薙ぎ払われたアルムの長剣。

ティニアの左腕は大きく後ろに弾かれ、

剣は脇の地面を抉って土埃を巻き上げた。

全力を込めていなければ、

ティニアの左手はその衝撃に耐えられず、

得物を取り落としていたことだろう。


「剣舞……」


ティニアの剣を払い除けたアルムの身が翻る。

踏み出していた右足の踵で地を蹴り、

前傾した身体を弾き戻したアルムは、

一撃目の勢いを殺すこと無く、左足を軸に身体を回転させた。


「っ!」


「蓮月!」


遠心力の乗った二撃目が迫る。同じく右側面からの切り上げ。

一撃目を弾かれた経験は、躊躇わず打ち合いを放棄。


「ちぃっ!」


左半身を退きながら、右の剣を差し出す。

先の一撃よりも更に鋭さを増した黒の刃。

ティニアは接触の瞬間を見計らい、右の剣を斜めに地に突き立てた。


地に繋ぎ止められた剣の刃を小削ぎ落とすように、

甲高い嘶きを上げ、盛大に火花を散らせ、アルムの剣が滑る。


地に触れる直前で引き戻された黒刃は、三度翻る。

次なる一撃は振り下ろし。またしても右側面。

先の二手を更に上回る速度の輪転は、

アルムの左手が剣の柄から離れたためと、ティニアは見て取った。


一撃目で弾かれた左腕は未だ間に合わない。

ティニアは地に突き立てた右の剣を振り上げながら、上体を反らす。


「ぐっ……!」


もはや斬撃としての体を成さない、崩れ切った型だが、

片腕で振るわれたアルムの剣と、辛うじて拮抗する。

いや、拮抗など、し得る筈がない。


「づあぁっ!」


右の一撃に併せて反らした上体を更に捻じり切り、

ティニアは渾身の力を込めて左腕を振り戻す。


拮抗し得るほどにアルムの剣が軽かったのは、

こちらの左腕が本命と悟ってのものだ。

この一撃をこそ、確実に潰しにくる。

それが分かっていても、もはや他に選択肢が無い。

右の剣を振り抜いたティニアには、

これより先、アルムの剣を防ぐ手立てが無い。


アルムの身が旋廻する。

再び両の手で柄を握ったアルムの一撃は、直上からの唐竹割り。

敗北は必至。それでも、腕が千切れんばかりに強く振り抜く。


響く刃鳴。


手首があらぬ方向に曲がった。

続いて、肩が外れるほどの衝撃。

左の剣が荒々と地を跳ねる。

辛うじてその場に踏みとどまるのが精一杯だった。


苛烈な一撃で以ってティニアの左剣を叩き落としたアルム。

その四度に亘る斬撃に於いて、

遂に澱みの生じなかった舞が、軸を変えた。


「っ……!」


転じて、左側面からの袈裟斬り。

受けることも避ける事も叶わない。

だが、それでもティニアの真紅の双眼は、

己が命を奪う凶刃を視界に捉えたまま、

黒鉄の兜の奥、今尚窺い知れぬアルムの瞳を凝視し続けた。

死してもなお灼炎の如き闘志で焼き殺さんという、

赤の戦士としての、


「……」


矜持だった。誇りだった。


「……き、さまぁっ!」


それを、完膚なきまでに、踏み躙られた。

黒の長剣の刃は微動だにせず、薄皮の一枚も傷付けること無く、

吸い付くように、ティニアの左首筋に添えられていた。


「真っ向から剣を交わした相手を、辱めるかっ!」


赤と白では戦いの流儀が違う。

だが、互いに一軍を率いる将が尋常の決闘を行ったならば、

その決着は一方の死によって齎されるべきだ。

この剣士の行いは、例え白の国の者であろうとも、

戦場に命を捧げた者として、あるまじき毀謗と言える。


「この決闘は、赤の第二王女への無礼に対する、

 詫びの意味で行われているものだ。

 無為に君を傷付けるようなことはしない」


ティニアの難詰の視線を受けながら、

なおもアルムは、冷然と己の立場を述べる。


確かに、この戦いの主旨は赤から白への誅罰。

だが、両者の姿勢、その顛末を見るならば、

ティニアがアルムに向けて、

どうぞ刎ねて下さいと首を差し出しているような、

まるで立場が逆転したかの如き有り様だった。


「決闘の勝敗は知れた。

 この先が不要であるなら、私は本来の責務に戻る」


にべもなく、黒の刃はティニアの首を離れ、鞘に収まる。

そこには勝利への余韻もなく、執着もない。


事前にアルムの言い放った、

後ろに控える兵達をも一人で相手にするのか否か、という言葉。

今ではもう、あれを慢心とも思い上がりとも言えない。

自分を容易く下したこの剣士であれば、

確かに他の者など物の数にすら入らないだろう。


故に、例え惨姿を後背に晒そうとも、

この場で後顧の憂いを絶たなければならない。

それが、グレイスの民全ての希望と信奉を背負う、

自分の成すべき命題である、とティニアは判断した。


返答を待ちもせずに踵を返し、

自陣へ向けて歩み始めたアルムの背へ、


「……待て」


ティニアは静止の声を投げた。


「剣術での負けは認める。

 だが、それで俺の全てを打ち破ったと思われては困る」


敗北は、誰の目にも明らかだ。

自分の背に注がれていた敬慕と忠誠の眼差しは、

或いは落胆の色に染まっているかも知れない。

ましてや、ここまでの大敗を喫してなお、

縋り付くように呼び止めた自分は、

どんなにも往生際が悪く、惨めに見えただろう。


「なるほど、君は『緋鳳』と呼ばれているのだったな。

 確かに紡月を見ずして決闘を制したとするのは早計か」


だが、白の陣営への半ば辺りまで戻ったアルムは、

首だけで振り向くと、いかにも納得した風に頷く。


「理解が早くて大変結構。なぁに、すぐに終わるさ」


この剣士の不遜極まる態度にも、

今回ばかりは謝意を感じずにはいられない。

向き直ったアルムに、ティニアは口元を歪める。

産まれながらに突出した紡月力を持つ王族が、

紡月での勝負など、初めから勝利が確定しているようなものだ。

勝利したところで何の誉れもない。


だが、その勝利は、今までの賞賛を全て犠牲にしてでも掴み取る。

そうでなければ、底の知れぬ脅威を国の未来に残すことになる。


「赤の紡月の真髄、しかとその身に焼き付けろ」


双剣の柄を握り込んだ両腕を上げ、

結った後ろ髪の位置で手首を交差させ、

意識を眼前の空間に固定する。


「アルム様っ!」


ティニアが大規模な紡月の姿勢を取るや、

白の一団から伝令役の兵が飛び出し、アルムに駆け寄る。

それを視界に捉えながらも、ティニアは心に留めない。


「ご撤退下さい! あれは赤の第一王女の『緋鳳斬』の構えです!」


己に危害が及ぶと見た途端に、狼狽し始めた白の軍勢。

それも無理からぬ事だ、とティニアは嗤う。

自分の誇る最大の紡月『緋鳳斬』は、極大の炎の紡月。

今の密集した白の軍の布陣であれば、

緋鳳は漏れ無く一撃で圧し呑み、焼き尽くすだろう。

無論、眼前に佇むたった一人の剣士など、

その醜怪な黒鉄の甲冑ごと消し炭にして余りある。


「あぁ、赤の王女の緋鳳は一度見ておきたかった。

 退く必要はない、全軍その場で待機」


「なっ!?」


自分の下に駆けつけた兵に対し、

アルムは語感を変えるでもなく言い放つ。

予想を裏切るアルムの言葉に、

兵は驚愕も顕に頓狂な声を上げる。

そのやり取りは、辛うじてティニアの耳にも届くが、

彼女は些事として意に介さない。


既に意識は己の内の深層に向かっている。

肉体に蓄えられた、世界の理に干渉する力。

赤の国グレイスの民に与えられた、紅蓮の火炎。


「……ぉぉぉぉぉおおおおおおおっ!」


灼炎は先ず魂を焦がす。

火傷しそうなまでに熱い闘争本能が心を満たす。


続いて肉体が沸く。

毛髪が逆立ち、口が渇き、鼓動は過多に早まる。


収まり切らなくなった力が溢れ出す。

眼球に紅い光が満ち、砂粒が足下から放射状に離れていく。


「アルム様! 撤退の指示を!」


「全軍待機だ。怪我をしたくなければ、その場から動かすな。

 そろそろ準備も整うようだし、撤退は間に合わないだろう」


既にティニアの耳には届いていないが、

アルムの言葉通り、ティニアの紡月は今正に完成しつつある。


「お前が何者かなど、もうどうでも良い!

 跡形も残さず消し飛べぇっ!」


ティニアの眼前の空間に、紡月の光が放たれた。

可視化した赤光は中空に一つの円を型取り、

その径をより大きく広げていく。


「くっ……全軍待機っ! その場を動くなぁっ!」


「行くぞっ!」


「……来るか」


怒号が飛び、浮き足立つ白の軍勢。

ただ一人悠閑に佇むアルム。

視界に映る全てが鮮紅に染まるなか、

ティニアは右の足を大きく踏み出す。


「緋鳳……ざあああああぁぁぁぁぁんっ!!!」


揺るがぬ勝利への確信を雄叫びに乗せ、

ティニアは双剣を渾身の力で振り抜いた。

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